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萩谷清江、関連年譜

さて、萩谷清江に関連する事柄を年譜に(簡単に)まとめてみました。
萩谷清江をめぐる、ファミリーヒストリーです。

 弘化4(1847)年 1月1日、父萩谷義則、生まれる。
 明治2(1869)年 12月、義則、大学東校に入学して医学を学ぶ。
 明治3(1870)年 2月24日、理平治、岡山の庄屋に生まれる。
 明治5(1872)年 2月、義則、軍医試補として東京鎮台十三番大隊に配属。
 明治8(1875)年 4月8日、清江、大阪北区桜之宮に生まれる。
 明治11(1878)年 義則、大阪鎮台病院兼兵隊附 軍医補。医事会同社社員。
 明治13(1880)年 9月7日 義則、大阪鎮台病院課勤務。
 明治14(1881)年 11月14日、義則、熊本鎮台歩兵第14聯第3大隊の副医官。
 明治15(1882)年 6月13日、義則、依願免官。
 明治16(1883)年 義則、大阪谷町にて開業。
 明治17(1884)年 6月29日、玉江、生まれる。
 明治21(1888)年 清江、13歳のころに腸チフスにかかる。
 明治26(1893)年 清江、上京して済生学舎に入る。「淑徳会」会員。
 明治28(1895)年 清江、医師開業試験前期試験に合格。
 明治29(1896)年 清江、病気のため帰郷、大阪慈恵病院医学校で学ぶ?
 明治30(1897)年 3月、清江、医師開業試験合格。緒方病院研修。6月、開業。
 明治31(1898)年 8月、清江、医師登録。
 明治35(1902)年 8月10日、義則、死去。理平治、医師登録。
             11月6日、(徳山)寿子、生まれる。
 明治36(1903)年 7月27日、徳山璉(たまき)、生まれる。
 明治37(1904)年 11月、玉江、医師登録。
 明治42(1909)年、玉江、この時点で藤村姓。
 明治44(1911)年 清江、『関西杏林名家集』に女医として紹介される。 
 大正2(1913)年 (栗本)静子、生まれる。
 大正6(1917)年 萩谷朴先生、生まれる。
 大正10(1921)年 玉江の夫か、藤原元張、国立大学以外で初の博士号取得。
 大正14(1925)年 12月、寿子、徳山陽を出産。
 昭和3(1928)年 3月、すでに3人の子持ちの徳山璉、東京音楽学校を卒業。
 昭和12(1937)年 4月、萩谷朴先生、東京帝国大学文学部国文学科入学。
 昭和15(1940)年 3月、萩谷朴先生、東京帝国大学文学部国文学科卒業。
 昭和16(1941)年 10月15日、萩谷朴先生、結婚の翌々日、大阪で入営。
 昭和17(1942)年 1月28日 徳山璉(たまき)、死去。
 昭和18(1943)年 3月13日、萩谷朴先生、清江に見送られて出征。
 昭和21(1946)年 6月23日、萩谷朴先生、帰還。7月26日、理平治、死去。
 昭和24(1949)年 清江、死去。
 昭和25(1950)年 静子、夫・栗山義重がシベリアから戻り、長男を出産。
 平成4(1992)年 5月18日、徳山(萩谷)寿子、死去。
 平成21(2009)年 1月24日、萩谷朴先生、死去。

細かい部分については、この略年譜には反映されていませんので、
当カテゴリーの記事を御覧いただければ、と思います。

余談
「わからんものよ、女の一生なんて……」。
ヨーソローのママ、戦争で亡くした息子がいて、
あの店が居場所のない若者たちの拠り所になっているのか。
「東京タラレバ娘」、衝撃の展開が!
「これでも一生懸命生きてきたつもりだったの!」……倫子(´;ω;`)

Tag:萩谷清江 

荻野吟子と石黒直悳

吉岡弥生『吉岡弥生伝』(日本図書センター、1998年)の中で、女医の嚆矢、
荻野吟子がいかにして女医第一号になったか、苦労を明かしています。
「全女性の利害を背負って奮闘努力して下さったおかげ」、と讃えているのです。
荻野吟子は、明治12(1879)年7月、東京女子師範学校を卒業しました。

