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女子教育、保育、児童教育、幼稚園史に名を残した豊田芙雄の、数奇な運命。

 <ひと物語 幕末~明治>児童教育に尽くした 豊田芙雄(中)

 豊田芙雄と小太郎の結婚生活は、わずか四年ほどでした。
 開国派の彼は反対派に暗殺されます。
 以来、芙雄は独身を通します。
 それは、小太郎が脱藩して水戸から京都に旅立つ時、
 「心を鬼にしておれよ」と告げ、出て行ったことと関係します。
 つまり、小太郎のこの言葉こそ芙雄のその後の人生を決定づけたからです。
 芙雄は、「心を鬼に…」とは自分に厳しく他に依存せず、
 自分の進む道は自分で決める自立心と、理解したのです。
 「この時でした。名を冬から芙雄に改めたのは。
 そのため、改名には彼女の決意が込められています」
 笹目礼子・県立歴史館歴史資料課長はそう説明します。
 なお、「芙雄子」の名も用いるが、
 女性に「子」をつけるのは一般的で、他意はないとのことです。
 「心を鬼に…」の言葉は夫の遺言です。
 芙雄は遺言を終生の支えとして自立の道を歩みます。
 自立の道とは、教育者として立つということでした。
 芙雄は結婚当時も向学心が強かったが、
 夫の死後、実家に戻り、蔵書の四書五経や和書を再読。さ
 らに夜間には漢学塾に通います。
 この時、彼女は懐中に短刀を忍ばせ、
 提灯もつけずに夜道を通ったといいます。
 なにしろ、水戸藩は天狗騒動の最中。
 いつ身に危険が及ぶか分かりません。
 それにもひるまず、芙雄はひたすら学問に励みます。
 時代は明治に変わり、世情も次第に落ち着く一八七〇(明治三)年、
 芙雄は私塾を開き、近所の児童たちに漢学などを教えます。
 これが彼女の、教育者としての第一歩でした。
 これを機に、教育者としての才能も開花します。
 開塾から三年後、発桜女学校が開校すると教師の依頼を受け、
 三十数名の塾生とともに移ります。
 同校は茨城県で最初の県立女学校でした。
 校名は藤田東湖が詠んだ『正気の歌』の
 「発(ひらい)ては万朶(ばんだ)の桜」から採ったと言われます。
 そのうえ、同校は、嫁ぎ先の豊田家跡地に設けられたもの。
 恐らく、芙雄はくしき因縁に感慨深いものを覚えたはず。
 さらに七五年には、
 東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大)に招聘されます。
 満三十一歳でした。
 (ノンフィクションライター・岡村青)
 <参考文献> 「日本幼児教育の先覚」(渡辺宏、崙書房)
 (2018年12月2日「東京新聞」電子版)

豊田芙雄がその数奇な、歴史に名を残す運命を手繰り寄せられたのは、
彼女自身の強い意志、学ぶ意欲、教える意欲だったわけです。
発桜女学校の開校は、明治6(1873)年。
まさに文明開化とともに、豊田芙雄は、自分の人生を切り開いていったのです。
 2019_04_18


保育史、という課題にも関心がありますが、まずはこの人、豊田芙雄。

 <ひと物語 幕末~明治>児童教育に尽くした 豊田芙雄(上)

 希望する認可保育所に、
 なかなか入れない待機児童の解消が求められています。
 子どもたちは将来を担う大切な人材だけに、幼児教育を軽視してはいけない。
 豊田芙雄(とよだふゆ)が存命であれば、このように語ったに違いありません。
 「彼女はわが国の保母第一号として児童教育に尽くされました。
 誕生した時の名は冬でしたが、その後、芙雄、芙雄子などを使い、
 一般的には芙雄と言います」
 笹目礼子・県立歴史館歴史資料課長はそう説明します。
 これに従い、「芙雄」を使います。
 芙雄は一八四五(弘化二)年十月、現在の水戸市で生まれます。
 父の桑原治兵衛は水戸藩士。
 母の雪子は藤田幽谷の次女。藤田東湖の妹でした。
 幽谷、東湖といえば、尊王攘夷の水戸学を確立し、
 藩内だけでなく他藩にも大きな影響を与えた学者でした。
 このような血脈を受け継ぎ、芙雄も才能豊かでした。
 幼少時代から母親に詩歌を聞かされます。
 十四歳ごろには書道や女礼式を学び、裁縫も身につけ、
 さらに父親からは和漢を学び、他の女性から薙刀の手ほどきを受けるなど
 文武両道の習得に大わらわです。
 けれど、十一歳の時に、母親が死去。
 続いて十七歳の時に、父が他界するなどの不幸に見舞われます。
 心の空白を埋めたのは豊田小太郎との結婚です。
 彼は幽谷らに学んだ学者の豊田天功の長男。
 天功は桑原と親しく、小太郎は、
 芙雄の兄の力太郎とは兄弟同様に交わります。
 このような関係から芙雄は小太郎に嫁ぎます。
 一八六二(文久二)年六月でした。
 結婚生活はわずか四年ほどでした。
 六六年九月、小太郎は刺客に暗殺されたからです。
 時代は開国か鎖国かで騒然とし、殺気立っていました。
 特に、水戸学の影響が濃厚な水戸藩は対立で分裂状態でした。
 小太郎は蘭学研究に努めていた関係で海外事情に精通。
 開国に理解を示し、「開国進取の大計を定めたい」との思いを抱いて
 水戸藩を脱藩し、同志とともに京都に向かいます。
 彼の開国論は攘夷派には目ざわり。
 京都堀川で暗殺されます。三十三歳でした。
 けれど、夫の死が芙雄の人生の大きな転機になるのでした。
 <参考文献> 「日本幼児教育の先覚」(渡辺宏、崙書房)
 (2018年11月18日「東京新聞」電子版)

