2017
08.20

成瀬仁蔵『女子教育』を読んで

Category: 広岡浅子
井上秀が生涯を捧げることになる、日本女子大学校も、
広岡浅子なくして開校されたかどうか、それもわかりません。

 前に申した九州へ炭鉱監督にゆく車中で、浅子さまは、
 成瀬先生の「女子教育」という本を開いてよみはじめたところ、
 そこにある説が、感激をよびました。
 『これはいい事を書いてある!』と思われて、すつかり読んでから、
 又もう一度よみ、かえりの車中で又も読みかえす気になり、
 『この通り、この通り……』と思われたそうです。
 すると、実行家の性格をもつているこの方でしたから、
 早速、実現にかかりました。
 
広岡浅子の型破りな行動の象徴が、女ながら炭鉱を経営し、視察したこと。
まさに、その炭鉱監督に行く途中で、成瀬仁蔵の『女子教育』を読んだわけです。
感激しただけで終わらず、すぐに行動に出るところが、広岡浅子らしさ。

 当時、成瀬先生の教育主張に共鳴され、
 日本女子大学設立に支援されました方は、
 大和の富家土倉庄三郎氏でありましたが、更に、三井氏に紹介され、
 伊藤公に紹介され、又、他の方へも紹介されて、
 日本女子大学創設のレールは敷かれていつたのでありました。
 何というすばらしい先駆者で、そして、実行家でありましたか!
 成瀬校長もこの広岡夫人に出逢わなかつたら、その志はどんなに立派でも、
 ことによつたら、日の目を見ない結果になつたかと思われます。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

成瀬仁蔵は、やはり牧師であり、教育者であり、世間には疎い。
広岡浅子や土倉庄三郎などの商人が支援してはじめて、寄附も集まった。
志だけでは実現しない、生々しい部分を担ったわけでしょう。

余談
「おんな城主 直虎」第33回、井伊を、直虎を守るために、
「嫌われ政次の一生」を貫いた但馬。
その但馬をみずから槍で突いた直虎……。
2013年「八重の桜」第33回は「尚之助との再会」だったと思い出す。
翌日、八重さんのウエディングドレス姿が公開されてショックだったことも。
直虎と但馬の、愛、絆、主従関係のすべてが入り混じった信頼関係。
それが凝縮された、大河ドラマ史上にもない壮絶な但馬の最期。
2017
08.19

広岡浅子は「母以上の母」

Category: 広岡浅子
広岡浅子の凛とした、たくましい生き方は、井上秀を大いに感化しました。

 何事をもおそれない女の人を私はこの方で知りました。
 どんな逞しい男の人々にでも、交渉し、命令し、
 叱咤もする有様に、痛快を感じ、
 『この方はほんとにえらい女の人だ』とすつかり心腹して了いました。
 男女同権などと理窟をいう人の一人もいない早い時に、
 私は、事実として、男と同じ力をもつ女の人の生き方を
 女社長の姿を見せてもらつたこととなります。
 深い影響を受けした(ママ)。

なるほど、井上秀は、思想として男女同権を考えるよりも先に、
広岡浅子の「男と同じ力をもつ女の人の生き方」を、目の当たりにした。

 この浅子さまの薫陶が、のちに、外国へ渡る時の私の心の力となりました。
 広岡亀子さんと私とがお友達となつた
 京都府立第一高女の高度な教育の力が(特に英語)
 これまた外国へゆく時、私に役立ちまして、好都合でしたが、
 浅子さまから身近に享けた「生き抜く力」を欠いでいたなら、どうでしたろうか。
 思えば、私は幸福者でした。
 何としても、えらい女性の浅子さまとの御縁で
 今日の私があると考えられるのです。
 『うちへ来ないこと!』
 と亀子さんにひっぱられて、加島屋へ行つた日から終生
 (故人の世を去るまで)私に親切であつた浅子さまのことを考えると、
 母以上の母という感じです。
 加島屋のひろい奥座敷で浅子さまをまんなかにして、
 亀子さんと私は寝たのです。
 お菓子も同じようにいただいたのです。
 持ちものを度々、そろいにしてくれました。
 こんなことを考えると泌々なつかしくなります。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

