2017
04.02

山川健次郎の新資料

Category: 山川家の人々
発掘、再評価が進んでいるなと感じる山川健次郎について、またも新発見が。
新しく見つかった資料の中には、白虎隊に関する講演録もあった。

 古書店で『山川健次郎の新資料』発見! 未確認の講演録収録

 東京帝国大総長を務めた会津藩出身の白虎隊士、
 山川健次郎(1854~1931年)の死後に近親者らがまとめた
 遺稿の新資料が14日までに、発見された。
 戦前に刊行されたものなど種類の違う3点の遺稿資料が確認されており、
 今回が4点目になる。
 未確認の「白虎隊」に関する講演録が収録されており、
 研究者は「白虎隊顕彰に積極的だった山川の活動の一端が垣間見える」
 と評価する。
 小宮京青山学院大准教授(日本現代史)、
 中沢俊輔秋田大准教授(日本政治外交史)が昨年12月、古書店で見つけた。
 新資料は「山川博士遺稿」と題が付けられた上・下巻の2冊で、
 合わせて約500ページある。
 書店などに流通させない私家版で、山川の死後においらが編さんした。
 内容は山川の講演録や新聞への寄稿などで、
 多くがすでに確認されている遺稿資料3点と重複していた。
 新発見資料に、これまでの遺稿資料では
 未確認の記事や講演録が5編収録されていた。
 内容は
 〈1〉白虎隊について
 〈2〉戊辰戦争の会津藩の火薬庫爆破の伝承
 〈3〉会津の刀工(三善長道)
 〈4〉門司駅員自殺問題(明治44年に起きた駅員自殺への所感)
 〈5〉畏敬する四偉人(明治期の陸軍大将・乃木希典ら)。
 白虎隊については1928(昭和3)年、
 兵庫県の赤穂中(現赤穂高)で行った講演録だった。
 遺稿に白虎隊に関する講演録が収録されるのは、この新資料が唯一という。
 山川は晩年、戊辰戦争を会津藩側の立場から見た
 「会津戊辰戦史」(山川の死後の1933年出版)の編さんを進めた。
 確認される遺稿資料の中には、
 会津藩や戊辰戦争関連の記事が多数含まれており、
 中沢准教授は「編さん過程の作業原稿とみられるものもあり、
 山川が熱心に戊辰戦争の調査をしていたことを裏付けるもの」とみている。
 (2017年02月15日「福島民友」電子版)

白虎隊に関する講演録は、昭和3(1928)年に当時の赤穂中学で行ったもの。
「白虎隊に関する講演録が収録されるのは、この新資料が唯一」とは、貴重です。
新島八重も、白虎隊の悲劇について講演を行っていました。
これより早く、明治42(1909)年5月6日、岡山の山陽高等女学校において、
また、大正6(1917)年には泉南女学校においても、白虎隊の話をしたのだとか。
明治17(1884)年元旦、年賀の挨拶に新島邸を訪ねた池袋清風によれば、
新島邸の応接室の壁面に、飯盛山の白虎隊の石板図があった。
白虎隊の伊藤悌次郎に砲術を教えたこともあり、新島八重も、山川健次郎と同様、
若くして生命を散らした白虎隊に、深く心を寄せていたのでした。
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-3966.html

余談
最終回を迎えた「べっぴんさん」、じわじわと味わい深いドラマでした。
時計と写真、流れる時間と幸せな瞬間をとどめるもの、思いを引き継ぐこと。
淡々と生き、暮らし、何事も受けとめながら、でも、青春は続く。
朝ドラ定番のヒロインとちがい、おっとりと言葉少なの主人公の人物造型、
銀座のワンダーランドの断念などに、製作陣たちの高い志を見た。
「これを成し遂げた」的な成功譚にせず、身の丈にあった生き方を淡々とし、
希望は棄てずに、夢を次世代に託す選択。
最終回まで、キアリスのワンダーランドはできない。
それでも、いつかは叶う気がするのは、
家族をまた失うのが恐いから結婚しない、と言っていた明美が、
年齢を重ねてから、栄輔の提案を受け入れ、気負いなく一緒に暮らし、
やがては入籍する、という、淡々と生きた結果の変化が描かれたからだろうか。
モーターサイクルに乗って最後に登場した潔夫妻も、まだまだ青春。
個人的には、明美さんと悦子さまがお気に入りでした。
「あさが来た」の肥大化(?)、派手さの反動としての形だったのか。
そして、リアルの世界も淡々と過ぎて、明日からは「ひよっこ」が始まる。
2017
02.09

