2017
09.19

大正のなでしこたちの1枚の写真

Category: 女子教育
日本の女子サッカーの夜明けは大正時代の丸亀、は1枚の写真から。
『サンスポ』の丸山汎さんのコラムに、次のようにありました。

 一枚の写真から~大正時代のなでしこたち~

 ある古い写真に、強くひかれている。 
 見れば見るほど引き込まれてしまうのは、
 そこにいる少女たちの表情があまりに生き生きとしているからだ。
 はかま姿で手ぬぐいを頭にかぶり、
 誰もが目を輝かせて地面のボールを追いかけている。
 チーム分けなのだろう。
 何人かは白いたすきを肩からかけて。
 これは今から91年前の日本の一瞬の場面を切り取った写真だ。
 撮影されたのは1924(大正13)年とみられ、
 下には「香川縣立丸亀高等女學校運動會」「フットボール」の文字がある。
 現在までに発見されている、日本で最古の女子サッカーの写真なのである。
 「どうして丸亀で女学生たちがサッカーをしていたかについては、
 諸説あります」と説明するのは、
 所蔵する丸亀市立資料館の学芸員・大北知美さん。
 大正時代、第一次世界大戦で丸亀市内にはドイツ人の俘虜収容所が作られ、
 そこから「フットボール」が伝えられたとの説もある。
 当時丸亀のドイツ人捕虜たちは、週一度は
 市内の日本庭園や海岸でゴルフなどを楽しむ自由も与えられていたという。
 彼らが後に移された徳島県の板東俘虜収容所で、
 わが国初のベートーベンの「第九」の演奏会を行ったことはつとに知られている。
 日本人の優しさに感激し、
 戦後も本国送還を断って日本残留を決めたドイツ兵は、およそ170人を数えた。
 サッカー自体は日本には1873(明治6)年に英国海軍の将校により
 伝えられたとされるが、いずれにしても、邂逅した新しい異国の競技を、
 積極的に楽しもうとする自由闊達な気風が丸亀にもあったのだろう。
 それだけではない。
 「これはただの写真ではなく、当時売られていた絵はがきなんです」と
 大北さんは言う。
 おしとやかなはず(?)の大正の大和撫子たちが、お転婆ぶりを隠さずに、
 審判役の先生もそっちのけに、前のめりに笑顔でゴールを目指している。
 まるで彼女たちの上げる大きな歓声までが聞こえてきそうだが、
 こんな楽しそうな風景を、
 当時の丸亀の人たちは胸を張って世に紹介したのだろう。
 その「日本女子サッカー発祥の地」で、5月18日から
 日本女子代表「なでしこジャパン」が、6月開幕のカナダ女子W杯に向け、
 いよいよ直前合宿をスタートさせる。
 日本の連覇の懸かる注目のW杯。
 始動の地が丸亀になったのも一つの運命なのかも知れない。
 (2015年5月17日『サンスポ』)

なぜ丸亀だったのかについては、ドイツ人の俘虜収容所と関わりが?
写真として残っていなくても、東京の女学校とかでは早い例がないのだろうか。
当時、絵はがきというメディアの意味はどうだったか。
写真が撮られたのは大正13(1924)年、記録が残っているのは明治39(1906)年。
そういえば、女子バスケを導入したのは、成瀬仁蔵の梅花女学校とか。
2017
09.18

「大正時代のサッカー女子」

Category: 女子教育
ネットの波に乗っていて、「大正時代のサッカー女子」の記事に出会いました。
女子サッカーの発祥が丸亀の女学校である、とは知られた話ですが、
この記事によれば、2011年に発見された絵はがきや領収書が根拠なのか。

