2017
06.22

マリア・テレジア生誕300年

Category: 日記
2017年は、あのマリア・テレジア女帝の生誕300年にあたるそうです。
マリア・テレジアが生まれたのは、1717年5月13日。

 「女帝」マリア・テレジア生誕300年、オーストリアで祝賀行事

 オーストリアでは13日、マリア・テレジア(Maria Theresa)の生誕300年を祝い、
 人々がコンサートやシャンパンでハプスブルク(Habsburg)家
 唯一の「女帝」に敬意を表した。
 マリア・テレジアが君臨した1740年からの40年間は、
 行政と教育が発展した時代とされる。
 一方で彼女は領土支配を強化し、「国母」と呼ばれた。
 13日は首都ウィーン(Vienna)の博物館でさまざまな催しが行われるなど、
 オーストリア全土が祝福の雰囲気に包まれた。
 (AFPBB News/2017年5月14日)

マリー・アントワネットの母である、マリア・テレジア。
マリー・アントワネットやハプスブルク家のことには、実は興味があります。
おもしろいな、と思っているのは、悲劇の王妃その人ではなくて、
その周辺の人々に関する本が、続々と出版されている点。

 安達正勝『死刑執行人サンソン 国王ルイ十六世の首を刎ねた男』
 (集英社新書、2003年12月)
 スーザン・ネーゲル/櫻井郁恵 (訳) 『
 マリー・テレーズ 恐怖政治の子供、マリー・アントワネットの娘の運命』
 (近代文藝社、2009年12月)
 石井美樹子『マリー・アントワネットの宮廷画家
 ルイーズ・ヴィジェ・ルブランの生涯』(河出書房新社、2011年2月)
 シェル・サポリ/北浦春香 (訳)
 『ローズ・ベルタン マリー・アントワネットのモード大臣』(白水社、2012年1月)
 パウル・クリストフ (編)/藤川芳朗(訳)
 『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』
 (岩波人文書セレクション、2015年10月)
 イネス・ド・ケルタンギ/ダコスタ吉村花子(訳)
 『カンパン夫人 フランス革命を生き抜いた首席侍女』(白水社、2016年8月)
 ウィル・バショア/阿部寿美代 (訳)
 『マリーアントワネットの髪結い 素顔の王妃を見た男』(原書房、2017年2月)

マリー・アントワネットと母、マリア・テレジアの往復書簡集もあります。
ああ、ルブラン婦人とか、ローズ・ベルタンとかカンパン夫人は、
あの名作漫画にも登場していたな、と思うレベルしか知識がありませんが……。
周辺人物から歴史をたどろうとするのは、面白いなと期待しています。
2017
04.27

四月も終わる……

Category: 日記
下落合で、牡丹を観賞しました。


シャガの花も、咲いていました。


八重桜がまだ少し咲き残る中、藤棚も美しい。


マンションの花壇でも、チューリップがかわいらしく咲いています。


ピンクのチューリップは、「プリティプリンセス」という名前だそう。


あと数日で風薫る五月、新緑もきれいな季節になりました。
鬱々、ペースのつかめない新年度、連休をきっかけに立て直したい。

余談
「ひよっこ」、宗男おじさんは、せっかく東京に行くのだから自由に、とみね子に。
たとえば、「まれ」とはちがい、みね子は、夢があって上京するのでも、
都会にあこがれて上京するのでもない、そこはまだ「いいとこ」ではない。
(失踪したお父ちゃんだって、今、自由なのだろうか。)
今から言うのもあれだけれど、ラスト、みね子はここに戻るのだろうか。
何者でもないヒロインの優しい物語、じんわり来るなあとしみじみ。
偉業を成し遂げた「坂東すみれ」なのに、「べっぴんさん」はこれがやりたかった?
2017
04.15

