三原4位、白岩6位

グランプリシリーズ第5戦のフランス大会、女子シングルでは、
やはり順位の変動があり、三原舞依は4位、白岩優奈は6位でした。

 女子シングル結果
  01、アリーナ・ザギトワ(ロシア)…213.80
  02、マリア・ソツコワ(ロシア)…208.78
  03、ケイトリン・オズモンド(カナダ)…206.77
  04、三原舞依…202.12
  05、エリザべート・トゥルシンバエワ(カザフスタン)…200.98
  06、白岩優奈…193.18
  07、ニコル・ショット(ドイツ)…172.39
  08、マエ・ベレニス・メイテ(フランス)…171.40
  09、エリザベータ・トゥクタミシェワ(ロシア)…167.65
  10、ポリーナ・エドモンズ(アメリカ)…157.77
  11、ロリーヌ・ルカブリエ(フランス)…154.35

この結果、日本期待の三原舞依は、ファイナル進出はなりませんでした。
ただ、その分、最終代表選考会を兼ねた全日本選手権への調整にに集中できる。
エフゲニア・メドベデワ(ロシア)、アリーナ・ザギトワ(ロシア)、
マリア・ソツコワ(ロシア)、カロリーナ・コストナー(イタリア)の進出が確定です。
そして、男子シングルSPでは、宇野昌麿が2位と好位置につけました。

 男子シングルSP結果
  01、ハビエル・フェルナンデス(スペイン)…107.86
  02、宇野昌磨…93.92
  03、アレクサンドル・サマリン(ロシア)…91.51
  04、モリス・クビテラシビリ(ジョージア)…86.98
  05、オレクシイ・ビチェンコ(イスラエル)…86.79
  06、ミーシャ・ジー(ウズベキスタン)…85.41
  07、デニス・テン(カザフスタン)…83.70
  08、マックス・アーロン(アメリカ)…78.64
  09、ケヴィン・エイモズ(フランス)…70.00
  10、ヴィンセント・ジョウ(アメリカ)…66.12
  11、ロマン・ポンサール(フランス)…63.81

ハビエル・エルナンデス、ブライアン・オーサーコーチの帯同で実力発揮。
宇野昌麿は、インフルエンザ罹患の影響か、4回転フリップで転倒。
しかし、スピン、ステップではレベル4をきちんと獲得でき、2位。

 男子シングルFS滑走順(11月19日04:45~)
  01、ヴィンセント・ジョウ(アメリカ)
  02、ロマン・ポンサール(フランス)
  03、デニス・テン(カザフスタン)
  04、マックス・アーロン(アメリカ)
  05、ケヴィン・エイモズ(フランス)
  06、モリス・クビテラシビリ(ジョージア)
  07、オレクシイ・ビチェンコ(イスラエル)
  08、ミーシャ・ジー(ウズベキスタン)
  09、アレクサンドル・サマリン(ロシア)
  10、ハビエル・エルナンデス(スペイン)
  11、宇野昌麿

宇野昌麿、FSはハビエル・エルナンデスの直後、最終滑走です。

余談
「わろてんか」、楓さんは新聞記者になり、歌人を目指している。
そういえば、「はいからさんが通る」では、環が新聞記者、紅緒は雑誌記者。

Tag:フィギュアスケート 

白岩が3位、三原4位発進

さて、グランプリシリーズ第5戦のフランス大会、女子シングルSPが行われ、
白岩優奈が3位、三原舞依が4位につけました。
首位はケイトリン・オズモンド、エリザベータ・トゥクタミシェワが最下位の波乱。

 女子シングルSP結果
  01、ケイトリン・オズモンド(カナダ)…69.05
  02、マリア・ソツコワ(ロシア)…67.79
  03、白岩優奈…66.05
  04、三原舞依…64.57
  05、アリーナ・ザギトワ(ロシア)…62.46
  06、エリザべート・トゥルシンバエワ(カザフスタン)…62.29
  07、ロリーヌ・ルカブリエ(フランス)…60.68
  08、マエ・ベレニス・メイテ(フランス)…58.96
  09、ポリーナ・エドモンズ(アメリカ)…56.31
  10、ニコル・ショット(ドイツ)…55.54
  11、エリザベータ・トゥクタミシェワ(ロシア)…53.03

