2017
09.12

井上秀が英語を学んだ柴田塾

Category: 広岡浅子
井上秀が京都府立第一高等女学校に入り、英語の授業に難儀して、
寄宿舎を出て学んだという事情は、次のように詳細にも語られています。

 學校内の限定された勉強の方法に從ふてゐたのでは
 これはなかなか追ひつけさうもない、
 一つ思ひ切つてリーダーの一からやり直すのでなくては駄目だと、
 そこまで自分の足りなさが分ると却つて非常な勢ひが出て、
 保証人の今井先生のお父さんの御諒解を得、校外に出て、
 つい一丁程の距離の、
 東三本木といふところの路地にある靜かな家の間借りをし、
 河原町二條にある柴田といふ塾に、學校の放課後毎日通ひまして、
 同志社からそこへ敎へに見える北里先生に就き、
 リーダーの一から勉強いたしました。
 これが私の勉強らしい勉強のはじめ、全くこゝでは一生懸命でございました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

柴田という英語塾は、先生1人に生徒は1人の個人レッスン方式。
同志社から教えにきた「北里」とは、男性か女性かも不明で、わかりません。
井上秀がこの女学校を目指した契機にもなった、「今井先生」。
間借りをしたのは、「東三本木といふところの路地にある靜かな家」でした。
この家は、「賴三樹さんのお家」であったようです。
老婦人と娘さんがお住まいであった、とも書かれています。
老婦人は、「もと宮中へお仕えしていたという」とあり、信用のできるお宅。
そして、親友であったという「土肥田京子」と禅の修業をし、
洋館で広岡家の令嬢を預かった、というのも、「京都市三本木町」とか。
その「土肥田京子」は、京都女子手芸学校の教員となったと考えられますが、
その京都女子手芸学校の理事として、「頼龍三」の名が見えます。
ここにも、詳細はよくわからないのですが、どうやらつながりがありそう。

余談
あまりに無気力で、やるべきこともできていない。
おまけに、こんな状態では見たくないので、「ひよっこ」も見ていない。
ただ、みね子は、お城(マンション)からお姫さま(世津子)を救いだした。
王子さまにあこがれ、救い出される側の、
「かわいそうな女の子」では完璧になくなったのだ、と思う。
このブログは、ためてあった記事もあり、惰性もあり、何とか更新。
2017
09.11

土肥田京子

Category: 広岡浅子
井上秀は、京都府立第一高等女学校を卒業後、明治29(1896)年、
21歳のときには、「三本木町の柳原伯の別邸内の一棟洋館」で、
友人の土肥田京子とともに禅の修業をし、「広岡家の令嬢二人を託されて」いた。
大岡蔦枝はこのように書いていますが、土肥田京子とは誰か。
中等教科書協会『中等教科書協会 明治41(1908)年10月現』に、名前が見える。
京都女子手芸学校で裁縫や家事(?)を教えていたのが、彼女では?
ちなみに、京都女子手芸学校は、現在の京都橘学園の前身です。

 私立京都女子手藝學校
 京都市中立實通西洞院東入
 明治三十五年三月創立
 現在生徒二百三十二名
 名譽校長 大塚 要
 校長兼理事 鳥海弘毅
 主幹兼理事 漢、算、代、造花、修、 中森孟夫
 理事 頼 龍三
 
この教職員の中に、「教授 裁、家」として「土肥田京子」とあります。
この土肥田京子については、また調べてみたいと思っています。
ただ、土肥田京子もまた、井上秀と同様に女子教育の道に進んだようです。
2017
09.10

井上秀の涙

Category: 広岡浅子
井上秀は、日本女子大学校の第1回生として、母校にその人生を捧げました。
成瀬仁蔵のまさに「長女」として、井上秀は責任感と使命感を全うして、
16年もの長い期間を校長として学園を守り、戦争の時代もその任にあたった。
日本女子大学校校長、附属高等女学校校長、附属豊明小学校校長、
附属豊明幼稚園園長として、卒業生初の責任を担いました。
大学葬は、昭和38(1963)年9月21日、成瀬記念講堂において行われましたが、
そのときに、葬儀委員長・学長として、上代タノは次のように述べています。