会津と友好へ…白虎隊の碑、山口・美祢に建立

Category: 山川家の人々
2018年は、明治維新、戊辰戦争から150年のメモリアルイヤー。
山口県に白虎隊の碑が建立された、とのこと。

 会津と友好へ…白虎隊の碑、山口・美祢に建立

 戊辰戦争で敗れ、自刃を図った白虎隊の唯一の生存者が
 引き取られたと言い伝えられる山口県美祢市東厚保の小杉地区に、
 この伝承を記念する「恩愛の碑」が建てられた。
 除幕式が15日、地元で行われ、長州藩士や白虎隊士の子孫らが出席。
 過去の憎しみを乗り越え、未来に向かって手を携える尊さを訴えた。
 記念碑は県産の御影石で作られ、縦約1メートル60、横1メートル80の屏風形。
 歴史愛好家らでつくる「白虎隊の会下関支部」(下関市)と
 美祢市民で構成する実行委員会が寄付を募り、約450万円かけて建てた。
 同支部によると、白虎隊は1868年、
 長州藩などからなる新政府軍の攻撃を受け、敗走。
 一部が自刃を図ったが、飯沼貞吉(1854~1931年)が生き残った。
 小杉地区の庄屋だった高見家では、
 長州藩士の楢崎頼三(1845~75年)が飯沼を保護し、
 高見家に預けたと言い伝えられているという。
 飯沼の世話をしたとされる高見フサの子孫で、
 同支部長の吉井克也さん(69)が、この伝承について調査。
 2008年に飯沼の孫の一元さん(73)(東京)と知り合った。
 一元さんが記念碑の建立を提案し、
 吉井さんらの呼びかけで昨年5月、実行委が発足した。
 除幕式には、一元さんの兄弟や
 楢崎の子孫・松葉玲子さん(81)(東京)らも参加。
 飯沼や楢崎の名が刻まれた記念碑が披露された。
 傍らに設置された説明板には、助かった後も自刃を図った飯沼に対し、
 楢崎が「今からは日本人が心を一つにして、
 この国を強くて豊かな国にせんにゃいけんのじゃ」と諭した逸話が記されている。
 松葉さんは「楢崎が当時、危険を顧みず、
 見返りも求めずに貞吉を守った英断が今日につながった。
 石碑をきっかけに、二人の関係を知ってもらい、
 平和を考えるきっかけにしてほしい」とあいさつ。
 碑の近くでは、会津特産の「みしらず柿」と、萩の「夏みかん」の苗が植えられた。
 吉井さんは「恩讐を越えたつながりが
 実際にあったことを知ってもらう場になってほしい」、
 一元さんは「会津では今も山口県に対し、悪感情を抱く人がいる。
 記念碑は、過去の恨みをひきずらず、
 新たな関係を作るための礎となってほしい」と話した。
 (2016年10月17日「読売新聞」電子版)

養育されたという飯沼貞吉は、山川浩や健次郎、捨松らの従兄弟にあたります。
飯沼の名前は、山川健次郎の日記にも登場していたような……。

余談
昨日の「東京タラレバ娘」は、ちょっと泣けた……。
2人と喧嘩して、雨が降る中、「麺午」の看板の横を通り過ぎ、
「Bar alone」「小料理 おひとり」の看板の横をさらに通り過ぎる倫子。
2017
02.08

2018年=戊辰戦争から150周年

Category: 山川家の人々
2018年は、明治維新から150年ということで盛り上がりつつあるようですが、
言い換えれば、それは戊辰戦争から150年、なわけです。