2017年の桜、とタンポポ

Category: 日記
閑話休題、今年はたくさんの桜を味わうことができました。




ただ、花曇りの日が多くて、きれいな写真が撮れなかった……。
ソメイヨシノは、きれいに撮れたのはこの2枚くらい。


黄色の桜もきれい、鬱金桜。


こちらは緑色の桜、御衣黄。


白い桜は清楚で、たおやかな感じがします。


桜の季節は目線が上にいきがちですが、足元にはタンポポも。

余談
「ひよっこ」、戦後の日本が急速に発展して、東京五輪を成功させたのは、
失踪した実みたいな、出稼ぎ労働者などのきつい仕事があったからだとしみじみ。
第1週であれほどもう「大人」だと言われたみね子が、本当のことを知らされない。
家が抱える借金問題よりも、実がいなくなったのは深刻なこと。
みね子が本当に大人になるのは、決心が必要だ。
「女の勲章」は、記事にもあったように、朝ドラと昼ドラを掛け合わせたみたい。
「あさが来た」の舞台だった船場の商家生まれのヒロイン、
戦後、ミシンを買い戻して洋裁教室を始め、3人の女性とともに学校を作る。
舞台も同じ神戸なれど、「べっぴんさん」の4人のほんわかとした関係性とちがい、
こちらは、愛と欲望が交錯しあい、何より野心で争い合う女たち。
ヒロインが大阪なまりでないことが違和感、というツイートを見かけましたが、
ドラマの中で、なぜ船場言葉をやめたのか、
戦後、服飾の世界で生きていく決意として宣言されていたのに。
2017
02.20

ドイツを救った医師、肥沼信次

Category: 日記
先日、佐々木蔵之介さんがナビゲーターをつとめ、読売テレビで放送された、
「ドイツを救った日本人医師 伝染病『発疹チフス』との戦い」を観ました。
戦後のドイツの小さな街で、流行する発疹チフスの患者の治療に献身した後、
自身もその病にかかり、帰国することなく亡くなった肥沼信次。
肥沼信次は東京・八王子の出身で、その縁で両市は友好を結んでいます。

 八王子市、独・ウリーツェン市と友好締結へ 市出身・肥沼医師が縁

 八王子市は、十一月三~七日の日程で
 中村敬副市長を団長とする訪問団をドイツ・ウリーツェン市に派遣し、
 海外友好交流都市の協定締結に向けた協議を始める。
 八王子市出身の肥沼信次医師(一九〇八~四六年)が
 第二次世界大戦後にウリーツェンで治療に当たった縁で、
 これまでも交流を続けてきた。 
 ウリーツェンはドイツ北東部のベルリン近郊にあり、
 ポーランド国境まで約十五キロ。
 昨年十二月末の人口は約七千三百人。
 肥沼医師は一九三七年からベルリン大に留学し、
 大戦末期にウリーツェンに移った。
 ドイツ敗戦後、医師が極端に不足する中で感染症がまん延。
 肥沼医師は現地の伝染病医療センターの責任者に任命され、
 多くの患者を治療したが、自らも発疹チフスにかかって亡くなった。
 東西冷戦下、東ドイツにあったウリーツェンでの肥沼医師の活動は
 日本に伝わらなかったが、八九年の「ベルリンの壁」崩壊後、
 現地と日本でその功績に光が当たった。
 ウリーツェンは九四年に名誉市民とし、
 毎年三月八日の命日には市内の墓前で慰霊式を開いている。
 八王子市では昨年、市民団体「Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会」が発足し、
 今年の命日に合わせて千羽鶴を作製。
 市を通じてウリーツェンに贈り、医師の墓前に手向けられた。
 その際、両市長が手紙を送り合っている。
 訪問団は、担当部長や議会関係者、
 ウリーツェンの高校と姉妹校となっている八王子高校教諭ら六人。
 協議開始を提案する石森孝志市長の親書を持参、
 今後の交流について意見交換する。
 市は、締結を来年の市制施行百周年の記念事業と位置付けており、
 今年十二月に市議会に諮り、来年七月ごろに協定締結、
 十月の百周年式典にウリーツェン市長を招く予定。
 石森市長は「百周年は八王子の歴史を振り返る節目。
 肥沼医師の活躍を多くの市民に知ってもらい、さまざまな交流を深め、
 ドイツ文化を味わってほしい」と話した。
 八王子市は、中国・泰安市、台湾・高雄市、韓国・始興(しふん)市と
 海外友好交流都市の協定を結んでいる。
 (2016年10月28日「東京新聞」電子版)

戦争が始まっても帰国しなかった肥沼信次の消息は、途絶えてしまい、
ベルリンの壁が崩壊するまで、ついに判明しなかった……。
没後71年、肥沼信次の顕彰は、これからです。
テレビで明かされた、ベルリンから逃げるときに、子どもをもつ女性と一緒で、
彼女の姉のもとに身を寄せた、とあったことも気になります。
家政婦の15歳、イルムガルト・エンゲルの証言でわかったことかしら?
女性は戦争で夫を亡くしたシュナイダー、彼女の娘・5歳のクリステルも一緒で、
肥沼信次は、彼女たちにも、家政婦の女性にも優しかった、と。
母娘のその後は、わかっているのか。
献身的な肥沼信次でしたが、今も彼に感謝を忘れずに、
慰霊を続けてきてくれているドイツの人々の気持ちが、何とも嬉しいものです。

余談
「べっぴんさん」、昭和44(1969)年4月、キアリスは創業20周年で、
ドラマの第1回冒頭に戻り、子どもたちが入社へ?
アメリカで、さくらはデザインを、健ちゃんは経営学を学びつつ、やはり交際中。
本社は三宮のビル、社員とアルバイトは三桁と大きな会社に成長。
2017
01.19

真田信繫、薩摩に落ち延びた?