 香川)大正時代のサッカー女子 丸亀高校演劇部が上演へ

 日本の女子サッカー発祥の地とされる丸亀高校で、
 演劇部の生徒たちが大正時代のサッカー女子の姿を描いた
 「フートボールの時間」を上演する。
 部員たちは「当時、立場の弱かった女性が、
 時代にあらがうようにボールを追った心情に迫りたい」と話している。
 1920(大正9)年の旧丸亀高等女学校(現丸亀高校)が舞台。
 女学生の間に広まりつつあったフートボールに理解を示す
 教師や女学生がいる一方、「女のくせに」と批判する大人たちもいる。
 複雑な人間関係のなか、ルールを教えてくれた教師が退職。
 サッカーを愛した女学生も見合い結婚をして退学する、といったストーリー。
 脚本を書いた演劇部顧問の豊嶋了子教諭は
 「当時の女性は、本音では思い切りボールを蹴って、
 もっとおおらかに生きたかったのでは。
 同年代の部員たちだから、そんな気持ちをうまく表現できる」と期待している。
 16人の部員は舞台衣装を手作りし、はかまは通販で購入。
 6月半ばから稽古を始めた。
 最近、丸高で見つかった当時の女学生の作文のなかに
 「フートボール」の言葉があり、タイトルが決まった。
 結婚する女学生の母親を演じる部長の長井ゆいさん(16)は
 「大正時代を想像しながらの役作りに苦労しました。
 女学生たちのもどかしさを感じてもらえたらうれしい」と話している。
 丸高では2011年、はかま姿でサッカーをする女学生の姿を撮影した
 大正時代の絵はがきやボール購入代の領収書が見つかり、
 「日本の女子サッカー発祥の地」との説が有力になっている。
 劇は文化祭「斯文祭(しぶんさい)」の2日目、10日午前11時50分から、
 第2体育館で上演される。
 (2017年9月7日「朝日新聞」電子版)

女子高生たちによる劇が、結局は「見合い結婚をして退学する」のは象徴的。
サッカーが「時代」への抵抗であったのだとすれば、尚更に。

余談
テレビというメディアで勝負した作品なら、それを最後まで貫いてほしい派。
2017
09.17

「大漢和辞典 ゲラ刷り山梨・都留に疎開」

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ネットの波に乗っていて、こんな記事を発見しました。
戦時下、『大漢和辞典』のゲラが山梨に疎開していた、という事実。

 大漢和辞典 ゲラ刷り山梨・都留に疎開 地元図書館が報告

 山梨県都留市の戦後72年企画「市民の記憶を語り伝える会」
 (同市教委主催)が30日、同市中央3の「市まちづくり交流センター」であり、
 都留文科大初代学長の漢学者、諸橋轍次博士(1883~1982年)の
 「大漢和辞典」(大修館書店)のゲラ刷りが戦火を逃れ、
 旧宝村(現都留市)にあった宝鉱山(戦後、三菱金属鉱業宝鉱山に改称)に
 疎開していた経過が報告された。
 戦中戦後の三十数年の歳月と延べ25万8000人の人員を費やして
 完成されたといわれる世界的大著に、
 三菱の鉱山を通して都留市が深く関わっていた事実が分かった。
 都留市立図書館によると、「大漢和辞典」は大修館書店(東京・神田錦町)と
 1928年に編さん約定が成立。
 太平洋戦争開戦前の41年10月までに1万4000余ページ、
 全12巻の組み置き原版が完成し、そのゲラ刷り3組が作られた。
 43年9月に第1が発行されたが、
 45年2月25日の東京への米軍機の空襲で、組み版は焼失した。
 戦後の55年に第1巻が刊行され、
 諸橋博士は刊行までの経過を記す「月報」で
 「三菱の故岩崎小弥太男爵の好意で甲州の山奥に蔵した」とし、60年、
 博士は全13巻が完成した際には疎開先を「宝鉱山の倉庫」と記している。
 「大漢和辞典」は最終的に2000年に出た補巻を含めて全15巻、
 実に70年を超える年月が費やされて完成した。
 同図書館では「疎開したゲラを元に戦後に写植して大漢和が完成した。
 諸橋博士と山梨県への『本の疎開事業』を伝えていきたい」としている。
 (2017年7月31日「毎日新聞」電子版)

『大漢和辞典』のゲラは、「三菱の故岩崎小弥太男爵の好意」によって、
三菱の鉱山があったことから、山梨に疎開した、とのこと。
岩崎小弥太は、三菱財閥の4代目総帥で、母は後藤象二郎の長女の早苗とか。
諸橋轍次博士の三男、諸橋晋六さんは三菱商事の社長、会長を歴任。
岩崎小弥太は、諸橋轍次博士の中国留学を支援し、
留学後、静嘉堂文庫長に委嘱するなど、関係は深かったよう。
2017
09.16