 「戊辰戦争」150周年で式典 会津若松で記念事業委の発起人会

 戊辰戦争から150周年にあたる2018(平成30)年に、
 記念事業などを繰り広げる
 「会津若松市戊辰150周年記念事業実行委員会」の発起人会が12日、
 同市で開かれ、記念式典の開催など事業の概要を確認した。
 節目の年に歴史的意義を再確認しながら、
 先人の顕彰を通して文化振興や観光誘客につなげる。
 実行委は17日に設立され、約140団体が加盟する予定。
 実行委は17年度に情報発信に向けて専用ホームページを開設する。
 また機運醸成に向けたのぼり旗やロゴマークを作り、記念誌や映像も制作する。
 このほか複数の部会に分かれて、さまざまな取り組みも進める。
 発起人会には市や会津若松商工会議所、
 会津若松観光ビューローなど10団体の代表が出席。
 議事では「戊辰の歴史とともに、
 新時代を誇り高く生きた会津人の功績と思いに光をあて、
 会津の歴史や伝統文化を広く発信する」との設立趣意を決めた。
 同市では実行委とは別に、
 市民有志による「会津戊辰戦争150周年事業実行委員会」
 (会長・阿部隆一歴史春秋出版社長)が設立され、
 今年から3年計画の事業に着手している。
 (2016年10月13日「福島民友」電子版)

光があてられる、「新時代を誇り高く生きた会津人の功績」とは、誰のこと?
新島八重や海老名リン、あるいは、山川二葉や操もいかがでしょう。
2017
02.06

山川健次郎、佐世保で二葉を見舞う

Category: 山川家の人々
小宮京・中澤俊輔「山川健次郎手帳日記(明治四○~四二年)翻刻と解題」
(『青山史學』第34号、2016年2月)を入手、気になる部分を抜粋します。
山川家の人々への関心からのポイントですが、敎育史などにおいて、
この新発見の「手帳日記」の重事項とは、おそらくずれてしまうだろうと思います。

山川健次郎は、明治42(1909)年2月1日から10日、九州を再び旅行しました。
内容は、明治専門学校に関するものが多いのですが、
佐世保では、姉の山川二葉を見舞ってもいます。

 明治42(1909)年2月九州旅行日記
 2月2日(神戸)
 停車場にて若き婦人あり、予に一礼し行く先を問ふ。
 佐世保に行く旨を答へたるに二葉おば様の左右を聞き、梶原様に宜敷と云ふ。
 又青山にては沼津に在りと云ふ所によれば、大山家に関係ある人と見えたり。
 上京する人を(神戸からか若くは以西からかなるは不分明なり)を
 送りに来たるものゝ如く、汽車には乗らず帰れり。
 何人なるか詳かならず。
 2月3日(佐世保)
 停車場には景浩、お縫向に出て呉れ居りたり。
 車にて清水町邸に至る。
 景浩夕方帰宅。
 姉上は東京出発の折よりも顔色よくあらるゝ様見受けたり。
 神戸にて面会した女は大山弟の子にて
 村田工学士に縁付きたるものなること判明せり。名は米子なり。
 (小宮京・中澤俊輔「山川健次郎手帳日記(明治四○~四二年)翻刻と解題」
 『青山史學』第34号、2016年2月)

2月2日、神戸で出会った女は、3日にその素性が判明していますが、
姉の二葉などに確認して、わかったのでしょうか。
停車場で迎え出たのは、二葉と梶原平馬の間に生まれた景清の息子、景浩。
一家は、明治40(1907)年から、軍医の景清の転勤で佐世保にいました。
「お縫」というのは、紀州藩士高橋渡のひとり娘で、景清の後妻。
縫子は明治34(1901)年7月15日に景浩を生んでおり、景浩は今、8歳か。
東京にいたときよりも元気そうに見えた、という二葉でしたが、
一家が上京した後、明治42(1909)年11月16日、66歳で亡くなりました。

余談
「べっぴんさん」、喜代さんの五月への言葉、「お母さんの、五月さんの愛情、
いっぱい伝えてあげて下さい。言わなくてもわかるやろなんて思わんと、
ちゃんと言葉にして、抱きしめて伝えてあげて下さい」。
生来の口べたのすみれに、これを早く言ってあげられれば?
2017
02.05