日本勢は上位と点差は小さく、また、下位との点差も開いていません。

 女子シングルFS滑走順(11月18日19:15~)
  01、ニコル・ショット(ドイツ)
  02、エリザベータ・トゥクタミシェワ(ロシア)
  03、ロリーヌ・ルカブリエ(フランス)
  04、マエ・ベレニス・メイテ(フランス)
  05、ポリーナ・エドモンズ(アメリカ)
  06、三原舞依
  07、アリーナ・ザギトワ(ロシア)
  08、エリザべート・トゥルシンバエワ(カザフスタン)
  09、白岩優奈
  10、マリア・ソツコワ(ロシア)
  11、ケイトリン・オズモンド(カナダ)

そして、男子シングルSPも、まもなく実施されます。

 男子シングルSP滑走順(11月18日04:09~)
  01、ロマン・ポンサール(フランス)
  02、ケヴィン・エイモズ(フランス)
  03、デニス・テン(カザフスタン)
  04、モリス・クビテラシビリ(ジョージア)
  05、ビンセント・ジョウ(アメリカ)
  06、ミーシャ・ジー(ウズベキスタン)
  07、マックス・アーロン(アメリカ)
  08、アレクサンドル・サマリン(ロシア)
  09、アレクセイ・ビシェンコ(イスラエル)
  10、ハビエル・エルナンデス(スペイン)
  11、宇野昌麿

注目は、中国大会で6位のハビエル・エルナンデスの復調、
インフルエンザに罹患し、体力が充分には戻っていないという宇野昌麿の出来。
ただ、代表争いのプレッシャーのないハビエル・エルナンデスは、
長いシーズンを考慮して、いつもよりスローペースに調整する方法もあります。
ブライアン・オーサーコーチが復帰して、心強いのではないでしょうか。

Tag:フィギュアスケート 

フランス大会2017

グランプリシリーズ第5戦、フランス大会が、グルノーブルで開幕します。
日本からは、宇野昌麿、三原舞依、白石優奈が出場します。
明日の深夜には、女子シングルSPが行われます。

 女子シングルSP滑走順(11月17日23:00~)
  01、ポリーナ・エドモンズ(アメリカ)
  02、ニコル・ショット(ドイツ)
  03、マエ・ベレニス・メイテ(フランス)
  04、白岩優奈
  05、アリーナ・ザギトワ(ロシア)
  06、ロリーヌ・ルカブリエ(フランス)
  07、エリザベータ・トゥクタミシェワ(ロシア)
  08、三原舞依
  09、エリザべート・トゥルシンバエワ(カザフスタン)
  10、マリア・ソツコワ(ロシア)
  11、ケイトリン・オズモンド(カナダ)

今大会も強豪がそろったな、という印象がありますが、
三原舞依は、第3戦の中国大会で4位、ファイナル進出には優勝が絶対条件。
シニアデビューの白岩優奈にも、ぜひ頑張ってほしいなと思います。

Tag:フィギュアスケート 

「先生に時惠という一人の侍女があった」

山本覚馬の妻、時栄は、京都を出て大阪、神戸、東京へと流転しました。
信仰を捨てておらず、教会に関わる縁故を頼ったのかもしれません。
離縁の理由はともかく、山本覚馬、佐久や八重と何かがあったとするならば、
故郷の会津を追われた彼らが、時栄を故郷から追いやった形になる。

時栄が、維新前、幽閉された山本覚馬の世話をしていたことは、
青山霞村『山本覚馬伝』(同志社、1928年)にも記され、知られた事実だったはず。

 先生に時惠という一人の侍女があった。
 薩摩屋敷へ幽閉の身となった時も、
 随いて来て不自由な先生の世話がしたいと頼み、
 折々尋ねて来ては衣類の洗濯などしていたが、
 釈放後も先生につかえ、後正妻となった。
 かつて先生を危難からかくまい、
 木戸孝允の妻松女と並び称せられた女で、
 常に先生の坐臥進退をたすけた。
 府会へ出席の時も彼女が付添っていたのである。
 正妻になってのち、ある理由で離縁になった。
 この時惠との間に侍女久枝が生まれた。
 この次女が徳富蘆花の『黒い眼と茶色の目』の娘である。
 久枝嬢にも婿にすべき少年があった。
 同志社へ通っていたこの美少年からして
 久枝自身の関知しない悲劇が先生の家庭に起った。
 娘二人とも養子婿をとる縁がなかったのである。

先妻のうらを「正妻」とし、時栄を「侍女」としているのが気になります。
入籍していたことはまちがいありませんが、世間は時栄を「侍女」と見たのか。
その一方で、献身的な時栄を木戸松子と並び称せられた、とします。
幽閉された薩摩藩邸に押しかけた、といった書きぶりでもある。
ちなみに、「正妻」のうらに関しては、次のようにあります。