豊田芙雄は弘化2(1845)年の生まれ、日本で最初の保母とされます。
彼女の人生は、夫・豊田香窓(小太郎)の非業の死から、新しく動き出します。
明治になり、東京女子師範学校の読書教員になります。
それも、両親から受けた厳しい教育が下地になったのでしょう。
藤田東湖の姪なのですが、そういえば、「いだてん」で杉本哲太さんの演じる、
東京師範学校の教員、永井道明は、藤田東湖の親戚でした。
永井道明の祖父である政介が、藤田東湖の従兄弟なのだとか。

余談
「なつぞら」はもちろん、再放送の「おしん」がいかにも面白い。
何と言っても、子役時代の小林綾子さんのけなげな演技がすごい。
奉公先を逃げ出したおしんと、逃亡兵の兄ちゃんと隠れてくらす、共同生活。
そこで、おしんははじめて庇護される「子ども」として扱われる。
 2019_04_17


尚友倶楽部・季武嘉也編『三島弥太郎関係文書』(芙蓉書房出版、2002年)に、
明治26(1893)年11月23日付の大山捨松の書簡が掲載されています。
三島弥太郎宛て、原文は英文、訳文が付された、大山捨松の怒りの書簡です。
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-4915.html

 三嶋子爵閣下に呈す
 昨日送呈されたる貴君の書状に対し妾は只最期の数言を呈せんとす。
 妾は我等が此度の事に及びしは貴君の家族に於て新日本の男子は固り、
 古代日本の義士と雖ども嫌悪する所の所望を顕はし
 他に方法なかりしに因れり。
 妾は表面上我等の方より名誉上拠なく申出しと雖ども、
 離縁之責任は全く尊君と尊君の家族に在る事を明知せられん事を望む。
 妾は日本が未だ野蛮にして男子をして病気の故を以て
 其妻を去らしむるが如き事有るを悔ゆ。
 然れども妾は日本と雖ども尚外国の教育を受けて
 道理と不道理を弁別するの明を失し
 数個の愚婦の命令に従ふ如き者の少なきを悦ぶ。
 茲に此度の事か娘に知れざる以前
 貴君より妾が娘に送られたる二通の書状と
 娘より尊君に宛たる書状にして
 大山伯爵が手元に止め置きたる者を送付す。
 妾は此事の記念として妾より尊君に宛たる此書状の写しを保存すべく
 尊君の又之を保存せん事を望む。
 (友倶楽部・季武嘉也編『三島弥太郎関係文書』芙蓉書房出版、2002年)

これは、久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』(中公文庫、1993年)引用の、
明治26(1893)年(?)の11月22日付、三島弥太郎の手紙への返信か。
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-4877.html
闘病中の大山信子は、三島家の事情から勝手に離婚を決められた。
その一方的な決定への弁明が、三島弥太郎の大山捨松への手紙でしょうか。
大山信子自身の意思を顧みず、病気を理由に婚姻を解かれる理不尽を、
大山捨松としては、決して許せなかったわけです。
なぜなら、三島弥太郎は、自分と同じく、アメリカで教育を受けた紳士だから。
離縁は、「名誉上」、大山家側からの申し出ということになるけれども、
その責任は三島家側にある、といった主張なのかと思われます。
同時に、大山巌が預かっていた、大山信子の手紙を2通、同封したようです。

余談
「わたし、定時で帰ります」、主人公にはポリシーがあるけど、共感力もある。
 2019_04_16


さて、渡辺留子の家と三島家の不思議な縁はまだ続きます。
渡辺留子の息子、昭が、ボーイスカウトに関わることになったからです。
渡辺昭がボーイスカウト運動に関係することになったのは、昭和9(1934)年。