 年はとっていましたが、在学中真面目な女学生として認められて、
 寄宿舎の寮長を命ぜられたこともあり、
 四年間の課程を踏んで、明治十二年七月、
 優秀な成績で女子師範学校を卒業しました。
 この卒業式のときに、幹事の永井久一郎という先生が、
 各自に向かって将来の目的を尋ねましたところ、
 教育に尽くすとか、家庭に尽くすとか、それぞれ立って抱負を述べましたのに、
 ひとり荻野さんだけが返事をしませんでした。
 永井氏が怪しんで重ねて尋ねますと、はじめて口を切り、
 「自分はみんなとちがって、医者になりたいと思っているから、
 これから大学の医学部にはいって、医学を修めるつもりである」
 という意味の答えをしたのでありました。

永井久一郎は永井荷風の父、荷風も女子師範の附属幼稚園に通っていた。
この永井久一郎の配慮がなければ、女医第一号は誕生しなかったかもしれない。
永井久一郎は、荻野吟子に、あの石黒直悳を引き合わせたのでした。

 さて、荻野さんから抱負を打ちあけられた永井氏は、
 すこぶる考えの新しい人でしたから、おおいに賛意を表し、
 医界の有力者で、その頃陸軍の大学医学部の綜理心得を兼ねておられた
 石黒直悳子爵に紹介してくれました。
 荻野さんは、なんでも教師の口がいくつかあったのを断わって、
 素志の貫徹に向かったというのですから、
 ほんとうにえらい婦人であったと思います。
 荻野さんはよろこんで石黒子爵を訪問し、
 右の紹介状に自分の意見を文字に綴ったものを添えて差しだしました。
 この石黒子爵も、なかなか頭のひらけた方で、
 荻野さんの意見に感じて、婦人科の治療に女医が当たることに賛成され、
 医学において別に女では学ばれぬ学科もないとおっしゃって、
 大学当局にも相談されたようですが、
 女学生は困るという理由で駄目になり、次喜の策として、
 下谷練塀町にあった好寿医院に荻野さんを紹介して下さいました。
 この好寿医院と申しますのは、
 宮内省の侍医高階径徳という方が経営していた私立の医学校で
 大学医学部その他有数の教授陣が出講していましたから、
 大体大学で勉強するのと同じように
 高級な医学の勉強ができたわけであります。
 明治十二年十月、荻野さんは、ほかならぬ石黒子爵の紹介だからというので、
 この好寿医院に入学を許されましたけれども、
 親戚の反対を押し切って学校へはいったために、ほとんど学費の仕送りがなく、
 忙しい勉強の余暇に自分で働いて学資をつくらねばなりませんでした。
 (吉岡弥生『吉岡弥生伝』日本図書センター、1998年)

荻野吟子が好寿院を卒業するのは、明治15(1882)年10月のこと。
永井久一郎が石黒直悳を紹介しなければ、その石黒直悳が無理解だったら、
荻野吟子は、女医になる道を見つけられなかったかもしれないのです。
それがまた、ほかならぬ石黒直悳であったこと。
萩谷淸江の祖父、義則は、石黒直悳のもとで西洋医学を学び、
石黒直悳が大学東校の大助教になると、その大学東校に入学して軍医になった。
石黒直悳に師事していたという萩谷義則も、進んだ考えの持ち主で、
聡明な清江、玉江を女医に育てることにつながったのかもしれない、と想像。
見えない糸でつながってくると、女性史が面白くなります。

余談
2019年の大河ドラマ、宮藤官九郎さんが脚本を手がけ、オリンピックがテーマ。
選手はもちろん、運営の大変さを思い知らされる昨今、裏方も面白そう。
とはいえ、まずは来年、再来年、個人的には「西郷どん」が楽しみ。
「西郷どん」のキャスティングがどれくらい進んでいるのか、わかりませんが、
俳優、女優の奪い合いになってしまいそう。
そういう計画、交渉もあって、こんなに早い発表だったのかしら。
そして、11月16日は「幼稚園記念日」なのだそう。
明治9(1876)年11月16日、東京女子師範学校附属幼稚園が開園しました。
松野クララが首席保母となり、フレーベル教育が実践されました。

Tag:萩谷清江 

萩谷義則と緒方惟準

萩谷義則は、弘化4(1847)年生まれ、大学東校で医学を学び、軍医となり、
明治6(1873)年に大阪鎮台に出張、明治11(1878)年軍医補となっていますが、
明治11(1878)年、明治12(1879)年の、
伊藤数平編『大阪府各省局官員録』(岡島真七)に、
「萩谷義則」が見出され、足跡を垣間見ることができます。

