「サザエさんをさがして 女子大学」

2017年11月25日「朝日新聞」日曜版、連載「サザエさんをさがして」に、
「女子大学 校数や服装 時と共に変化」が掲載されていました。
ある日、まだ幼いワカメが、女子大に進みたいと言い、
波平は「こどもながら考えがしっかりしている」と感心しますが、
実は、女子大の卒業パーティーの華やかな振袖姿に憧れただけで、
サザエが「どうきはたんじゅんよ」と種明かしをし、ワカメは恥ずかしそうです。
昭和40(1965)年3月26日、「朝日新聞」朝刊に掲載された回でした。

 サザエさんをさがして 女子大学 校数や服装 時と共に変化

 向学心に燃える娘に感心しかけた波平とフネだが、
 ワカメの興味は別のものに向いていたようだ。
 女子大というと、NHK連続テレビ小説「あさが来た」の
 ヒロインのモデル・広岡浅子が創設に尽力した「日本女子大学校」
 (日本女子大学の前身)を思い浮かべる方もおられるのではないか。
 同校は1901年創立の先駆的な女子高等教育機関だが、
 制度上は「女子専門学校」(女専)だった。
 48年、日本女子、津田塾、聖心女子、東京女子、神戸女學院の
 五つの女子大が新制大学として誕生。
 50年までに33校の新制女子大が設立される。
 早稲田大学の湯川次義教授(日本教育史)によると、
 このうち30校の前身が公私立の女専だ。
 学部・学科組織には戦前からの継続性が見られ、
 文学系や家政学系が中心となった。
 湯川教授は、成立期の多くの女子大で
 「新憲法の理念に基づく民主社会を支える女性の育成と、
 女性の特性に即した教育の必要性とが一体的に捉えられ、
 新たな女子大学の理念として位置づけられた」と語る。

容易に認められなかった、「女子大学」は、戦後になって実現しました。
それにしても、日本女子大学の創立者である、成瀬仁蔵の名前ではなくて、
長く無名だった、朝ドラのヒロインの広岡浅子が語られるようになった感慨がある。

 漫画が載った65年には62校を数え、90年代後半には100校目前まで増加。
 特定の職業や資格取得に結びついた学部や学科も増えた。
 共学化や女子短大の4年制化などによる増減を経て、
 近年の校数は70台後半だ。
 湯川教授の調査によると、2014年時点の4年制大学では、
 女子学生全体の約80%が共学大で、
 約14%が女子大で学んでいると推測されるという。

18歳人口が減れば、共学大にとっても女子学生の獲得は生命線につながり、
女子大は必然的に苦境に陥る、という構図は目に見えています。
立教女学院短大や青山女子短大の閉校、という衝撃のニュースも思い出される。

 津田塾大学は今春、伝統ある学術学部(東京都小平市)に加えて、
 女子大で初となる総合政策学部を渋谷区内のキャンパスに開設した。
 萱野稔人学部長は「学生の社会科学系の学問へのニーズが強まり、
 実社会での課題解決力をつける教育も求められている」と新設の理由を語る。
 各界のリーダーとして活躍する卒業生も多い同大学だが、
 近年入学する学生に変化はあるのか。
 大島美穂副学長は「共学校との選択肢の一つとしてではなく、はじめから
 女子大で学びたいと強く意識して入学する学生が増えたと感じる」と話す。

なるほど、「女子大で学びたい」とそもそも希望する学生の入学が増えた。
選択肢ができた反動によって、そういう副作用が出た、とは意外のようで納得。
大学側も、厳しい学生獲得の中、メッセージを送りやすいのかもしれない。