 ここに先生のお働きの一々を述べることはできませんが、
 たとえば次の一事だけでも深い感銘として
 われわれの記憶に鮮やかなことであります。
 即ち先生は昭和十六年の日本女子大学創立四十周年を目標として
 女子綜合大学の実現を期し、その第一歩として
 理事故三井高修氏の熱心な協力を得て西生田に十数万坪の土地を求め、
 ここに校舎と寮舎の建設を始められました。
 戦争によて、この計画は中断しましたが、この綜合大学の建設こそは、
 成瀬先生の教育体系の基本をなすものでありました。
 井上先生の西生田開拓は、
 この創立者の悲願を実現しようとする努力のあらわれであります。
 この十六年間にわたる井上先生の校長としてのお働きによって、
 日本女子大学校は一大飛躍をとげ、
 本大学が今日の隆昌をもたらすための基盤をつくりあげられたのであります。

西生田キャンパスを「開拓」したのも、井上秀の功績の1つであり、
それは、成瀬仁蔵が理想として、「女子綜合大学」の建設を意味していました。
現在の日本女子大学の礎を築いたのは、井上秀だった。

 不幸戦後追放にあわれ、数年間公職を離れられましたが、
 先生はそれを得難い修養の機会として理想と読書とに活用し
 建学精神をいよいよ深く探求してその真意を体現されました。

学園とともに生きた井上秀にとって、戦後の公職追放はつらい時期でした。
娘の菅支那も、その時期を振り返っています。

 長い母の一生の間には、いろいろの事があったが、
 わけても大学本科の方針変更問題で学内に大動揺が起こり、
 私も心配の余り、目白の家で一夜をまんじりともせず、
 母と泣き明かしたことがあった。
 戦後は公職追放で、三年間、校門もくぐれなかった。
 そのため、何かと母校に重要相談があると、当時、
 母校正門前にあった私の家に泊った。
 母校の大切な会議も、そこが会場にされることもあった。
 そして、無意識裡に足が校門に向かうと、ふと、
 「ああ! こんなところに行っていた」
 と自分をたしなめるようにいうのを聞いて、
 母が無性に気の毒になり、思わず眼に涙したこともある。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)
 
夫の井上雅二が死去したときでさえ見たことがない、という井上秀の涙。
菅支那がそれを見たのは、公職追放の憂き目にあったときだった。
愛する学園に足を踏みいれられない、というのは、井上秀の最大の「不幸」。
しかし、その時期も、井上秀は学園に深く関わっていたようです。
当時、日本女子大学の正門前に菅支那の自宅があったらしい。
日本最初の女性哲学者となった菅支那の夫は、菅円吉(立教大学名誉教授)。
2017
09.09

「広岡家に残る只一人の桜楓会員」

Category: 広岡浅子
広岡郁子は、井上秀が敬愛する広岡浅子の姪であり、日本女子大学校に入る。
大阪の広岡家に滞在する井上秀に、幼い頃からかわいがられました。

 この驚き何にたとえん朝刊に 師の君の訃知る今朝の悲しみ

『桜楓新報』第145号(昭和38(1963)年9月)に、広岡郁子の追悼文。
こちらは、その冒頭に置かれた、短歌です。
日本女子大学校入学が許されたのも、井上秀への信頼も理由だったとか。

 私の女学校時代、先生は女子大の寮監もかねていらっしゃいました。
 私は闘志を燃やし、勿論伯母からのすすめも御座いましたので
 女子大入学の事を両親に申しました処、反対するかと思いの外、
 父も母も成瀬さんや井上さんが居られる学校ならよかろうと、
 意外に速やかに許されました。
 平素から成瀬先生を尊敬し、又井上先生を深く信頼して居りましたから
 両親は行くなら是非お秀さんの寮にと申しました。
 
広岡郁子も家政科に入学しましたが、井上秀が寮監の曙寮に入ったのは、
加島屋の本家第10代の父、広岡久衛門正秋(創立発起人)や、 
母の夏子(桜楓会補助団員)の意向もあったようです。

 井上先生同様一人っ子の私が闘志を燃やし、
 又東京迄出てしかも女子最高の学府に入学勉強の出来ましたのも
 全く両先生のおかげ
 特に井上先生が其時寮監をしていらした事を忘れてはなりません。
 私は曙寮に入りましてからは凡てを先生に御相談し、
 家の事情をよく御承知ですから何事につけ未知の私にとりましては
 暗夜に灯を点じられた思いで御座いました。
 今一つ先生に対し、最後の思い出となりました事は
 昨年母校評議委員会後桜楓館階下に参り、先生はとても懐かしそうにされ、
 暫く休みましょうと申され、それから色々の昔話に、
 二人共全く今昔の感じに堪えない状態となり、先生は改まって私に、
 「あなたは広岡家に残る只一人の桜楓会員です。
 今後の責任は内外とも実に重大、しっかりやって下さいよ。
 私はこれから家に帰りますから一緒に車で小池さん迄送ってあげます」
 と仰言って駒込の娘の家迄お送り下さいました。
 下車する時あの熱のこもったお手で堅く握手されました。
 思えばそれが個人的に先生と親しくお話を致しました最後です。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