 明治11(1878)年…病院兼兵隊附 軍醫補 萩谷義則 トウケイ
 明治12(1879)年…病院兼兵隊附 軍醫補 萩谷義則 トウケイ

東京出身の「軍醫補」として、確かに掲載されていました。
また、病院長は、一等軍醫正・正六位、勲四等の緒方惟準となっています。
この緒方惟準、緒方洪庵の二男であり、大坂医療界の重鎮となる。
緒方惟準が中心となって、大阪の医学の発展を図るため、
有志の医師が集まり、「医事会同社」という団体が結成されました。
明治11(1878)年11月25日には、機関誌『刀圭雑誌』の創刊号が刊行。
萩谷義則も、その「医事会同社」の社員となっています。
イロハ順の名簿の2番目に、「萩谷義則」が載っていることが、
中山沃『緒方惟準伝ー緒方家の人々とその周辺ー』
(思文閣出版、2012年)によって、わかります。
緒方惟準は、明治13(1880)年4月、軍医本部次長となって東京に移りますが、
退官後には、大阪に緒方病院や慈恵病院を設立しました。
はからずも、そうした人脈ができたことは重要ではないでしょうか。
娘の清江が緒方病院でインターンをした、というのも、
萩谷義則と緒方家の関わりが、きっかけの1つになったのかもしれません。
大阪市立弘済院附属病院の前身、大阪慈恵病院は、
明治21(1888)年2月、経済的な理由で病院にかかれない人たちのため、
緒方惟準、緒方拙斉、高橋正純、高橋正直、山田俊郷などにより設立された。
「医事会同社」の社員であった萩谷義則も、有志に加わっていた可能性も?

Tag:萩谷清江 

萩谷清江の父義則のこと

さて、大阪で開業した最初の女医、萩谷清江。
その父は元軍医であった萩谷義則、萩谷朴先生の祖父にあたります。
弘化4(1847)年生まれ、大学東校で医学を学び、軍医となって、
明治6(1873)年に大阪鎮台に出張したのが、大阪にやってきた契機でした。
萩谷清江は明治8(1875)年、大阪の「北區櫻之宮」で生まれたとか。
明治13(1880)年、大阪鎮台病院課勤務となったものの、
明治15(1882)年、母親の看護を理由に依願退職をし、翌年に外科医を開業。
明治22(1889)年刊行の内務省衛生局編 『日本医籍』(忠愛社)には、
大阪府南区の医師として、「萩谷義則」を見出すことができます。

 大阪府・南區 谷町七丁目 萩谷義則
 (内務省衛生局編 『日本医籍』(忠愛社、明治22(1889)年)

同書によれば、谷町の医師としては、萩谷義則しか見当たりません。

 この義則は、一九〇二年(明治三十五)八月十日、
 喉頭癌によって五十六歳をもって没したが、平常頗る酒を嗜み、
 豪放磊落にして細事に拘泥せず、大阪鎮台勤務の頃は、
 常に同僚を自宅に伴って酒を汲み、
 裏庭には絶えず来客の乗馬が繋がれていたという。
 また、大阪着任に際して、谷町に買い求めた宅地は二千坪、
 毛馬(けま)の閘門(こうもん)に近い
 柴島(くにじま)あたりに一歩町の水田をも用意したが、
 小作の農民に足もとを見すかされて、悪天候だの病害虫だのと、
 毎年金品をせびられるだけで、これなら米屋で米を買った方がまし、
 持ってけ泥棒とばかり、田地は小作人にくれてやったというから、
 人口三千万の明治初期は今と違って鷹揚なものであった。

代々水戸藩の医師であったという家の生まれ、西洋医学をいち早く身につけ、
軍医の地位を捨てて開業医となった彼は、酒を好んだ社交家でした。
大阪鎮台のあった大阪城付近に土地を買い、裕福な暮らしぶりだったよう。