「第二の樋口一葉」と言われた林真理子の母

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今年、林真理子さんの母、みよ治さんが101歳で亡くなりました。
みよ治さんは、林真理子さんの小説『本を読む女』のヒロインのモデル。

 林真理子 創作の原点は「第二の樋口一葉」と言われた亡母

 「私は真理ちゃんなんかより、もっとすごい作家になっていたかもしれないよ」。
 作家・林真理子さん(63)の母・みよ治さん(享年101)は、そう漏らしたという。
 作家になれなかった母の、作家になった娘への、
 どれほどの思いが込められているだろうか。
 だが、2人は、生き方において よきライバル だったに違いない――。
 「母が亡くなって1カ月たったんですけど、なんだか実感がなくて。
 うちの弟とも『どうしてだろうね』と、話しているんですけど」
 そう林真理子さんは現在の心境を語る。
 これまで、エッセイのみならず、インタビューなどでも、
 母と娘のさまざまなエピソードは幾度となく披露されてきた。
 みよ治さんをモデルにした小説『本を読む女』もある。
 林さんにとって、かけがえのない、敬愛する母だった。
 みよ治さんは大正4(1915)年9月1日、山梨市で生まれた。
 実家は「清水屋」という菓子店で、7人きょうだいの6番目。
 尋常小学校5年のとき、児童文学誌『赤い鳥』に、
 「猿芝居」と題した作文が掲載され、学校どころか、県をあげて評判となる。 
 「第二の樋口一葉」とまでうたわれた才女だった。
 「文学少女だった母は、3年制の女子大で文学をやりたかったんです。
 作家になりたかったという夢もあって」(林さん・以下同)
 女に教育は必要ないとされた時代、「女子大はアカの巣だから」と、
 女学校の校長に反対され、大学を断念。
 だが山梨で女学校を出た後、東京の、
 現在の女子大に相当する女子専門学校(女専)に進学する。
 当時の山梨では希有なことだった。
 「母が通ったのは、今の東京家政学院大学です。
 千代田区三番町にあり、エレベーターもあって、
 『源氏物語大成』を編纂した池田亀鑑先生や
 東京女子医学専門学校を創設した吉岡彌生先生など、
 すばらしい先生方もいて、すごくいい学校だったようです」
 卒業後は福島県相馬の中村女学校(相馬高校の前身)で教師になり、その後、
 同郷の知人で、出版社・旺文社を起こした赤尾好夫氏を頼って、上京する。
 当時の彼女の口癖は、「結婚なんて嫌さ」。
 旺文社の事務員になったみよ治さんは、
 自立したキャリアウーマンの草分けだった。
 「ただ、30歳近くて未婚の女の人なんて、当時はもう変人のような扱いで。
 母は、結局、赤尾さんの勧めで、父と、お見合い結婚したんです」
 父・林孝之輔さんは、見合い当時は銀行勤務だったが、
 満州の国策会社に入れば、2度目の徴兵は回避できるという噂を信じ、
 結婚まもない昭和19('44)年、夫婦で満州に渡る。
 だが、満州に渡って半年で2度目の赤紙が来た。
 「出征した父は、その後9年間も行方しれずになるんです」
 終戦は山梨で迎えた。
 「終戦後すぐ、母は上京して、赤尾邸に住み込みました。
 赤尾さんは、アメリカの偉い人たちを招いてパーティを開き、
 母も楽しくやっていたようです。
 しかも、姉妹のような仲のよかった赤尾さんの妹さんは、
 すごいお金持ちの奥様で、人脈も広くて。
 あのまま東京で暮らしていたら、母は自分で会社を起こしたかもしれないし、
 作家になっていたかもしれません」
 しかし、みよ治さんには試練が待っていた。
 長兄が結核で亡くなり、山梨に呼び戻されたのだ。
 「仕方なく山梨に戻った母は、伯母と一緒に、兄の子ども3人を育てていく。
 そのとき、菓子店の間口を借りて、
 自分の蔵書を売るところから、林書房を始めるんです。
 東京の神田まで、かつぎ屋をやって、本を仕入れて満員列車で帰ってくる。
 昭和23('48)年ごろかな。
 太宰治の『斜陽』を、電車を待ちながらホームで読んで泣いたと、話していました」
 その下りは『本を読む女』のエンディングになっている。
 「母は、『本当はこんなところにいるべきじゃない』と、終始、言っていました。
 じゃあ、 いるべき場所 ってどこなんだろうって思っていたのが、
 私の妄想、創作の原点。
 つまり、私の原点には、母の こんなはずじゃなかった人生があったんです」
 その妄想が、後に小説家として花開くことになる。
 昭和57('82)年11月、林さんは
 エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』で、作家デビュー。
 4年後、「最終便に間に合えば」「京都まで」で、直木賞を受賞する。
 このとき、みよ治さんはこんな手紙を娘に送っている。
 《真理ちゃんのおかげで、幸福です。よく頑張ったわね。ありがとう》
 「私がいま、自由に楽しく生きていることは、母のために、母ができなかった
 人生の第2ラウンドを、私が闘っている感じがあるのかもしれません。
 あんなに頭のいい人だったのに、戦前の価値観や道徳が母を縛ってしまった。
 時代が違うとはいえ、それはやっぱりかわいそうだったなと思います」
 (WEB女性自身/2017年8月19日)