 変化といえば、ワカメが女子大にいきたいと言い出すきっかけとなった、
 卒業パーティーや謝恩会の衣装はどうか。
 掲載作と同時期の写真を見ると、振り袖姿が圧倒的に多い。
 そんな中、1967年3月22日の朝日新聞朝刊で紹介された
 日本女子大学の謝恩会では全員スーツ姿。
 学生の話し合いで、主流だった振り袖を
 4年前からスーツに統一したと記事は伝える。
 増子富美学務部長によると、
 91年の卒業式までこのスタイルが続き、翌年「袴も可」になった。
 現在は、卒業式では袴、謝恩会ではドレスを着る学生が多いそうだ。
 記事は他大学でもスーツが広がっているとするが、現在はあまり見かけない。
 87年3月16日夕刊では、卒業式での袴人気を1面で取り上げている。
 「学校制服の文化史」などの著書がある、
 お茶の水女子大学の難波知子准教授(日本服飾史)は、
 服装が変化した理由は今後の課題としつつ、
 「華やかな振り袖が女子大卒業という門出を祝う謝恩会に
 ふさわしいと考えられたのでは」と語る。
 袴については、小学校の女性教諭が卒業式で着ていてなじみがあったことや、
 漫画やドラマの「はいからさんが通る」の影響があった可能性を指摘。
 レンタル業者の進出が普及を後押しした面も大きいと分析する。
 学内に様々な貸衣装のパンフレットが並ぶ現代、
 ワカメは何に心を躍らせるのだろう。
 (2017年11月25日「朝日新聞」日曜版/「サザエさんをさがして」)

袴姿の卒業生が増えたのは、やはり「はいからさんが通る」の影響でしょう。
私は女子大学を卒業しましたが、数百人のうち数人を除いて袴でした。
今では、複数の袴レンタル業者が学校でブースを作り、見立ててくれます。
謝恩会では圧倒的にドレスや華やかなスーツで、振り袖もいた記憶。
キリスト教系の大学では、卒業式はガウンだから、謝恩会で袴を着る場合も。
近年では、朝ドラの影響もあるのではないかしら、と思います。

参考:https://www.nhk.or.jp/tsubo/program/file268.html

Tag:広岡浅子 

井上秀が英語を学んだ柴田塾

井上秀が京都府立第一高等女学校に入り、英語の授業に難儀して、
寄宿舎を出て学んだという事情は、次のように詳細にも語られています。

 學校内の限定された勉強の方法に從ふてゐたのでは
 これはなかなか追ひつけさうもない、
 一つ思ひ切つてリーダーの一からやり直すのでなくては駄目だと、
 そこまで自分の足りなさが分ると却つて非常な勢ひが出て、
 保証人の今井先生のお父さんの御諒解を得、校外に出て、
 つい一丁程の距離の、
 東三本木といふところの路地にある靜かな家の間借りをし、
 河原町二條にある柴田といふ塾に、學校の放課後毎日通ひまして、
 同志社からそこへ敎へに見える北里先生に就き、
 リーダーの一から勉強いたしました。
 これが私の勉強らしい勉強のはじめ、全くこゝでは一生懸命でございました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

柴田という英語塾は、先生1人に生徒は1人の個人レッスン方式。
同志社から教えにきた「北里」とは、男性か女性かも不明で、わかりません。
井上秀がこの女学校を目指した契機にもなった、「今井先生」。
間借りをしたのは、「東三本木といふところの路地にある靜かな家」でした。
この家は、「賴三樹さんのお家」であったようです。
老婦人と娘さんがお住まいであった、とも書かれています。
老婦人は、「もと宮中へお仕えしていたという」とあり、信用のできるお宅。
そして、親友であったという「土肥田京子」と禅の修業をし、
洋館で広岡家の令嬢を預かった、というのも、「京都市三本木町」とか。
その「土肥田京子」は、京都女子手芸学校の教員となったと考えられますが、
その京都女子手芸学校の理事として、「頼龍三」の名が見えます。
ここにも、詳細はよくわからないのですが、どうやらつながりがありそう。

