「時空超越ドラマ&ドキュメント 美子伝説」

年末年始、数あるスペシャル番組の中でもっとも楽しみだった、
2018年1月2日放送、BSプレミアム「時空超越ドラマ&ドキュメント 美子伝説」。
幕末は篤姫や和宮、新島八重や楫取美和子などの女性から描かれますが、
明治維新後の新しい世の中を女性から、しかも、
明治天皇の皇后がいかに作ったか、という視点は新鮮でした。

明治40(1907)年2月23日、「民心新聞」主筆の五百旗K助は、
伊藤博文、井上馨、山県有朋まで不倫疑惑か、と高笑い。
幸徳秋水の「平民新聞」で報じられた、下田歌子と政権トップの関係。
でも、五百旗K助がねらうターゲットは、美子皇后でした。
皮相上滑りの開化、はりぼての近代国家の中で、美子皇后が果たした役割とは。

 外国(とつくに)のまじらひ広くなるままにおくれじとおもふことぞそひゆく

外国嫌いの明治天皇とちがい、美子皇后は近代化に積極的でした。
歴代皇后の中ではじめてドレスを着て、女性の教育にも尽力し、
日清・日露戦争で傷ついた軍人や遺族の慰問に、全国をまわります。
京都の大聖寺に残されている、美子皇后の袿はとても小さく、手袋も華奢。
かわいがっていたお人形さんは、春永さんと千代子さん。

 袖せばくなりし衣のうらうへに君がみにくはひろまりにけり

袖が小さくなるにつれて、この国は世界に知られるようになる。
肌を露出する洋装に馴れるのは、高貴な生まれにとって大変だったでしょう。
明治天皇とは真逆、そこで、五百旗K助は疑います。
美子皇后は、お上を差し置いて、政治に口を挟んでいたのではないか。

美子皇后の謎① 明治の黒幕説!?

しかし、五百旗K助の仮説を、過去からやってきた西郷隆盛が否定します。
『昭憲皇太后実録』によれば、明治5(1872)年の元日、
美子皇后は、宮中改革に取り組んでいた西郷隆盛と謁見しました。
激動の時代にあり、日本の行く末を案じ、もっとも苦労したのは美子皇后だ、と。
(大河ドラマ「西郷どん」に、美子皇后は出てくるのか?)
また、現役の伊藤博文は、美子皇后を「政治家」であると語ります。

 薩摩潟沈みし波の浅からぬ始めの違ひ末の哀れさ

西郷隆盛が西南戦争で非業の死を遂げたとき、美子皇后が詠んだ一首。
明治天皇は、西郷隆盛の死を悼み、女官たちに追悼の和歌を詠むように言い、
美子皇后は、悲しみに沈む明治天皇を叱咤したわけでした。

さて、座談会は、いとうせいこうさんが司会、打越孝明さん、
小平美香さん、小田部雄次さん。
皇太子妃時代を経ずに、激動の時代の皇后になり、外国人にも物怖じしない。
公家出身でない女性の知識人、跡見花蹊や下田歌子を重用。
ところが、美子皇后の研究はまだ進んでいません。
『昭憲皇太后実録』が2014年に刊行されたばかりで、今後の分析に期待。

明治天皇は女性の洋装を嫌いましたが、明治17(1884)年、
欧州から帰国した伊藤博文が、美子皇后によるドレスの着用を求めます。
頑なな明治天皇に立腹した伊藤博文は、辞表を提出、自宅に立てこもりますが、
美子皇后がそこに異例の訪問、10月25日のことでした。
もしかしたら、美子皇后が洋装をしてみたい、と明治天皇に望んだのか、
その直後、伊藤博文は明治天皇に面会することを許されました。

 新衣いまだきなれぬわがすがたうつしとどむるかげぞやさしき

明治22(1889)年、美子皇后のドレス姿が撮影されます。
(この洋装化の影に山川操らいたのだけれど、それらは触れられず。)
美子皇后の洋装にかかった費用は13万円、総理大臣の年俸の10倍以上で、
ドイツの職人に発注されたもので、美子皇后の国家的使命が窺えます。
美子皇后の洋装化にともない、東京女子師範学校の女学生も洋装に変化。

江戸城が炎上した後、明治21(1888)年に明治宮殿が完成。
表と奥にわかれ、奥には総勢300人ほどの女官が伺候していました。
その明治宮殿の設計案は、32案が残り、西洋風の宮殿を建てようとした様子も。
ところが、計画は資金難で頓挫し、実際の明治宮殿は、
戦争末期に焼失してしまいましたが、面影は明治記念館に見ることができる。
明治宮殿と同じ和魂洋才の内装、大日本帝国憲法の草案会議が開かれた部屋。

明治天皇の心は洋風に追いつかず、西洋の夫婦のようにはなれない。
女官にあだ名をつける趣味があった明治天皇、美子皇后のあだ名は「天狗」。

美子皇后の謎② 仮面夫婦説!?