京都府立第一高等女学校が休みになると、大阪の加島屋に誘われ、
親友の亀子を真ん中にして、広岡浅子をまじえて川の字になって寝たこと。
亀子とおそろいの持ちものをあつらえてもらい、娘同然に扱われたこと。
広岡浅子は、井上秀にとって、「母以上の母」でした。
広岡浅子から学んだ「生き抜く力」があったから、米国留学もできた。
自分は幸福者、広岡浅子との「御縁」があったからこそ自分がある、と思う。
そして、井上秀が生涯を捧げることになる母校も、
広岡浅子なくして開校されたかどうか、それもわからないのです。

余談
「ひよっこ」、由香(子がつかないな)とみね子は裏返しかな。
つらくても耐える生き方(由香の母の生き方)と、そこから逃げ出した由香。
けなげな娘のみね子、嫌な娘になってしまう由香。
耐えたのではなくて、自分で決めて、島谷と別れることを選んだ。
それも自由だ、と言うみね子に、由香は涙。
死んでしまった母親もそうだったのか、と由香は知るのかな。
由香が一緒に暮らしているのは、売れない、ほとんど家にいない絵描き。
(この絵描きさんは、これから出てくる?)
由香は花屋でアルバイト、彼女も働く人だった。
「悲しいことあってもさ、そのことばっかり考えてなんて生きていけない。
忘れることはできなくても、考えないようにしないと、
生きてなんていけないと思うんだ。
でも、私の存在がさ、鈴子さんとお父さんを楽にしないんだ。
思い出させてしまうし、後ろめたいっていうか、
毎日、楽しく生きてちゃいけないんだって思わせてしまうんだよね。
私がそうさせないような、明るいいい子だったら、
大丈夫だったのかもしれないけど、うまくできないし……。
そうしようと思っても、何か嫌な感じになっちゃうし……。
それはそれでつらいし、お父さんのことも鈴子さんのことも好きだしさ、本当は」
こちらの家族も記憶の物語、こちらは忘れられないことが問題なのか。
忘れてしまった実、忘れられない過去に縛られる省吾や由香たち。
どちらも解決してくれるのは時間なのかな、と背景のたくさんの時計を見て思う。
親を許す、ことが大人の証拠だとみね子の思い。
(みね子の親友だけど、これまで時子の物語が希薄のような?)
来週はミニスカート=女たちの解放か、川本世津子さんも再登場!
2017
08.18

「やりましよう」「やりなさい」

Category: 広岡浅子
聡明な井上秀は、広岡浅子に連れられ、炭鉱に赴いて何を感じたでしょうか。
広岡浅子の実の娘、亀子ではなく、自分が誘われた喜びもあった。

 ついに、下関通過、連絡の船にのり、門司に上陸し、
 目ざす嘉穂郡の加島炭鉱へ到着し出迎への人々にみちびかれて、
 浅子さまの泊りつけの大きい旅館に入りました。
 ここでも私は珍しいものを見ました。
 大きい三角形のボタ山、
 その山のここかしこに石炭殻がブスブス燃えておりました。
 翌日には浅子さまや数人の人と一緒に、
 石炭を掘る現場を見といた方がいいといわれて、
 夫人は降りられませんでしたが、
 私たちを地下数千尺の地底まで行かせてくれました。
 浅子さまは私に対して、『してはいけません』
 『おやめなさい』ということをほとんどおつしやらなかつた。
 『やりましよう』『やりなさい』いつでも、激励する方でした。
 この九州の炭鉱見学の旅は五日間で終りましたが、この五日間に、
 これまでになく接近したせいか、
 浅子さまの持つている「人間の味」が私の中にピンピンと伝わりました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

これは、いかにも広岡浅子らしいエピソードとして知られますが、
広岡浅子は井上秀に、「やりましよう」「やりなさい」としか言わなかった、
「してはいけません」「おやめなさい」などと制することは、殆どなかったのだとか。
それはまた、広岡浅子の生き方、思想であった、と言えるでしょう。
そうした広岡浅子の「人間の味」を「ピンピン」感じた、という井上秀でした。