余談
あまりに無気力で、やるべきこともできていない。
おまけに、こんな状態では見たくないので、「ひよっこ」も見ていない。
ただ、みね子は、お城(マンション)からお姫さま(世津子)を救いだした。
王子さまにあこがれ、救い出される側の、
「かわいそうな女の子」では完璧になくなったのだ、と思う。
このブログは、ためてあった記事もあり、惰性もあり、何とか更新。

Tag:広岡浅子 

土肥田京子

井上秀は、京都府立第一高等女学校を卒業後、明治29(1896)年、
21歳のときには、「三本木町の柳原伯の別邸内の一棟洋館」で、
友人の土肥田京子とともに禅の修業をし、「広岡家の令嬢二人を託されて」いた。
大岡蔦枝はこのように書いていますが、土肥田京子とは誰か。
中等教科書協会『中等教科書協会 明治41(1908)年10月現』に、名前が見える。
京都女子手芸学校で裁縫や家事(?)を教えていたのが、彼女では?
ちなみに、京都女子手芸学校は、現在の京都橘学園の前身です。

 私立京都女子手藝學校
 京都市中立實通西洞院東入
 明治三十五年三月創立
 現在生徒二百三十二名
 名譽校長 大塚 要
 校長兼理事 鳥海弘毅
 主幹兼理事 漢、算、代、造花、修、 中森孟夫
 理事 頼 龍三
 
この教職員の中に、「教授 裁、家」として「土肥田京子」とあります。
この土肥田京子については、また調べてみたいと思っています。
ただ、土肥田京子もまた、井上秀と同様に女子教育の道に進んだようです。

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井上秀の涙

井上秀は、日本女子大学校の第1回生として、母校にその人生を捧げました。
成瀬仁蔵のまさに「長女」として、井上秀は責任感と使命感を全うして、
16年もの長い期間を校長として学園を守り、戦争の時代もその任にあたった。
日本女子大学校校長、附属高等女学校校長、附属豊明小学校校長、
附属豊明幼稚園園長として、卒業生初の責任を担いました。
大学葬は、昭和38(1963)年9月21日、成瀬記念講堂において行われましたが、
そのときに、葬儀委員長・学長として、上代タノは次のように述べています。

 ここに先生のお働きの一々を述べることはできませんが、
 たとえば次の一事だけでも深い感銘として
 われわれの記憶に鮮やかなことであります。
 即ち先生は昭和十六年の日本女子大学創立四十周年を目標として
 女子綜合大学の実現を期し、その第一歩として
 理事故三井高修氏の熱心な協力を得て西生田に十数万坪の土地を求め、
 ここに校舎と寮舎の建設を始められました。
 戦争によて、この計画は中断しましたが、この綜合大学の建設こそは、
 成瀬先生の教育体系の基本をなすものでありました。
 井上先生の西生田開拓は、
 この創立者の悲願を実現しようとする努力のあらわれであります。
 この十六年間にわたる井上先生の校長としてのお働きによって、
 日本女子大学校は一大飛躍をとげ、
 本大学が今日の隆昌をもたらすための基盤をつくりあげられたのであります。

西生田キャンパスを「開拓」したのも、井上秀の功績の1つであり、
それは、成瀬仁蔵が理想として、「女子綜合大学」の建設を意味していました。
現在の日本女子大学の礎を築いたのは、井上秀だった。

 不幸戦後追放にあわれ、数年間公職を離れられましたが、
 先生はそれを得難い修養の機会として理想と読書とに活用し
 建学精神をいよいよ深く探求してその真意を体現されました。

学園とともに生きた井上秀にとって、戦後の公職追放はつらい時期でした。
娘の菅支那も、その時期を振り返っています。

 長い母の一生の間には、いろいろの事があったが、
 わけても大学本科の方針変更問題で学内に大動揺が起こり、
 私も心配の余り、目白の家で一夜をまんじりともせず、
 母と泣き明かしたことがあった。
 戦後は公職追放で、三年間、校門もくぐれなかった。
 そのため、何かと母校に重要相談があると、当時、
 母校正門前にあった私の家に泊った。
 母校の大切な会議も、そこが会場にされることもあった。
 そして、無意識裡に足が校門に向かうと、ふと、
 「ああ! こんなところに行っていた」
 と自分をたしなめるようにいうのを聞いて、
 母が無性に気の毒になり、思わず眼に涙したこともある。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)
 