みよ治さんは、日本女子大学校を受験することはできませんでしたが、
それでも、現在の東京家政学院に入り、教師になりました。
その後の人生もキャリアウーマン一筋、だったはずなのに、そうはいかない。
作家になる夢は破れ、しかし、山梨の故郷で林書店を開き、
そして、彼女の娘(林真理子)は作家になった。
2017
09.15

「片岡球子、城山に眠る 疎開先・浄永寺との約束」

Category: 日記
ネットの波に乗っていて、こんな記事を発見しました。

 片岡球子、城山に眠る 疎開先・浄永寺との約束

 昭和~平成時代に、型破りな構図と独特の色使いで活躍した
 日本画家・片岡球子。
 教育者の顔も持つ彼女は今、
 教員時代の思い出の地・光秀山浄永寺(城山)で永久の眠りについている。
 球子が小田原にやってきたのは終戦1年前の1944年8月のこと。
 戦禍を逃れ、大岡国民学校(横浜)の児童を連れ、浄永寺に疎開してきた。
 当時、小学3年生だった中橋教樹住職(83)は
 「子どもにも、自分にも厳しい方だった」と記憶している。
 率先して寺の掃除を買って出たり、
 熱を出した児童に一晩寄り添って看病するなど、
 模範となるべく自らの行動で示していたという。
 子どもたちを寝かしつけた後は、6畳一間の一室で、
 夜な夜な創作活動に没頭していた。
 浄永寺とのつながりはその後の作品にも反映され、
 代表作の一つ『面構・日蓮』は
 同寺の日蓮聖人木像をデッサン=写真=して、仕上げたとされている。
 終戦後、球子は先代住職の故・中橋教徹氏に
 「私が死んだら、ここにお墓をお願いしたい」と告げて帰浜。
 以後、愛知芸大で学生らに教鞭を取りながら、
 『面構』や『富士』シリーズなど次々と世に送り出した。
 その間、手紙や贈り物のやり取りなどを通し、
 寺との縁は途切れることがなかった。
 2008年、103歳の寿命を全うした球子。
 生前の約束を継ぎ、境内奥に建立された墓所には、直筆の名が彫られている。
 かつての教え子が時折参る姿もあり、
 彼女の姿を見て教員の道を歩んだ中橋住職は
 「個性を曝(さら)け出す描き方、生き方を示してくださった」と語った。
 (2017年5月20日「タウンニュース」)

疎開先で生徒たちに厳しく接しつつ、夜中には創作活動をしていた、片岡球子。
いい時代ではなかったのかな、と思ったりもしますが、
片岡球子にとって、何か心に残る、画家として成長した時期だったのか、
よほど小田原が気に入り、今は疎開先だった寺に眠るとか。

余談
「ひよっこ」、名前にこだわってきた作品、時子は「和泉真琴」という芸名に。
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