 筆者の出生は、祖父没後十五年を経ているから、詳しいことは知らぬが、
 たまたま、一八八七年(明治二十)十一月七日付の、
 大阪府南区における所得税調査委員選挙に際して配布された、
 選挙人名簿を保存しているのを見ると、大阪で最も繁華な南区でさえ、
 所得税納入者にして、選挙権・被選挙権を共に有する者六百三十五名、
 選挙権のみを有する者三十七名、両権共に有せざる者百七十四名、
 総数わずかに八百四十六名という状況であったから、
 庶民一般には全く納税の負担のない、
 チープ・ガヴァメントが実在していたことが知られよう。
 それはともかくとして、南区の中でも谷町七丁目は、
 十四ヵ町で調査委員の定員わずか三名という、
 最も貧閑として第一選挙区に属していたが、谷町七丁目に限っていえば、
 納税者はただ一人、選挙権・被選挙権を共に持つ萩谷義則がそれであった。
 (萩谷朴「谷町」『語源の快楽』新潮文庫、2000年)

谷町筋唯一の外科医、元軍医の信用もあったのかもしれませんが、
数少ない納税者の1人で、金遣いに頓着せず、大阪の力士たちの面倒を見た。
また、幼いころから聡明さを発揮していたとはいえ、
女の身である清江、それに続いて妹の玉江をも医学の道に進ませたのは、
進歩的な考えをもった、自由な発想の人だったのではないでしょうか。

 この赤門を、建築学的には「医薬門」と呼ぶが、
 それは、医師の屋敷の門が通常丹塗であったから。
 そう言えば、昭和終戦当時まで、常陸の国那珂郡瓜連村に残っていた、
 筆者の曽祖父萩野谷令徳(はぎのや・よしのり)の屋敷の門も、
 貧弱ながら赤門であった。
 明治十年代、軍医を退官した祖父義則が
 大阪府南区谷町で外科医を開業して以来、筆者の育った家の門灯に、
 ガス灯にせよ電灯にせよ、赤いガラスの火舎(ほや)がかけてあったのは、
 救急の信号として目につく赤という点で、赤門の伝統を引いていたわけ。
 (萩谷朴「赤門」『語源の快楽』新潮文庫、2000年)

目印の赤い門灯、それを受け継いだのが、娘の萩谷清江でした。
ところで、萩谷清江、藤村玉江の姉妹が谷町で開業していたとわかる、
日本杏林社編『日本杏林要覧』(日本杏林社、明治42(1909)年12月)には、
清江の夫である、萩谷理平治の名前も掲載されていました。
姉妹は大阪府南区、萩谷理平治は北区で医師をしていたことがわかります。

 萩谷淸江【試験丗一年八月】
 大阪士族、明治八年生 ●谷町筋七ノ四
 藤村玉江【試験丗七年十月】
 京都士族、明治十七年生 ●谷町筋七ノ四ノ二
 萩谷理平治【試験丗五年三月】
 大阪士族、明治三年生 ●北野太融寺町七四一

結婚後も、萩谷理平治は当初、別の場所で開業していたのでした。
その後、藤村玉江が北区菅原町に、理平治が南区谷町に移ったようです。

余談
明治16(1883)年11月8日、大山巌と山川捨松の婚儀が行われました。
そのころに、萩谷義則が南区谷町で開業医となったことになる。

Tag:萩谷清江 

萩谷清江・玉江姉妹、萩谷理平治のこと

萩谷朴先生の母は、「大阪府第一号の開業女医」でした。
そこで、三崎裕子「明治女医の基礎資料」
(『日本医史学雑誌』第54巻第3号、2008年9月)を確認したところ、
明治時代の女医一覧の中に、「萩谷清江(藤村)」の名前を見つけました。
明治8(1875)年生まれ、本籍地は大阪。
出身校は済生学舎、医師登録は明治31(1898)年9月。
明治35(1902)年、父の萩谷義則の死の4年前に、医師になったのです。
明治年間の活動地は、「大阪市南区」となっています。
そして、姉妹で医師であったということですが、110番目に「藤村玉江(萩谷)」。
萩谷が旧姓となっているのは、後に結婚して藤村姓となったのか。
それと混同して、萩谷清江の旧姓が藤村となっているのかもしれません。
大阪(京都)が本籍地、大阪慈恵医院医学校(明治28(1895)年設立)、
また、関西医学院(明治35(1902)年設立)出身とされ、
明治37(1904)年11月に医師登録をし、大阪市南区で活動した、とあります。
さらに、多川澄子「先輩女医名簿」
(『日本女医会雑誌』第80号、昭和12(1937)年8月)には、
萩谷清江について、医術開業試験合格は明治30(1897)年3月、
医師登録が明治31(1898)年8月、と掲載されています。