Category: 日記
歴史上の英雄が悲劇的な最期を遂げたとき、生存説が囁かれることはしばしば。
その英雄に対する、当時の、後世の人々の心寄せが背景にはあるでしょう。
記憶にまだまだ新しい大河ドラマ「真田丸」の信繫も、その1人ですが、
勉強不足の私には、この生存説はとても面白く感じられました。

 幸村、薩摩に落ち延びた? 南九州市に伝説、
 ドラマで来訪増 山中に墓 地域おこしも

 幸村は生き延びて薩摩に逃げていた?
 大坂夏の陣で死んだとされる真田幸村(信繁)が実は、豊臣秀頼を守って、
 鹿児島県南九州市に移り住んだという伝説が地元で言い伝えられている。
 18日に最終回を迎えた幸村が主人公のNHK大河ドラマ「真田丸」により、
 幸村の墓とされる同市の石塔を訪れる人は増えており、
 地元は伝説にあやかった地域おこしに取り組んでいる。
 幸村の薩摩落ち伝説は京童たちが歌った
 「花の様(やう)なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、
 退(の)きものいたよ加護島へ」との歌で有名になったといわれる。
 伝説の地は、同市頴娃町の雪丸集落。
 南国鹿児島で雪がつく地名は珍しく、幸村がなまったと伝わる。
 墓とされる石塔は、山中にあり、墓石は島津家が「特別な石材」とした山川石製。
 文字や模様は刻まれていない。
 墓に通じる坂道は地元で「とんどん坂(殿どの坂)」と言われ、
 雪丸自治会の雪丸重光会長(68)は
 「親から近づかないように言いつけられていた」と話す。
 墓には丸い小石がたくさん供えられている。
 これは幸村の子を身ごもった女性を
 徳川の追っ手から守るため同町の大川地区に嫁がせ、
 その子孫が墓参りの際に小石をさい銭代わりに置いたとされる。
 その女性が産んだ男の子は、真田の2文字の間に江という字を挟んだ
 「真江田(まえだ)」の姓を名乗った。
 真江田家の墓には真田の家紋「六文銭」が刻まれている。
 集落の有志は昨年11月、ドラマ放送の開始(今年1月)を控え、
 墓の見学者をもてなそうと
 「雪丸幸せ村プロジェクト」と銘打った地域おこしを開始。
 駐車場を整備し、参道入り口につえを収める小屋を建設、
 山道にいすや手すりを設置した。
 今年に入ってからは「ゆきまるくん」と名付けた武将キャラクターを制作。
 道案内の看板を作ったり、
 地元特産の茶を使った焼き菓子や六文銭クッキーを開発したりした。
 5月には大河ドラマで主役を演じた堺雅人さん夫妻が訪れ、
 集落の商店でクッキーなどを購入したという。
 プロジェクトリーダーの田原三知恵さん(48)は
 「世代を超えた関係が築け、集落が元気になった」と語る。
 参道の入り口に4月から置いているサイン帳には今月20日現在、
 国内外から1466人の書き込みがある。
 最終回翌日の19日に訪れた女性は
 「泣きました。丸ロス、1年間楽しかった」と記した。
 20日に東京から訪れた加藤孝伸さん(51)、繭美さん(46)夫妻は
 「ここが幸村の最期の地であってほしい」と話した。
 幸村の薩摩落ち伝説。
 多くの幸村ファンの歴史ロマンを駆り立てそうだ。
 (2016年12月22日「西日本新聞」夕刊/電子版)

まことしやかに……といった感じがして、何とも言えません。
信繫の子を宿した女性が嫁いだ家が、「真江田」を名乗り、家紋は六文銭。
南国の鹿児島には珍しい、「雪丸」という地名とか。
徳川幕府に対する反感も手伝い、こういう伝承が生まれるのでしょうか。
(英雄の信繫の名をかたって住み着いた人がいたのかな、などと野暮な想像。)
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