明治天皇には側室があり、15人の子を儲けたが、夫婦仲はどうだったのか。
トップ女官、高倉寿子は、その疑いに反論。
明治12(1879)年8月31日、柳原愛子が第三皇子にあたる明宮を出産し、
美子皇后は祝いの品をすぐに届け、祝いの膳を用意させました。
「お上の子はこの国の子。この国の子は私の子です」
「私は、この国におけるすべての民の母、国母であらねばならぬのです」

 ことしより千年をかけて世にひろくかをるもうれししらぎくの花

明宮が立太子の日を迎えたときの、美子皇后の詠歌。
そこにまた、女官どうしの人間関係で辞めたという、鳥居大路応子が登場。
応子によれば、宮中には死の影が常につきまとっていた。
明治天皇が側室との間に儲けた15人のうち、5人しかお育ちにならなかった。
葉室光子の子と光子自身、橋本夏子の子と夏子自身が相次いで逝去。
宮中の廊下に油が塗られている、という噂……を書いているのは柳原白蓮。
確かに、女官たちの間にはいさかいが絶えなかったとか。
高倉寿子などの典侍たちが、派閥をつくっていた。
派閥の中心にいる権典侍、彼女たちは天皇の夜伽ぎの仕事が許されていた。
旦那さんにあたる権典侍が身籠れば、メリットがある。
そして、次の証言者が久世三千子。
明治42(1909)年に女官になったばかりの18歳、両陛下の晩年にお仕えした。
「後年、結婚して山川姓となった三千子は……」
(あら、結婚相手の山川黙の養母、山川操も女官だったのに触れられず。)
この久世三千子のあだ名が、スズメだった。
美子皇后が雷が大嫌いで、明治天皇がそれをいたわったという逸話。
美子皇后が、大好きな煙草をたしなむ物憂げな様子。
(篤姫も煙草が好きだったかな、当時の上流の女性の嗜みか。)

 けぶり草つみてくゆらすしばらくはちぢの思ひも消ゆるなりけり
 巻きたばこ短くなりぬおもふどち昔のことをかたりあふまに
 身のためにならずとすれどとにかくにとりやめがたき煙ぐさかな

ほかの趣味としては魚釣り、明治神宮には専用の魚釣り台があった。
明治8(1875)年、明治天皇の東北巡行を見送った美子皇后。
仲睦まじい様子であった、お手本のようであった、と言われたとか。
夫婦の出会いは、慶應31867年6月27日、美子皇后は19歳。
美子は逃げて逃げて、最後まで諦めず、明治天皇はその手に興味をもった。
久世三千子の解説による、明治天皇と美子皇后の1日。
勉強熱心な美子皇后は、9種類の新聞を読み、女官たちにも読ませた。

日露戦争後、民衆の不満が高まり、明治宮殿にもデモが押し寄せます。
多くの死傷者や多額の増税や借金をして邁進した、日本。
国民を鼓舞したのは、美子皇后でした。

 もののふのうちあやまたぬつつの音は西の国までひびくなるらむ
 軍人(いくさびと)いたるところに勝をえてやまと心を世にしめすらし

負傷者やその家族を慰問し、義手や義足を下賜したり、
傷病兵のために、美子皇后自身が包帯を作り、兵士たちはそれを家宝とした。

 ひとあしもあとにはひかぬつはもののやまと心もみゆるときかな

美子皇后の謎③ 戦の守護神説!?

日露戦争の開戦後、美子皇后が見たという夢の話が新聞に掲載された。
夢枕に現れた坂本龍馬が、日本の海軍を守る、と言った。
明治37(1904)年、戦局の悪化とこの夢のタイミングの、奇妙な一致。
土佐出身の宮内大臣、田中光顕が暗躍?
美子皇后の夢の話が知られた後、日本はロシアに勝ってしまった。
伊藤博文によれば、ロシアと戦うことに反対だった明治天皇を励ます歌だった。