 先生が会津におった時、正妻との間に長女みね子が生まれた。
 しかし京都に住居を移してから、つづいて維新の大変革にあったとき、
 正妻は遠く隔てた京都へ移住することを好まないといって、
 離婚を求めたので、離別した。
 その長女は会津戦争のあと、母堂が京都へ移り住んだ時、
 妹の八重子とともに来た。
 養子婿を迎えるつもりで、その候補者もすでに来ていたが、
 出版のことについて面白くない行為があったから破約した。
 のちその女は横井時雄に嫁した。
 すなわち横井氏の先妻である。
 横井氏と婚約の時了解があった通りに、
 横井氏の長子山本平馬氏が先生の後を嗣いでいる。
 (青山霞村『山本覚馬伝』宮帯出版社、2013年)

うらがなぜ京都に来なかったのか、遠い土地に移ることを拒んだから?
また、そのうらが生んだ長女のみねには、婿養子の候補がいた。
ところが、「出版のことについて面白くない行為」のために破談になった、とある。
横井時雄は婿入りするわけにいかなかったのでしょう、結婚するとき、
生まれた男の子を山本家の養子に入れる、という約束がなされたいたようです。
山本平馬は、久栄の告別式の喪主でもありました。

余談
「監獄のお姫さま」、女子刑務所が安全な場所、という発想がすごい。
高い塀で囲まれた安全なお城で、お母さんは刑務作業しながら(仕事を続ける)、
仕事中は仲間(保育所、シッター)が赤ちゃんを預かってくれる。
年齢も境遇も(罪も)ばらばらな女たちは、助け合いながら子育てに協力し、
母性を爆発させて、自分の子のように赤ちゃんに愛情を注ぐ。
おお、確かに理想の子育て環境じゃないか、と宮藤官九郎に脱帽。
そこに足りないのが父親で、それが悪党だという展開。

Tag:山本久栄 

小田時栄のこと

山本覚馬の後妻、時栄は、徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」においては、
「鴨東に撥をとつて媚を賣つて居た女の一人」の時代、として描かれています。
眼と足が不自由な山下勝馬=山本覚馬を献身的に支えたと語られつつ、
この記述のために、祇園の芸者であった、という誤解は長く解けませんでした。
時栄がいったい、どういう素性の女であったか、に関しては、
同志社中学出身の丸本志郎の執念の調査によって、明らかになるのです。
小説が出版されたのは、大正3(1914)年12月のこと。
昭和61(1986)年12月25日「読売新聞」(夕刊)に、大きく記事が掲載されました。

 蘆花の誤解 「黒い眼と茶色の目」 100年ぶり修正

「100年」ぶりとは、出版からではなくて、徳冨蘆花と壽代=久栄の出会いから?
丸本志郎は、その後、『山本覚馬の妻と孫』(まるもと、1992年)を刊行。
きっかけは、昭和61(1986)年11月11日、小田貞子という老婦人から電話があり、
彼女は、時栄の大叔母にあたり、小田家の除籍謄本を見せてもらったこと。
時栄が、山本覚馬の正式な妻として入籍されていたこともわかりました。

 謄本によると、時栄さんは隼人氏の四女で、嘉永六年五月七日生れとあり。
 明治十九年二月十二日、上京区第三十一組下丸屋町
 山本覚馬妻離縁復帰とあり。
 覚馬が六十五年の生涯を終えた二十五年十二月二十八日の翌年、
 山本家に残してきた久栄が父の後を追うように短い人生を閉じ、
 父の墓の傍に埋葬された。
 時栄さんは二十六年七月二十日の前日の十九日、堺市旅籠町に移り、
 二十八年、神戸市山本通五丁目に移っていられる。
 京都を去られた、十九日は久栄の没した日とされる二十日の一日前で
 一日の差はどう解釈するかは後にしても時栄さんには
 山本家の様子は伝わっていたとしか考えられない。
 彼女がどんな気持でこの時期に生まれ故郷の京都を去って行ったかを、
 察すると、一掬の涙を禁じ得ないものがあるのではないか。

時栄の旧姓は小田、父は小田隼人であり、名前は「時榮」。
嘉永6(1853)年5月7日生まれ、山本覚馬は文政11(1828)年の誕生であるから、
夫より25歳も若い妻であった、ということになります。
ちなみに、新島八重は弘化2(1845)年に生まれています。
時栄の夫であった山本覚馬は、明治25(1892)年12月28日に死去しますが、
その次女で、時栄が生んだ久栄は、翌年の7月20日に亡くなります。
そして、明治19(1886)年、33歳ですでに離縁していた時栄は、
久栄の死のまさに前日の19日に、京都から神戸に移っている、というのです。
なぜ前日だったのか、久栄の死と母、時栄の転居は関わるのか。