山川健次郎、女子教育への関心

Category: 山川家の人々
小宮京・中澤俊輔「山川健次郎手帳日記(明治四○~四二年)翻刻と解題」
(『青山史學』第34号、2016年2月)を入手、気になる部分を抜粋します。
山川家の人々への関心からのポイントですが、敎育史などにおいて、
この新発見の「手帳日記」の重事項とは、おそらくずれてしまうだろうと思います。

山川健次郎は、中等教育機関の視察のため、九州地方を訪れました。
明治40(1907)年1月から2月11日にかけ、精力的に動いています。
「教員検定委員長でもあった山川は、教員検定制度の改正にあたって
教育現場の視察を思い立ったと考えられる」、とのこと。
また、明治専門学校の設立準備の目的もあった。
行く先々で授業を参観、生徒と食事をともにして演説をこなし、教育者と懇談。
下記抜粋からもわかるように、女子教育の現場にも足を運んでいます。

 明治40(1907)年1月九州旅行日記
 1月15日(久留米)
 高等女学校に至る。校長細見保氏の案内にて参観後又一塲の演説を為す。
 教育上功労ある偉婦人星野房子女史に面会す。
 1月18日(熊本)
 前日の約により尚絅女学校を参観す。
 校長内藤儀十郎氏親ら案内せり。
 私立なれば校舎等狭隘陋なれども各員頗る熱心に見受けられたり。
 校長の望に任せ一塲の演説を為せり
 (校長前日訪問せられ演説の請求ありしが
 外に取り立てゝ云ふべき事なき旨答へたるに、
 神戸高等女学校にて為したる演説にて宜敷旨を申たり。
 故は昨年神戸にて演説せし時、丹羽トシ子女史該校教員たりしが、
 同人今は尚絅校に勤務せるを以て、
 同人より予が神戸に於ける演説を聞きたる由なり)。
 1月24日(長崎)
 約束あれば私立女学校に立寄り(女学校は桐山氏等の経営に係る)
 1月25日(佐賀)
 成美女学校(高等女学校の認定なし、
 但し其本科は高等女学校令により編成す)其附近なるにより立ち寄りたり。
 校長江頭幾三郎氏の案内にて一時半より二時半の授業を見たれども
 皆裁縫刺繍等にて只一塲に於て国語を授くるを見たるのみ。
 (小宮京・中澤俊輔「山川健次郎手帳日記(明治四○~四二年)翻刻と解題」
 『青山史學』第34号、2016年2月)

1月15日に高等女学校で対面したのは、「教育上功労ある偉婦人星野房子女史」。
久留米高等女学校(現在の明善高等学校)創設に、私財を寄附した人物。
久留米初の幼稚園、久留米幼稚園を開設し、園長となり、
久留米女子職業学校(現在の久留米高等学校)を設立して、校主になっています。
対面した場所は、久留米高等女学校だったのでしょう。
星野房子自身、女子中等教育の機会のなかった時代、久留米中学校に学び、
男女共学以前の明善校の卒業生の中に、女性として唯一、名前を残しているとか。
18日、前日に訪れた「済々校」(済々黌)附属から独立した尚絅女学校を訪問。
詳細は不明ですが、丹羽トシ子なる教員の存在も気にかかります。
24日には、東京物理学講習所(現在の東京理科大学)の創立者の一人、
桐山篤三郎に会い、彼らの経営するという「私立女学校」に立ち寄っています。
翌日には佐賀に入って、成美女学校を訪ねました。
県立女学校に行ったものの授業はなく、宿舎などを見学しただけで、
「其附近なるにより」、成美女学校に立ち寄った、とあるのは、いかにも精力的。
成美女学校は、県立佐賀西高等学校の母体の一つとか。
創立者の豊増一女(はじめ)は、佐賀婦人矯風会を設立したそう。
同じ熊本出身の矢嶋楫子と、どこかで関わるのでしょうか。
それにしても、華族女学校の教育にも関与する山川健次郎ですが、
女子教育への関わり方は、研究されていないような気がします。
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