余談
「ファミリーヒストリー」のオノ・ヨーコ、曽祖父・曾祖母の話は「八重の桜」みたい。
祖母にあたる、神戸英和女学校に学んだという、税所鶴を知りたい。
同志社の京都看病婦学校で助手をし、そこで小野英二郎に出会った。
同志社英学校に入った小野英二郎は、新島襄から、
津田元親(津田仙の長男)や広津友信(八重の養女、初子の夫になる)と受洗。
2017
08.17

井上秀、広岡浅子に可愛がられる

Category: 広岡浅子
井上秀が広岡浅子にあこがれ、炭坑にまで付き添ったのは、有名な逸話。
「大略の自伝」でも、そのことを書き記しています。

 加島屋一統は大阪に加島銀行を興しました。
 本家も新家もこの事業で再興を期したわけですが、
 新家の若夫人浅子は、又、別に九州から来た人の話を採用して、
 福岡県下、嘉穂郡の新炭鉱の発掘にのり出しました。
 多分加島炭鉱と申したのでしよう。
 『この方は私が努力いたします』と夫にいつて、
 まず見聞のため福岡へゆかれたのが明治十五六年頃とおもわれます。
 なかなか有望な鉱脈だつたものですから、
 投資もまして、着々とりかかりました。
 炭鉱の実務にあたる人には適当な人々を配置し、監督がてら、
 何度ども、九州へ出かけた夫人の英気には、
 当時のことですから、周囲の人々も驚いたこととおもいます。

京都府立第一高等女学校で出会い、寄宿舎で同室だった広岡亀子に誘われ、
大阪の広岡家を訪ねて浅子を知った、それは井上秀の転機でした。
広岡浅子と親しくならなければ、井上秀の人生はちがっていたと思われます。

 今日でも私の忘れずにおりますのは、浅子さまについて、
 十八歳の私が九州へ行つたことであります。
 『何でも知つておかなくちや……』といわれて、
 私をつれてゆくことにきめました。

炭鉱まで足を延ばしたのは、井上秀が18歳のとき、とあります。
明治26(1893)年、翌年に京都府立第一高等じょがっこうを卒業しています。

 浅子さまの娘の亀子さんは行かれません。
 私一人をつれてゆくというので、旅行の支度をしたのですが、
 私とても、どんどん出かけていつて、
 新しい事を知るのは好きな性分でしたから大喜びで大阪駅からたちました。
 初めて見る山陽、山陰の風景、沿道のありさまは珍しいことばかり、
 ……そこで、何か見るごとに、車窓から指さして、質問しますと、
 一つ一つくわしく説明してくれました。
 ことによつたら、浅子さまは、娘の亀子さんよりも、気質から、私に近く、
 そのため、私が可愛いいのかもしれないと思う位でした。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

広岡浅子は、自身の「気質」に近い井上秀に可能性を見出したのでしょうか。
女子のための大学校を創りたい、と思ったのも、
身近なところで言えば、井上秀のような子のために、と考えたかもしれない。

余談1
「ひよっこ」、うなされる実は、東京でうなされていた宗男とやはり対だろう。
みね子が宗男の手をとってあげたように、ちよ子が手を握ってあげた。
東京では、川本世津子が実の手を……とか思ったり。
自身が忘れてしまっても、捜索していた綿引さんは、
実を覚えていた人から話を聞いて、働き者だった実を知っていた。
「出ました。朝ドラ名物の立ち聞きですね」
「さて、問題です」という週タイトルは、お父さんを見つけるという課題が終わり、
物語がまだ解決していない問題を整理する、ということかしら。