謎がとけないまま、明治43(1910)年、幸徳秋水が逮捕された。
日露戦争に勝利してから、自由にものを言えなくなり、大逆事件が起こる。
幸徳秋水は、後輩の五百旗K助に餞別を送る。
「僕は、この国に捨てられる。いや、僕だけじゃない。
これからこの国は、もっと多くの命を犠牲にして、
やみくもに、前へ前へと進もうとするだろう。
不道徳な統治者。利己的な資本家。
帝国主義という怪物が徘徊する、今の世にあって、
わずかに希望と言えるものがあるとするなら、その1つが彼女なのかもしれない。
敵ながら、あっぱれな皇后さまかもな」
その置き土産は、美子皇后が詠んだ歌の数々。

 たたかひの友のかばねをふみこえてすすむ心やくるしかるらむ
 くにのためすてし子の身ををしむにもまづおもはるるおや心かな
 神がきに涙たむけてをがむらしかへるをまちし親も妻子も

それらから浮かび上がるのは、疑惑の皇后像とは異なる姿でした。
最後に五百旗K助の前に現れたのは、美子皇后。
「皇后なんて、夢さえも自由に見ることも禁じられた存在ですから」
「ただ、必死やった。外国に負けへん、立派な皇后さまになろうって、
夫を支える、貞淑な妻の模範になろうって。
そして、お国のために命を落としてった、名もなき多くの人たちも、
みんな、みんなひっくるめて、この国のお母さんになろうってな……」

翌年、幸徳秋水は死刑の判決が出て、五百旗K助は集めた資料を焼却。
日本は名実ともに一等国になり、明治45(1912)年、明治天皇は崩御。
女官たちの前でも涙を見せなかった美子皇后は、自室に戻ると涙した。
その2年後、美子皇后も、66歳で亡くなります。

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山川健次郎の新資料

発掘、再評価が進んでいるなと感じる山川健次郎について、またも新発見が。
新しく見つかった資料の中には、白虎隊に関する講演録もあった。

 古書店で『山川健次郎の新資料』発見! 未確認の講演録収録

 東京帝国大総長を務めた会津藩出身の白虎隊士、
 山川健次郎(1854~1931年)の死後に近親者らがまとめた
 遺稿の新資料が14日までに、発見された。
 戦前に刊行されたものなど種類の違う3点の遺稿資料が確認されており、
 今回が4点目になる。
 未確認の「白虎隊」に関する講演録が収録されており、
 研究者は「白虎隊顕彰に積極的だった山川の活動の一端が垣間見える」
 と評価する。
 小宮京青山学院大准教授(日本現代史)、
 中沢俊輔秋田大准教授(日本政治外交史)が昨年12月、古書店で見つけた。
 新資料は「山川博士遺稿」と題が付けられた上・下巻の2冊で、
 合わせて約500ページある。
 書店などに流通させない私家版で、山川の死後においらが編さんした。
 内容は山川の講演録や新聞への寄稿などで、
 多くがすでに確認されている遺稿資料3点と重複していた。
 新発見資料に、これまでの遺稿資料では
 未確認の記事や講演録が5編収録されていた。
 内容は
 〈1〉白虎隊について
 〈2〉戊辰戦争の会津藩の火薬庫爆破の伝承
 〈3〉会津の刀工(三善長道)
 〈4〉門司駅員自殺問題(明治44年に起きた駅員自殺への所感)
 〈5〉畏敬する四偉人(明治期の陸軍大将・乃木希典ら)。
 白虎隊については1928(昭和3)年、
 兵庫県の赤穂中(現赤穂高)で行った講演録だった。
 遺稿に白虎隊に関する講演録が収録されるのは、この新資料が唯一という。
 山川は晩年、戊辰戦争を会津藩側の立場から見た
 「会津戊辰戦史」(山川の死後の1933年出版)の編さんを進めた。
 確認される遺稿資料の中には、
 会津藩や戊辰戦争関連の記事が多数含まれており、
 中沢准教授は「編さん過程の作業原稿とみられるものもあり、
 山川が熱心に戊辰戦争の調査をしていたことを裏付けるもの」とみている。
 (2017年02月15日「福島民友」電子版)

白虎隊に関する講演録は、昭和3(1928)年に当時の赤穂中学で行ったもの。
「白虎隊に関する講演録が収録されるのは、この新資料が唯一」とは、貴重です。
新島八重も、白虎隊の悲劇について講演を行っていました。
これより早く、明治42(1909)年5月6日、岡山の山陽高等女学校において、
また、大正6(1917)年には泉南女学校においても、白虎隊の話をしたのだとか。
明治17(1884)年元旦、年賀の挨拶に新島邸を訪ねた池袋清風によれば、
新島邸の応接室の壁面に、飯盛山の白虎隊の石板図があった。
白虎隊の伊藤悌次郎に砲術を教えたこともあり、新島八重も、山川健次郎と同様、
若くして生命を散らした白虎隊に、深く心を寄せていたのでした。
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-3966.html

