2016
10.18

双葉幼稚園(帯広)

Category: 広瀬恒子
広瀬恒子を通して、幼児教育の歴史にも関心をもちました。

 帯広・旧双葉幼稚園舎 閉園後初の一般公開 
 17日から貴重な所蔵品展示

 1922年(大正11年)に完成し、2013年に閉園した
 旧双葉幼稚園の園舎(帯広市東4南10)が、17~22日に一般公開される。
 閉園後初の公開で、有志や元教員による
 「双葉幼稚園保存期成会」(川村善規会長)が
 「市民に貴重さを知ってもらい、保存や活用の機運を高めたい」と計画した。
 1927年(昭和2年)に米国から贈られた人形などの貴重な所蔵品も展示する。
 同園は11年(明治44年)、市内初の幼稚園として開設。
 その後建設された園舎は木造平屋建てで、赤いドーム屋根が特徴だ。
 帯広出身の芥川賞作家・池澤夏樹さんらが通い、
 1世紀近く度重なる地震や風雪に耐えてきた。
 国の登録有形文化財に指定されている。
 閉園後、園舎は保存され、
 別の幼稚園の仮園舎や結婚式の会場として使用されたことはあるが、
 内部の公開はしていない。
 保存会は所蔵品の調査などを進めており、併せて公開することにした。
 公開期間中は屋根の天井裏部分が見学できる(時間限定)ほか、
 米国から贈られた着替えや「パスポート」の付いた人形、
 長年使われた教育玩具やオルガンなどを展示する。
 期成会の川村会長(65)は「建物だけでなく、価値のある所蔵品が数多くある。
 資料が多すぎて、なかなか整理が追い付かない」と話す。
 閉園まで園長を務めた臼田時子さんは今年4月、96歳で亡くなった。
 川村会長によると、
 生前は子どもたちにも使える施設として活用されることを望んでいたという。
 園舎を所有する日本聖公会北海道教区(札幌)は、
 今後について「有効に活用できる方法を検討中」としている。
 (2016年9月16日「北海道新聞」電子版)

この帯広の双葉幼稚園も、キリスト教系の幼稚園だったのか。
……と思ったら、閉園が決まったときの記事にもう少し詳しく書かれています。

 国の登録有形文化財 市内最古の双葉幼稚園閉園へ

 帯広市内で最初の幼稚園、私立双葉幼稚園(東4南10、臼田時子園長)が、
 今年度末で閉園することが18日までに分かった。
 市内で初めて国の登録有形文化財に指定されたドーム屋根の園舎は、
 所有者の日本聖公会北海道教区と同園関係者が協議して活用を模索する。
 閉園は2月開催予定の道私立学校審議会で正式決定する。
 同園は1911(明治44)年、帯広聖公会2代目牧師の大井浅吉氏が
 幼児教育を重視し、東1南9の教会別館に創設した。
 22(大正11)年に現在地に移転。
 これまでに本名武元総務庁長官、吉村博元帯広市長ら
 十勝の著名人を含む約4900人の卒園生を送り出した。
 近年は在園児が10人を下回り、臼田園長の後継者がいなかったことから、
 今年度での閉園を決めた。
 保護者への説明は終え、在園児5人の来年度以降の行き先も確保した。
 2010年に登録有形文化財になった園舎は23(大正12)年に完成。
 大井氏の妻の実妹で2代目園長の臼田梅さんが
 アメリカの建築物を参考に設計した。
 木造平屋311平方メートル。
 一辺が16メートルの正方形平面でドーム型の屋根の下に
 八角形の遊戯室を配し、四隅を教室として活用している。
 登録有形文化財に指定された部分は、日本聖公会道教区の所有。
 同教区帯広聖公会の牧師で帯広聖公会幼稚園の下澤昌園長は
 「歴史的な経緯を踏まえ、
 多くの市民が納得できるよう帯広の子供たちのために活用を模索したい」、
 大井氏の孫で臼田園長のめい河野マリ子さん(65)=東京在住=は
 「帯広のまちの方に役立つよう引き継がれていくことを希望したい」と話す。
 親子3代で通った上徳整形外科医院の上徳善也院長(66)は
 「帯広の昔の風景をとどめる建物は、何とか残していただきたい」と話している。
 (2013年1月18日「十勝毎日新聞」電子版)