余談2
炎上とか批判殺到とか、もう面倒、と思っているので、
例の石鹸の宣伝動画も、見ていません。
見ていないのに思うのは、短い動画なのに欲張りすぎたのかな、
子どもの誕生日でなかったらよかったのかな、など。
男性だって、父親だって、生き方に迷う。
「イクメン」が理想の夫、パパという風潮に流されていないか、
ちがう背中の見せ方もあるか、などと少し立ち止まって、反発したくなる。
今のままで自分の父親のように何か与えられるのか、不安にもなる。
でも、もとの場所に戻る。
優しいパパが本当に嫌なわけじゃない、だから、ふと感じた疑問は洗い流す。
子どもの誕生日、父親も悩み、迷いながら成長する。
2017
08.16

広岡浅子への感謝

Category: 広岡浅子
井上秀は、「大略の自伝」の後半部でも、再び広岡浅子に触れています。

 日本女子大学および桜楓会、そして私の深く、
 感謝している女の方は故広岡浅子刀自であります。
 この方については、これまでに何回か申して来ましたが、
 ここに特筆する訳は、故人への敬愛が、女子大学のつづく限り、
 桜楓会のある限り、又私なり、私の子孫が長く長くこの方に感謝し、
 御冥福を祈りたいからであります。
 幕末から明治維新初期にかけて、野村望東尼、太田垣蓮月、村岡の局、
 降つては税所敦子、下田歌子、樋口一葉、河原操、
 奥村五百子という方々が文化、文芸、
 教育其他の方面で活躍されておりますが、
 実業方面にはこれぞという方はありません。
 これというのも、その頃の日本が、政治経済の方向に、
 女の人の活動を許さなかつたことに大きい原因はあるのですが、
 その許されない社会状勢の中で、才能を発揮し、相当の実績をあげた婦
 人実業化の随一人に広岡浅子夫人を見出すのであります。
 江戸幕府の瓦解、つづいて廃藩置県と大きい変化が相次いで起り、
 上下、ただならぬ雲行の中で、打ちのめされたようになつたのは
 武士につながる仕事をしていた商売ですが、
 大阪の有名な両替星だつた加島屋とその一統、鴻ノ池とその一統、
 これが休業に近い有様となりました。
 加島屋と、鴻ノ池とは、大阪で諸大名相手の両替、
 御用商人として両大関の観を呈していた。
 何れまさり劣りのない老舗であり、素封家でありました。
 この相手方ともが、新時勢にまきこまれて、青息吐息という事になり
 使用人は分散するし、それまで気楽だつただけに、
 当主のしよげ方は大きいものでありました。
 加島屋ではこれから何をして店を繁栄させようかという事についての
 一族の相談会も度々開かれました。
 当主は若く、所謂、ボンボンでしたから、意気消沈、ただ嘆息をつくばかり、
 広岡久右衛門という方が「御本家」でこちらは「新家」と申されていました。
 本家も新家もおうように育つて来ている人たちなので、
 機に応じて身を処する方法が分らなかつたのも無理はありません。

歴史的な位置づけから、広岡浅子の女傑ぶりを説明しています。
文化、文学や教育の面で活躍した女性はあっても、女実業家はいない。
明治維新の当時の混乱については、広岡浅子や亀子から聞いていたのか。
若い当主の「ボンボン」というのが、広岡信五郎でしょう。

 この加島屋の新家の若夫人が浅子さんでありました。
 当時三十四五歳、一人娘さんの母でありましたが、
 父親似と申していいのでしよう。
 (父、三井一家の一人)
 実業に興味をもちなかなか着眼点がよい人でありました。
 生年月日の正確なことは分りませんが、多分嘉永年間の御出生と思います。
 幼少よりお附きの人々から和漢の書を教えられ、
 当時の女性としては十二分にもつた教養が、
 その男まさりの性格を益々立派にしていました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

亀子という「一人娘」をもちつつ、父の三井高益譲りの資質を備えていた。
それというのも、広岡浅子は、ただのお転婆ではなくて、
「和漢の書」による「十二分にもつた教養」があってこそ、名をなした。
この筆致は、いかにも井上秀らしいといった感じです。
わからないとしていますが、広岡浅子は、嘉永2(1849)年の生まれ。
ちなみに、奥村五百子(や新島八重)は、弘化2(1845)年、
下田歌子は安政元(1854)年、樋口一葉は明治5(1872)年に生まれました。
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