夫の井上雅二が死去したときでさえ見たことがない、という井上秀の涙。
菅支那がそれを見たのは、公職追放の憂き目にあったときだった。
愛する学園に足を踏みいれられない、というのは、井上秀の最大の「不幸」。
しかし、その時期も、井上秀は学園に深く関わっていたようです。
当時、日本女子大学の正門前に菅支那の自宅があったらしい。
日本最初の女性哲学者となった菅支那の夫は、菅円吉(立教大学名誉教授)。

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「広岡家に残る只一人の桜楓会員」

広岡郁子は、井上秀が敬愛する広岡浅子の姪であり、日本女子大学校に入る。
大阪の広岡家に滞在する井上秀に、幼い頃からかわいがられました。

 この驚き何にたとえん朝刊に 師の君の訃知る今朝の悲しみ

『桜楓新報』第145号(昭和38(1963)年9月)に、広岡郁子の追悼文。
こちらは、その冒頭に置かれた、短歌です。
日本女子大学校入学が許されたのも、井上秀への信頼も理由だったとか。

 私の女学校時代、先生は女子大の寮監もかねていらっしゃいました。
 私は闘志を燃やし、勿論伯母からのすすめも御座いましたので
 女子大入学の事を両親に申しました処、反対するかと思いの外、
 父も母も成瀬さんや井上さんが居られる学校ならよかろうと、
 意外に速やかに許されました。
 平素から成瀬先生を尊敬し、又井上先生を深く信頼して居りましたから
 両親は行くなら是非お秀さんの寮にと申しました。
 
広岡郁子も家政科に入学しましたが、井上秀が寮監の曙寮に入ったのは、
加島屋の本家第10代の父、広岡久衛門正秋(創立発起人)や、 
母の夏子(桜楓会補助団員)の意向もあったようです。

 井上先生同様一人っ子の私が闘志を燃やし、
 又東京迄出てしかも女子最高の学府に入学勉強の出来ましたのも
 全く両先生のおかげ
 特に井上先生が其時寮監をしていらした事を忘れてはなりません。
 私は曙寮に入りましてからは凡てを先生に御相談し、
 家の事情をよく御承知ですから何事につけ未知の私にとりましては
 暗夜に灯を点じられた思いで御座いました。
 今一つ先生に対し、最後の思い出となりました事は
 昨年母校評議委員会後桜楓館階下に参り、先生はとても懐かしそうにされ、
 暫く休みましょうと申され、それから色々の昔話に、
 二人共全く今昔の感じに堪えない状態となり、先生は改まって私に、
 「あなたは広岡家に残る只一人の桜楓会員です。
 今後の責任は内外とも実に重大、しっかりやって下さいよ。
 私はこれから家に帰りますから一緒に車で小池さん迄送ってあげます」
 と仰言って駒込の娘の家迄お送り下さいました。
 下車する時あの熱のこもったお手で堅く握手されました。
 思えばそれが個人的に先生と親しくお話を致しました最後です。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

広岡郁子は、卒業後、桜楓会選出の評議員にもなり、長女・次女も入学。
ここに、広岡浅子に薫陶を受けた井上秀の最後の発言として、
「あなたは広岡家に残る只一人の桜楓会員です」とあるのは、重く感じます。
「小池さん」とは、広岡郁子の娘の千鶴子のことでしょう。
小池正直男爵の孫、小池正宣と結婚しました。
千鶴子の舅にあたる小池正彪は、三井銀行に入り、三井本社の常務理事に。

Tag:広岡浅子 

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