帯広市内でもっとも早くに創立した双葉幼稚園は、明治44(1911)年、
帯広聖公会2代目牧師の大井浅吉氏によって、設立。
レトロな園舎は、大井浅吉氏の妻の実妹、2代目園長の臼田梅による設計。
臼田梅は、仙台の青葉女学院保母養成課に学んだとか。

余談
1849年10月18日(嘉永2年9月3日)、広岡浅子が誕生しました。
「べっぴんさん」では、姉がゆり、ヒロインがすみれ、すみれの娘がさくら。
「逃げるは恥だが役に立つ」のヒロイン・みくりの母が桜、伯母が百合ちゃん。
2016
09.21

『東京の女子教育』

Category: 広瀬恒子
東京都編『東京の女子教育』(東京都、1961年)巻末に、
「東京の女子教育施設創業年表」があり、地方の女学校も併記され、
短命で終わった、私塾のような女学校も含め、一覧に見ることができます。

 明治3(1870)年
  東京…A六番女学校(築地)
  (フェリス女学校(横浜))
 明治4(1871)年…津田梅子・山川捨松ら女子留学生渡米
  東京…芳英女塾(斎藤女学校・神田)
  (アメリカ婦人教授所(横浜))
 明治5(1872)年…学制頒布
  水交女塾(芝)/上田女学校(築地)/東京女学校(竹橋)
  開拓使女学校(芝)
  (女紅場(京都))
 明治6(1873)年…キリスト教解禁
  B六番女学校(築地)
 明治7(1874)年
  女子小学校(麻布)
 明治8(1875)年
  喜田英和女学校(駿河台)/女紅学舎(下谷)/跡見学校(神田)
  三浦女学校(麹町)/女子師範学校(神田)
  (照暗女学校(大阪)/神戸英和女学校(神戸)/サンズ女塾(横浜)
  石川県第一女子師範学校(金沢))
 明治9(1876)年
  河村女校(芝)/中尾女学校(麹町)/共義女学校(芝)
  桜井女学校(麹町)/原女学校(銀座)/新栄女学校(B六番の改称)
  (同志社女学校(京都)/石川県第二女子師範学校(富山))
 明治10(1877)年
  村上女学校(四谷)/恒徳女学校(芝)/加藤女学校(小石川)
  立教女学校(湯島)/海岸女学校(女子小学校の改称)
  (石川県第三女子師範学校(福井)/女子模範黌(静岡)
  梅香崎女学校(長崎))
 明治11(1878)年
  (梅花女学校(大阪)/千葉、山梨、弘前、松江、鳥取、高知、
  徳島、鹿児島にそれぞれ女子師範学校)
 明治12(1879)年…学制を廃止、教育令を制定
  女子師範予備学校(神田)/同人社学校(麹町)/成徳女学校(下谷)
  (永生女学校(大阪)/活水女学校(長崎)/光塩学校(下関)
  栃木県第一女子中学校(栃木)
  岐阜県師範学校付付属女子師範および普通学校(岐阜))
 明治13(1880)年
  (ブリテン女学校(横浜)/順正女学校(岡山県高梁)
  増谷女塾(兵庫県御影)/秋田女子師範学校)
 明治14(1881)年
  和洋裁縫伝習所(本郷)/桃夭女塾(麹町)
  (山梨県女学校)
 明治15(1882)年
  東京女子師範学校付属高等女学校
  遺愛女学校(函館)/群馬県女学校
 明治16(1883)年
  (鹿児島、山口両県に女学校創設)
 明治17(1884)年
  東洋英和女学校(麻布)
  (ウイルミナ女学校(大阪))
 明治18(1885)年…森有礼が初代文部大臣に就任、『女学雑誌』創刊
  頌栄女学校(芝)/明治女学校(麹町)/華族女学校(四谷)
  (大阪女学校/福岡英和学校/北陸女学校(金沢)/弘前女学校)
 明治19(1886)年…帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令
  共立女子職業学校(神田)/吉益亮子英学教授所(京橋)
  (宮城女学校(仙台)/山陽英和女学校(岡山)/清心女学校(岡山)
  広島女学院/東雲女学校(松山))
 明治20(1887)年
  仏語女学校(麹町)/東京女子専門学校(小石川)/翠松学舎(神田)
  女範学校(麹町)/普連土女学校(麻布)/成立学舎女子部(駿河台)
  女子経世学校(日本橋)/香蘭女学校(麻布)/東京裁縫女学院(湯島)
  婦人洋服裁縫女学校(京橋)/婦人洋服裁縫女学校(芝)
  (北星女学校(札幌)/三重女学校/大阪一致女学校/静岡英和女学校
  熊本(大江)女学校/新潟英和女学校/鳥取女学校))
 明治21(1888)年
  東京裁縫館(麻布)/東京女学館(麹町)
  女子文芸学舎(麹町)/東京英和女学校(青山)
  (前橋英和女学校/宇津宮女学校/高田女学校/高知英和女学校
  清流女学校(名古屋)/相愛女学校(大阪))
 明治22(1889)年…森有礼大臣刺殺、大日本帝国憲法発布
  椿女学校(小石川)/東京女子手芸学校(芝)/女子独立学校(角筈)
  女子仏英学校(神田)/東京府立女学校(京橋)
  (山梨英和女学校(甲府)/金城女学校(名古屋)) 