日本杏林社編『日本杏林要覧』(日本杏林社、明治42(1909)年12月)には、
「大阪 南區」の欄に、「萩谷清江」「藤村玉江」が載っています。
姉妹と思われる2人は、「谷町筋」で開業していたとわかりました。

 萩谷淸江【試験丗一年八月】 大阪士族、明治八年生 ●谷町筋七ノ四
 藤村玉江【試験丗七年十月】 京都士族、明治十七年生 ●谷町筋七ノ四ノ二

明治16(1883)年、萩谷義則が開業したのは「大阪の谷町」であり、
手許にある、萩谷朴『清少納言全歌集』(笠間書院、昭和61(1986)年)に、
大正6(1917)年、「大阪市南区谷町7丁目に生まれる」とあるのに合致。
萩谷朴先生の母、萩谷順さんの祖母が萩谷清江、
その妹で、萩谷朴先生の叔母が藤村玉江でまちがいないでしょう。
明治年間に大阪で活躍した女医は13人、その中に萩谷姉妹がいたのです。
明治42(1909)年時点で、玉江は藤村姓となっていたと思われます。

女医第一号は荻野吟子、東京女子医科大学を創立した吉岡弥生は22番目。
(ちなみに、楠本イネは、医術開業試験の受験を断念しています。)
大阪で活動した女医の先駆者は、明治7(1874)年生まれの福井繁子です。
本籍地は岡山、済生学舎出身で、ドイツ留学も果たしました。
明治27(1894)年8月に医師登録し、活動地は大阪市東区となっています。
昭和7(1932)年には、日本で最初の女性医学博士になります。
大正初期、福井繁子を中心に近畿一円の親睦団体的な関西女医会が起こり、
昭和22(1947)年、福井産婦人科医院が焼け跡の淡路町に再建され、
その一室において、大阪府女医会が誕生したのだとか。
三崎裕子氏の一覧によれば、萩谷清江より先に大阪で活動した女医は、
萩谷清江の1歳年上で同窓の、この福井繁子しかいません。
秋山寵三『日本女医史』(昭和37(1962)年、日本女医会本部)巻末の年表には、
萩谷清江が明治30(1897)年3月に医術開業試験に合格した、とありますが、
福井繁子について、同年表から追ってみます。

 明治27(1894)年
  福井繁子(四月)合格、
  大阪緒方病院(緒方正清)初めて女医福井繁子を採用。
  後、弊原節、小野安、村上琴、橘薫ら同院に勤務す。
 明治38(1905)年
  福井繁子マルブルヒ大学に留学(九月)。
 明治41(1908)年
  福井繁子ドイツ留学より帰る(六月)。

福井繁子は先に医術開業試験に合格しましたが、自身で開業はせず、
緒方病院に女医としてはじめて採用され、その後、ドイツ留学をし、
すなわち、「大阪府第一号の開業女医」は萩谷清江となったというわけか。
萩谷清江は、緒方病院でインターンをしたということですが、
福井繁子の採用という先例があってこそ、実現したのかもしれません。

また、医事時論社編『日本医籍録』(大正14(1925)年、医事時論社)には、
大阪府南区の医師として、萩谷理平治、萩谷清江が見えます。

 萩谷理平治 谷町筋七ノ四
  試験及第明治丗五年 登一五二八五號 明治三年二月廿四日生
  
 萩谷淸江 谷町筋七ノ四
  試験及第明治丗一年 登一一一六六號 明治八年四月八日生  

ここでまた、萩谷清江の誕生日が4月8日であると判明しました。
同じ住所の萩谷理平治というのが、萩谷家に婿に迎えた夫のようです。
この萩谷理平治が、萩谷朴先生の父ということになります。

 藤村玉江 菅原町四七 
  試験及第明治丗七年 登一八七三七號 明治十七年六月廿九日生

藤村玉江は、北区に移動し、菅原町で開業していたらしい。
姉が婿を迎えたのを機に、新しく医院を構えることにしたのでしょうか。

余談
2018年の大河ドラマ「西郷どん」、主演は鈴木亮平さん。
キャリア的にも大抜擢でしょうが、こぴっと頑張ってほしいです。

Tag:萩谷清江 

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