 「その頃の日本のボーイスカウトは二荒芳徳(ふたらよしのり)
 (初代理事長・旧宇和島藩主伊達宗徳の九男で貴族院議員)さんと
 三島通陽(みちはる)(第四代総長・貴族院議員、
 父親は前述の『不如帰』のモデルとなった三島弥太郎)さんが
 中心でやっておられた。
 そのお二人から私にもぜひ入って
 一緒に手伝ってくれないかと誘われたんだよ。
 それから今日まで、六十年以上も関わることになってしまったけれどね」
 (久野明子『昭和天皇 最後の御学友 ある華族の一世紀』
 中央公論社、2000年)

三島弥太郎の長男であった通陽、母は四条隆謌侯爵の三女・加根子。
ここに再び、ボーイスカウトを通じて、渡辺家と三島家の関わりが見られます。
昭和48(1973)年まで生きた渡辺留子は、どう思ったことでしょう。
渡辺昭も、ボーイスカウト日本連盟の総コミッショナー、
世界スカウト機構世界委員会委員、ボーイスカウト日本連盟総長を歴任。
当時の上流社会は狭い世界ですが、やはり縁を感じさせます。

余談
「平成万葉集」、年末年始にもやっていたけれど、見られなかった。
いい企画、年号が決まる前から「万葉集」だった。
明日から始まる、フジテレビの21時からのドラマ初回が14分延長、
TBSで22時から始まるドラマ初回と、14分重なってしまう。
これって、お互いにとって不利益になる。
TBSを見ようと思えば、14分が重なるなら、フジテレビを諦めてしまうし。
その逆も当然ありえるわけで、ドラマ業界のよくない習慣だと思う。
 2019_04_15


渡辺留子を再生させたのは、短歌、そして、外交官や音楽家と交流すること。

 大正十一年(一九二二年)頃、
 ジャック・ゲルシェコヴィッチというシベリアの交響楽団の指揮者が、
 ピアニストの妻を連れてロシアから日本に亡命してきた。
 西洋音楽が大好きだった留子は、二人をしばしば自宅に招き、
 サロンコンサートを催したり、娘たちにピアノを習わせたりした。
 しばらくすると、ゲルシェコヴィッチや
 他の亡命音楽家たちとの付き合いを通して、
 留子はとてつもない夢を抱くことになった。
 留子は自分がパトロンとなって、
 日本にも本格的編成のオーケストラを作ろうと考えたのである。
 
これは、『火の鳥』のパトロンになること以上に、壮大な「夢」でしょう。
幼少の頃から西洋文化に触れ、ロンドンで暮らした経験もあった留子ならでは。

 大正十二年(一九二三年)の夏になると、
 留子の夢はもはや夢ではなくなっていた。
 財界の大物、大倉喜八郎の長男大倉喜七郎が
 財政的な援助を約束してくれたし、上海からコンサートマスターも招聘された。
 この交響楽団の披露演奏会は九月一日、
 場所は大倉がオーナーである帝国ホテルに決まっていた。
 同じ夢を持つ演奏家たちは、その日にむけて日夜練習に励んでいた。
 しかし、まさに演奏会の当日の正午、関東大震災が襲ったのである。
 とても音楽会どころではなくなってしまった。
 東京が再び立ち直った頃には、
 指揮者のゲルシェコヴィッチはアメリカに渡ってしまい、
 団員はそれぞれの別の道を歩み始めて、
 留子の夢はあえなく消えたのであった。
 それから数年後、こうした環境の中で育った息子の光が、
 周囲の強い反対を押し切って声楽家となるべく、
 勘当同然でイタリアに留学することになるとは、
 この時、留子は思いもよらなかったにちがいない。
 (久野明子『昭和天皇 最後の御学友 ある華族の一世紀』
 中央公論社、2000年)

その壮大な夢を打ち砕いたのは、関東大震災でした。
しかし、被災したアメリカ大使館の人たちが渡辺家の隣に越してきて、
渡辺留子は、彼らをしばしば自宅に招き、もてなしたのだとか。
渡辺家のサロンには、アメリカ以外の国々の大使館の職員たちが、
夫人や娘を連れて集まるようになり、渡辺留子の社交性が発揮されたのです。
渡辺家の子どもたちは、東洋英和の婦人宣教師から英語を習ったという。
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-3580.html
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-3581.html

余談
「いだてん」、二階堂トクヨが初登場! これからの二階堂トクヨが楽しみ。
小学校の体育館に肋木があったなぁ、と思い出す。
また、大嫌いだったドッチボールの考案者が可児さんだとは。
 2019_04_14



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