本書では、明治3(1870)年から12(1879)年までを「萌芽期」、
明治13(1880)年から17(1884)年を「萎縮期」、以後を「開花期」とします。
地方の女学校では、石川県の動向が気になります。
明治8(1875)年、全国の中でもっとも早く女性教員の養成に乗り出しました。
しかし、実際には、それほど多くの女性教員は輩出されなかったとか。
2016
09.20

「女性にも罪あり」

Category: 広瀬恒子
相馬黒光『黙移』(日本図書センター、1997年)には、このようにもあります。
崇拝の対象となっていた巌本善治についても、冷静に見つめます。

 そういう魅力のある先生に対し、
 魅力の乏しい古い世界から出て来ている教え子達は、
 ただもう一途に憧憬を寄せ、求めていた完全なものをここに得たかの如くに、
 安心しきって、校内の空気に身も心も委ねてしまったようなところがあります。
 そして遂に中心人物の失脚となりました。
 こういう複雑な事態の前では、男性が女性を過ったのか、
 個性が男性を過ったのか、事実はどう現れたにせよ、
 その真相は、にわかに断じ難いものがあります。
 極端に女性に興味のあった人物、
 いや女性に興味を持ち過ぎたというような世評に対しては、
 私は肯かねばなりません。
 そしてよい意味にも悪い意味にも、
 それは違うということは誰一人も言われないのではないかと思います。
 むしろ女性に興味があったればこそ、
 あの時代に女性を教育することが出来た、同時にあの魅力があったればこそ、
 女性を帰依させることが出来たと、言ってよいと思います。
 
相馬黒光の冷静なまなざしは、明治女学校の衰退の原因を、
巌本善治という、カリスマ性のある男1人のせいであるとは断じません。
あれほど多くの人の「崇拝の的となるということは、
そういう淋しさと危険のつきまとうものであることを察しないではいられ」ない。

 ただそういう時に立っても、ほんとうに神への道にある人ならば、
 自分もその歩みを侵されず、また他をも侵すことなく、
 ますます魂の深さを加えられたでありましょうが、悲しいかなそこにあったのは、
 優れてはいても、やはり現世の才でありました。
 しかし女性に、もし厳しい反省の心がありましたら、
 あやまちは一旦のあやまちで終ったでしょうに、
 その時代の女性には、まだそれだけの理智が働かず、
 信は破れてもそこに坐ってひとり忍ぶような思いや、
 何か自分一人が選まれたもののように感じる不知不識のうぬぼれや、
 弱さから起るさまざまな迷信から、
 いよいよ事情を複雑にして行ったものと思われます。
 してみれば罪のなかばは女性も負わねばならぬものであり、
 明治女学校の崩壊は半分は女性の手が手伝ったといわれても
 返す言葉はなかろうと思います。
 ましてそれが家庭からようやく解放されて、
 まだ確かな歩みの出来ないその時代の女性、
 即ち過渡期の犠牲者と見る時、
 明治女学校の崩壊は女性文化の発達の途上に、
 一つの悲しい墓碑をとどめたものとも言われましょうか。
 (相馬黒光『黙移』日本図書センター、1997年)

ここでも、相馬黒光が榊なつ子=坂木夏子を意識していたかどうか。
しかし、榊なつ子=坂木夏子も「過渡期の犠牲者」と言えるかもしれない。
野上弥生子の小説を読んでいても、明治女学校の雰囲気は独特。
ミッションによらない点だけでなく、ほかの女学校と同じようには語れない。
「明治女学校の崩壊は半分は女性の手が手伝った」
卒業生の厳しい言葉ではあるでしょうが、高度な女子教育を受けながらも、
なお「確かな歩みの出来ない」、「過渡期」の女たちの「悲しい墓碑」は、
明治女学校の衰退を思うとき、なるほどと考えさせられます。