余談
最終回を迎えた「べっぴんさん」、じわじわと味わい深いドラマでした。
時計と写真、流れる時間と幸せな瞬間をとどめるもの、思いを引き継ぐこと。
淡々と生き、暮らし、何事も受けとめながら、でも、青春は続く。
朝ドラ定番のヒロインとちがい、おっとりと言葉少なの主人公の人物造型、
銀座のワンダーランドの断念などに、製作陣たちの高い志を見た。
「これを成し遂げた」的な成功譚にせず、身の丈にあった生き方を淡々とし、
希望は棄てずに、夢を次世代に託す選択。
最終回まで、キアリスのワンダーランドはできない。
それでも、いつかは叶う気がするのは、
家族をまた失うのが恐いから結婚しない、と言っていた明美が、
年齢を重ねてから、栄輔の提案を受け入れ、気負いなく一緒に暮らし、
やがては入籍する、という、淡々と生きた結果の変化が描かれたからだろうか。
モーターサイクルに乗って最後に登場した潔夫妻も、まだまだ青春。
個人的には、明美さんと悦子さまがお気に入りでした。
「あさが来た」の肥大化(?)、派手さの反動としての形だったのか。
そして、リアルの世界も淡々と過ぎて、明日からは「ひよっこ」が始まる。

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会津と友好へ…白虎隊の碑、山口・美祢に建立

2018年は、明治維新、戊辰戦争から150年のメモリアルイヤー。
山口県に白虎隊の碑が建立された、とのこと。

 会津と友好へ…白虎隊の碑、山口・美祢に建立

 戊辰戦争で敗れ、自刃を図った白虎隊の唯一の生存者が
 引き取られたと言い伝えられる山口県美祢市東厚保の小杉地区に、
 この伝承を記念する「恩愛の碑」が建てられた。
 除幕式が15日、地元で行われ、長州藩士や白虎隊士の子孫らが出席。
 過去の憎しみを乗り越え、未来に向かって手を携える尊さを訴えた。
 記念碑は県産の御影石で作られ、縦約1メートル60、横1メートル80の屏風形。
 歴史愛好家らでつくる「白虎隊の会下関支部」(下関市)と
 美祢市民で構成する実行委員会が寄付を募り、約450万円かけて建てた。
 同支部によると、白虎隊は1868年、
 長州藩などからなる新政府軍の攻撃を受け、敗走。
 一部が自刃を図ったが、飯沼貞吉(1854~1931年)が生き残った。
 小杉地区の庄屋だった高見家では、
 長州藩士の楢崎頼三(1845~75年)が飯沼を保護し、
 高見家に預けたと言い伝えられているという。
 飯沼の世話をしたとされる高見フサの子孫で、
 同支部長の吉井克也さん(69)が、この伝承について調査。
 2008年に飯沼の孫の一元さん(73)(東京)と知り合った。
 一元さんが記念碑の建立を提案し、
 吉井さんらの呼びかけで昨年5月、実行委が発足した。
 除幕式には、一元さんの兄弟や
 楢崎の子孫・松葉玲子さん(81)(東京)らも参加。
 飯沼や楢崎の名が刻まれた記念碑が披露された。
 傍らに設置された説明板には、助かった後も自刃を図った飯沼に対し、
 楢崎が「今からは日本人が心を一つにして、
 この国を強くて豊かな国にせんにゃいけんのじゃ」と諭した逸話が記されている。
 松葉さんは「楢崎が当時、危険を顧みず、
 見返りも求めずに貞吉を守った英断が今日につながった。
 石碑をきっかけに、二人の関係を知ってもらい、
 平和を考えるきっかけにしてほしい」とあいさつ。
 碑の近くでは、会津特産の「みしらず柿」と、萩の「夏みかん」の苗が植えられた。
 吉井さんは「恩讐を越えたつながりが
 実際にあったことを知ってもらう場になってほしい」、
 一元さんは「会津では今も山口県に対し、悪感情を抱く人がいる。
 記念碑は、過去の恨みをひきずらず、
 新たな関係を作るための礎となってほしい」と話した。
 (2016年10月17日「読売新聞」電子版)

養育されたという飯沼貞吉は、山川浩や健次郎、捨松らの従兄弟にあたります。
飯沼の名前は、山川健次郎の日記にも登場していたような……。

余談
昨日の「東京タラレバ娘」は、ちょっと泣けた……。
2人と喧嘩して、雨が降る中、「麺午」の看板の横を通り過ぎ、
「Bar alone」「小料理 おひとり」の看板の横をさらに通り過ぎる倫子。