 小田家は代々丹波の郷士で、京に出て、御所に出仕した侍であったようで、
 その邸の門は六軒町通に面し、奥は七本松通近くまであったようで、
 現在の住居もその地続きである。
 覚馬は戊辰の役の時、この邸の中に、匿われていたが、
 後捕えられて薩摩藩邸に幽閉された。
 その後も眼の不自由な覚馬のため、時栄さんは、許しを得て、
 薩摩藩邸に通い、身の廻りの世話をして、
 釈放後も続けて覚馬に仕えて、後正妻になられたのである。

つまり、時栄は、維新前から山本覚馬を知り、世話をしていたわけです。
山本覚馬は小田家と懇意で、幽閉された薩摩藩邸にまで出向いて面倒を見た。
眼を患った山本覚馬を、そのはじめから支えていたのは、時栄でした。
丸本志郎は、時栄はそもそも「妾とも婢とも分らぬ女性」であって、
最初は山本家に「小間使」として仕え、後に妻の座についた、と考えています。
また、小田家は「代々丹波の郷士」で、「御所に出仕した侍」であった。
広大な土地を所有しており、昭和になってもその「地続き」に住んでいたとか。

 時栄の兄勝太郎は剣をよくし、守護職松平家の関係からか、
 近藤勇や、新門辰五郎等とかなりの交友関係があったようであるし、
 その妻は所司代与力の子であり、覚馬を一時邸に保護し、
 新門辰五郎の住居跡を、山本覚馬の邸に世話した情況は十分判断できる。

時栄の兄、小田勝太郎に、近藤勇や新門辰五郎と交友関係があったとは、
いったいどのような資料から言えることなのか、詳らかではないものの、
そこから、佐久や八重が身を寄せた山本邸の土地の世話をしたとは、なるほど。

 小田貞子さんの話によると蘆花の『黒い眼と茶色の目』が
 大正のはじめ世にでた時、そこに出る時栄さんに、
 親類一同くやしい思いをささ(ママ)れたようである。
 明治二十八年二月九日、堺市から
 神戸市山本通五丁目七十七番邸に転籍されて後の時栄の消息は
 京都の小田家には入っていないようだ。
 大正三年、蘆花が『黒い眼と茶色の目』を出版したのは、
 それから三十年も経った後のことである。
 (丸本志郎『山本覚馬の妻と孫』まるもと、1992年)

明治28(1895)年に山本通に移ってから後は、時栄は、実家とも縁を切った。
兄の勝太郎の子、虎次郎を養子にもらい、アメリカに渡った、とも伝えられるとか。
なぜ神戸だったのか、もちろん京都からほど近い都会でありつつ、
神戸は、アメリカンボードのつながりもあり、新島襄などを通して縁故があったか。
生前の新島襄が八重と静養したという、和楽園の借家は、
神戸英和女学校の裏手、諏訪山にあり、山下通と近いはずです。
さらに、本井康博『八重の桜・襄の梅』(思文閣出版、2013年)には、
大正15(1926)年の時点では、時栄は東京に住んでいた、との情報あり。
同志社の最初の入学生の一人である、本間重慶の証言に、
「今は小田時恵女史、即ち山本(覚馬)先生の未亡人」が、
「今は、基督教の信者にて、前、永く山本氏と同棲せられ、
日夜、夫の不自由を保護せられ居られた」とし、
東京(日本橋区新葭東萬河岸一四)に住んでいる、とあるといいます。
具体的なこの住所は、何を意味しているのでしょう。
これは、本間重慶「創立当初の事情、問合わせ先其の他に就て」
(『同志社校友同窓会報』1926年11月15日)に載っている、ということのよう。
大正15(1926)年、嘉永6(1853)年生まれの時栄は、73歳です。
小田家で言い伝えられていた、アメリカに渡り、帰国して後のことなのか。
いずれにせよ、京都を出た後、堺から神戸、東京へと流転していたとわかります。
明治19(1886)年の離縁から40年、時栄は信仰を捨てずにいたのでした。
丸本志郎は、山本覚馬と同時に受洗したことが転機であり、
正妻として扱われたことに、佐久や八重が反発したのではないか、とします。
それを踏まえれば、苦労をしても、時栄が信仰を持ち続けたのは、
宗教がかつての夫と自身を結びつけていたから、とも思えてしまいます。

Tag:山本久栄 

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