余談
昭和23(1948)年9月20日、『美しい暮しの手帖』が創刊されました。
「とと姉ちゃん」、今週は「常子、大きな家を建てる」。
これまでの取材を生かして台所を作ったりするのかしら、と思ったら、
もう大きな家は建っていて、妹家族と暮らしていた。
綾さん、ようやく「あなたの暮し」出版の社員になっていてよかった。
BSプレミアム「ママゴト」、胸が痛い。
「Mother」「マルモ」「はじめまして、愛しています」もそうでしたが、
血のつながらない疑似親子的な関係のドラマに弱い……。
2016
09.19

『女学雑誌』における広瀬恒子らの卒業

Category: 広瀬恒子
さて、『女学雑誌』第323号(明治25(1892)年7月23日、女学雑誌社)に、
広瀬恒子や榊なつ子、竹内梅子の明治女学校卒業の記事が載っています。

 ○明治女學校第五回卒業式
 
 は去る十九日午後七時半より同校々堂に於て執行せらる、
 巌本氏の歓迎の辭あり、普通科卒業生原みね子、師範科卒業生吉岡とし子
 高等科卒業生廣瀬つね子三氏の文章朗讀あり、
 其他唱歌、風琴、琴等ありて、後卒業證書の授與式ありたり。
 教頭巖本氏の勧告、生徒惣代松井まん子の祝詞、
 卒業生惣代榊なつ子の答詞、何れも人をして感ぜしめたり、
 松井、佐藤、村瀬、山口、藤嶋、五女史の武道演習は、
 日頃熟錬の功あらはれて、柔術、薙刀共に頗る見事なりき
 満塲靜然たる中、たゞ掛聲と投げらるゝ音とを聞くは柔術の時なり、
 衆人粛々たる中、一進一退、戞々相打ち、變化多端なるは薙刀術の時なり、
 此一時崇高の氣をして堂に満たしめたる、是れ武の徳にあらずや、
 餘與の薩摩琵琶は愉快の中に正行の昔を忍ばしめぬ、
 當夜は來賓甚だ多く、外に立ちて眺めし人も亦多かりし、
 卒業生姓名は左の如し、
   高等科
 (一)廣瀬恒子  (二)竹内梅子  (三)榊 夏子
   普通科
 (十九)久保とみ子  (二十)宮島夏子  (二十一)下瀬やす子
 (二十二)佐藤すけ子 (二十三)村瀬つる子 (二十四)中村ひさ子
 (二十五)日高みつ子 (二十六)穴山まつ子 (二十七)四條かね子
 (二十八)佐伯佐依子 (二十九)矢野友代子 (三十)平井三千代子
 (三十一)兒玉むら子 (三十二)川島光子 (三十三)松澤はる子
 (三十四)勝村あさ子 (三十五)畠中良子 (三十六)小池とめ子
 (三十七)森とし子 (三十八)伏見きみ子 (三十九)藤戸くす子
 (四十)武藤まる子 (四十一)松井節彌子 (四十二)平野てふ子
 (四十三)原みね子 (四十四)吉田さと子 (四十五)赤井生子
   師範科  師範科三年修業生
 (一)吉岡とし子 (二)増田たき子 (三)土屋ため子
 (一)宮嶋なつ子 (二)日高みつ子 (三)川村みつ子
   撰課
 (十)教育、社會、經濟、和、漢、數、家政、習字、裁縫、 白洲八重子
 (十一)普通課撰科 英學、地文、歴史、圖畫、唱歌、裁縫、女禮、 蔵田信子
 (十二)教育、修身、社會、和、漢、唱歌、 島了子
   武道科
 (中段甲)松井まん子 (同)佐藤すけ子 (中段乙)村瀬つる子
 (同)竹内うめ子 (初段甲)宮嶋なつ子 (同)廣瀬つね子
 (初段甲)榊なつ子 (初段乙)鈴木げん子 (同)山口よし子
 (同)藤嶋ゆき子 (同)中山みつ子
   琴
 裏組正許 日高みつ子 穴山まつ子 山口よし子 染谷いね子
   速記
 (十)松岡もと子 (十一)中山みつ子 (十二)櫻井しげ子
 (十三)紀内すへ子 (十四)菅沼はな子 (十五)藤戸くす子
 (十六)高橋いと子
 (『女学雑誌』第323号(明治25(1892)年7月23日、女学雑誌社)