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2018年=戊辰戦争から150周年

2018年は、明治維新から150年ということで盛り上がりつつあるようですが、
言い換えれば、それは戊辰戦争から150年、なわけです。

 「戊辰戦争」150周年で式典 会津若松で記念事業委の発起人会

 戊辰戦争から150周年にあたる2018(平成30)年に、
 記念事業などを繰り広げる
 「会津若松市戊辰150周年記念事業実行委員会」の発起人会が12日、
 同市で開かれ、記念式典の開催など事業の概要を確認した。
 節目の年に歴史的意義を再確認しながら、
 先人の顕彰を通して文化振興や観光誘客につなげる。
 実行委は17日に設立され、約140団体が加盟する予定。
 実行委は17年度に情報発信に向けて専用ホームページを開設する。
 また機運醸成に向けたのぼり旗やロゴマークを作り、記念誌や映像も制作する。
 このほか複数の部会に分かれて、さまざまな取り組みも進める。
 発起人会には市や会津若松商工会議所、
 会津若松観光ビューローなど10団体の代表が出席。
 議事では「戊辰の歴史とともに、
 新時代を誇り高く生きた会津人の功績と思いに光をあて、
 会津の歴史や伝統文化を広く発信する」との設立趣意を決めた。
 同市では実行委とは別に、
 市民有志による「会津戊辰戦争150周年事業実行委員会」
 (会長・阿部隆一歴史春秋出版社長)が設立され、
 今年から3年計画の事業に着手している。
 (2016年10月13日「福島民友」電子版)

光があてられる、「新時代を誇り高く生きた会津人の功績」とは、誰のこと?
新島八重や海老名リン、あるいは、山川二葉や操もいかがでしょう。

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山川健次郎、佐世保で二葉を見舞う

小宮京・中澤俊輔「山川健次郎手帳日記(明治四○~四二年)翻刻と解題」
(『青山史學』第34号、2016年2月)を入手、気になる部分を抜粋します。
山川家の人々への関心からのポイントですが、敎育史などにおいて、
この新発見の「手帳日記」の重事項とは、おそらくずれてしまうだろうと思います。

山川健次郎は、明治42(1909)年2月1日から10日、九州を再び旅行しました。
内容は、明治専門学校に関するものが多いのですが、
佐世保では、姉の山川二葉を見舞ってもいます。

 明治42(1909)年2月九州旅行日記
 2月2日(神戸)
 停車場にて若き婦人あり、予に一礼し行く先を問ふ。
 佐世保に行く旨を答へたるに二葉おば様の左右を聞き、梶原様に宜敷と云ふ。
 又青山にては沼津に在りと云ふ所によれば、大山家に関係ある人と見えたり。
 上京する人を(神戸からか若くは以西からかなるは不分明なり)を
 送りに来たるものゝ如く、汽車には乗らず帰れり。
 何人なるか詳かならず。
 2月3日(佐世保)
 停車場には景浩、お縫向に出て呉れ居りたり。
 車にて清水町邸に至る。
 景浩夕方帰宅。
 姉上は東京出発の折よりも顔色よくあらるゝ様見受けたり。
 神戸にて面会した女は大山弟の子にて
 村田工学士に縁付きたるものなること判明せり。名は米子なり。
 (小宮京・中澤俊輔「山川健次郎手帳日記(明治四○~四二年)翻刻と解題」
 『青山史學』第34号、2016年2月)

2月2日、神戸で出会った女は、3日にその素性が判明していますが、
姉の二葉などに確認して、わかったのでしょうか。
停車場で迎え出たのは、二葉と梶原平馬の間に生まれた景清の息子、景浩。
一家は、明治40(1907)年から、軍医の景清の転勤で佐世保にいました。
「お縫」というのは、紀州藩士高橋渡のひとり娘で、景清の後妻。
縫子は明治34(1901)年7月15日に景浩を生んでおり、景浩は今、8歳か。
東京にいたときよりも元気そうに見えた、という二葉でしたが、
一家が上京した後、明治42(1909)年11月16日、66歳で亡くなりました。

余談
「べっぴんさん」、喜代さんの五月への言葉、「お母さんの、五月さんの愛情、
いっぱい伝えてあげて下さい。言わなくてもわかるやろなんて思わんと、
ちゃんと言葉にして、抱きしめて伝えてあげて下さい」。
生来の口べたのすみれに、これを早く言ってあげられれば?

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