広岡郁子は、卒業後、桜楓会選出の評議員にもなり、長女・次女も入学。
ここに、広岡浅子に薫陶を受けた井上秀の最後の発言として、
「あなたは広岡家に残る只一人の桜楓会員です」とあるのは、重く感じます。
「小池さん」とは、広岡郁子の娘の千鶴子のことでしょう。
小池正直男爵の孫、小池正宣と結婚しました。
千鶴子の舅にあたる小池正彪は、三井銀行に入り、三井本社の常務理事に。
2017
09.08

井上秀と広岡郁子

Category: 広岡浅子
井上秀は、米国留学から戻ると、借家暮らしを始めたとか。
井上秀の娘、菅支那は、次のように回想しています。

 足かけ三年の留学を終えて、母は母校講堂の東側にあって、
 豊明村と呼ばれた一群の寮舎に隣した
 --今の附属中学体育館のあるあたりでもあろうかーー
 老松町の借家で、今までとは全く異なった生活を始めた。
 その隣には広岡郁子姉のお邸があった。
 明治四十四年頃のことである。

故郷の両親に預けていた長女の菅支那も、翌年には引き取られ、
成瀬仁蔵にも対面して、日本女子大学校附属高等女学校に入学しました。
井上秀が住んだ借家は、広岡郁子の邸の隣であった。
広岡郁子は、井上秀が敬愛する広岡浅子の姪であり、日本女子大学校に入る。
大阪の広岡家に滞在する井上秀に、幼い頃からかわいがられました。

 先生を思います時、先ず胸に浮ぶ第一の印象は私の幼なかりし頃、
 一口に申せば小学生時代です。
 先生はお国の丹波から京都府立第一高等女学校へ御入学、
 私のいとこ広岡亀子と同級生、
 其の上同じ寄宿舎生活をせられたので極めて親しい間柄でございました。
 学校がお休みになりますと先生は一度は御帰国になりますが
 又直ぐ広岡の宅に来られ、浅子伯母や亀子さん達と共に
 まるで家の者同様にして楽しく御過しになりました。
 伯母の家は広岡家の新宅として本家に隣接して
 大阪土佐堀一丁目に建てられ勿論裏の方からは同じ家の離れ同様
 毎日行ったり来たりの親しい両家でございました。
 私も其の頃はずい分先生と一緒によく遊び、又よく可愛がって頂いたものです。
 ほんとうに其の頃の事を考えますと、万感交々、
 今あの時代に又ちょっとたち帰ったような気が致します。
 そして伯母や私の両親がよく、
 お秀さんお秀さんと先生をおよびしておりましたあの声も
 何処からか聞えて来るようで御ざいます。
 それから数年後成瀬先生が伯母を訪ねてお越しになりました。
 勿論先生の長い夢であった女子大学創立に関する事でありました。
 成瀬先生は度々御来訪、又長く御泊りにもなって
 大阪の其頃の重要な人々とお話し合になり、
 愈々先生の夢は大阪の地で実現する運びになたのであります。
 しかし熟考の結果日本最高の学府としては
 やはり東京が適当という意見の一致を見、以来成瀬先生も伯母も
 殆ど東京に出て計画の実現に終始し三井家其他の甚大なる御協力もあって
 遂に現在の目白台に我国初の女子大学が創設されたので御座います。
 井上先生はお一人娘さんであるため、
 お家の方から反対も出ましたが押し切って御入学、素志を貫ぬき
 遂に立派な卒業生として成瀬先生の片腕ともなり、
 昭和六年から二十二年までは校長として目醒ましい御活躍、
 又私共の桜楓会大阪支部の最初からの育ての親ともいうべき
 御恩に預かったので御座います。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

広岡郁子にとって、井上秀は、小学生時代の遊び相手であり、
先輩であり、恩師である、忘れがたい人だったよう。
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