これを見ると、同志社女学校出身の広瀬恒子、竹内梅子、榊なつ子は、
高等科の最初の卒業生であるだけでなく、武道科も卒業しています。
おそらくは、星野天知に薙刀を指導されるなどしていたはず。
卒業式では、星野夫人となる松井まん子、島崎藤村の恋した佐藤輔子らが、
「武道演習」を披露して、会場から賞賛されたよう。
広瀬恒子は「文章朗讀」をし、松井まん子は「生徒惣代」として祝辞を述べ、
それに対し、榊なつ子が答辞を述べた、とのこと。
松岡(羽仁)もと子が速記科を卒業し、この年に高等科に編集しました。

ちなみに、誌面には、フェリス女学校の卒業生の名前も掲載され、
高等科の卒業生として、松田みち子(道子)が見えます。
津田梅子が尽力して設けられた、あの日本婦人米国奨学金を受け、
翌年からブリンマー大学に留学した、松田みち子(道子)です。
同志社女学校からフェリス女学校に進み、後に同志社女子専門学校長となる。
また、華族女学校の卒業式には、昭憲皇太后が臨席し、
「金剛石も磨かずば……」の唱歌がよまれたことも、記されており、
この明治25(1892)年もまた女子教育史の分岐点だったかもしれません。
金森通倫を校長とする、帝国女学校設立の記事もありました。
さらには、「原六郎氏夫人は過日米国より、帰朝せらる」とあることから、
原富子は、ブリンマー大学留学中の妹・土倉政子と会ったのでは、と思います。
2016
09.18

『安曇野』における榊なつ子の影

Category: 広瀬恒子
新宿・中村屋の創立者である、相馬愛蔵・黒光夫妻、木下尚江、
萩原守衛らを描く、臼井吉見『安曇野 第一部』(ちくま文庫、1987年)には、
明治女学校の様子、巌本善治なども描かれています。
その中に、榊なつ子を示唆する人物も登場しているのです。

 巌本校長の身辺については、いろんなうわさがささやかれていた。
 それをいう者が、とうてい信じられないという表情でつたえるのだった。
 ことごとくが、女関係だった。
 明治女学校を出てから、アメリカへ遊学し、
 帰国して母校の教壇に立っていた、
 鋭い頭脳と機敏な行動力のもちぬしがいた。
 すらりとした長身で、黄八丈のきものが似合った。
 職員室の火鉢で股あぶりをしながら、
 青柳先生の英語なんか英語なものですか、
 あれは秋田語ですよと気焔をあげるようなひとだった。
 彼女の友人で、同じく資産家に生れた女教師がいた。
 このふたりは、いずれも巌本校長をめぐるうわさの人物だった。
 まわりから、そんな目で見られるのに、当人同士は、
 たがいに相手の秘密を知らなかった。
 つれだって、くぬぎ林の中を散歩して話しているうち、それに気づいて、
 はげしい口論になり、しまいには抱き合ったまま、声をあげて泣いた。
 ひとりが泣きやむと、別のひとりが泣き出し、それをくりかえした。
 そんな見てきたような話もまことしやかに守衛の耳にとどいた。
 恵まれた才色を、しとやかな人柄でくるんだかのような
 若松賤子に死なれてからの巌本善治は
 まるで別の人間に化したと思われている。
 生きている別の若松賤子を求めての必死のさまよいと評するむきもある。
 いずれにしても、若松賤子を失った空虚の大きさ、
 深さを思わせずにはおかないものがあった。
 賤子の残した三人の遺児は、彼女の妹に世話させて、
 学校構内のほかに一戸を構えさせていた。
 この義妹も妻に準ずる存在と見られている。
 (臼井吉見『安曇野 第一部』ちくま文庫、1987年)

巌本善治が女性関係の醜聞によって、その求心力を失っていったことも、
明治女学校の衰退、閉校の1つの要因でした。
ここに見える、アメリカ留学帰りで、母校の教師となった卒業生とは、
ほかならぬ、榊なつ子=坂木夏子にちがいありません。
青柳有美の英語の発音をけなしているのは、親しさゆえの物言いでしょう。
では、「同じく資産家に生れた女教師」とは、誰を指しているのか。
(ここで、「鋭い頭脳と機敏な行動力のもちぬし」が資産家であるともわかる。)
萩原守衛が明治女学校に身を寄せたのは、明治32(1899)年のことでした。
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