2017
04.18

山内ヨネのこと

Category: 萩谷清江
大阪ではじめて開業した女医は、萩谷清江。
一方、会津若松における最初の開業女医といえば、山内ヨネ。
この山内ヨネは、あの野口英世の初恋の女性だとか。

 【山内 ヨネ】  告白断った初恋の女性

 山内ヨネは会津(若松)で開業した最初の女医といわれている人だが、
 野口清作(後の英世)の初恋の女性として知られている。
 ヨネは医師であった山内立真の1人娘として、明治15年、若松に生まれた。
 立真は日本医学界の泰斗・佐藤尚中の門人で、ヨネが7歳の時に亡くなった。
 母の千代はヨネを医師にして山内家を再興させたいと願っていた。
 母は、若松に設立されたばかりの私立女学校にヨネを通わせていた。
 ヨネは、医師になることは自分の天命であると考え、
 その目標に向かって勉学していた。

山内ヨネも、萩谷清江も、医師の娘で、同様に恵まれた生い立ちではあり、
医家を継がねばならない、という使命感を負っていたにちがいない。
一般公開はされていませんが、山内ヨネの生家が残っています。
山内ヨネが通っていた私立女学校とは、海老名リンの会津女学校でしょう。

 漢文、外国語の手紙届く

 そんなある時、ヨネの家に差出人の名前がない1通の手紙が投げ込まれた。
 ヨネは心当たりがないので、母とも相談して女学校の先生に届け出た。
 その後も、難しい漢文の手紙のほかに外国語で書いた手紙も届いた。
 ヨネは英語を習っていた日本キリスト教団の藤生金六牧師に
 手紙を見てもらったところ、藤生牧師は一目見ただけで
 「これは実にうまくよく書いてあるが、
 今この若松市内の青年でこのような文を書くことができるのは、
 会陽医院の野口君しかいないだろう」と、清作を呼んで問い詰めると
 「この手紙を書いたのは私に間違いございません」と素直に白状したので、
 清作に注意をして手紙を返したということである。
 清作の淡い恋に終止符が打たれた。

山内ヨネに漢文の、そして、外国語の恋文を送ったのが、野口淸作(後の英世)。
ここに名前の出てきた藤生金六牧師は、横浜のブラウン塾の出身で、
明治27(1894)年に会津若松に赴任、後の若松栄町教会を開設。
英語塾を開き、そこに野口英世が通っており、藤生金六牧師から受洗しました。

 医師になるため若松で勉学に勤いそしんでいたヨネは、
 従兄弟の菊地良馨の斡旋で上京、順天堂医院の看護婦となったが、
 医師を目指し済生学舎に入学した。
 同じころ、上京していた清作はそこでヨネと出会い、再び恋の炎に火が付いた。
 ヨネは当初清作を避けていたが、同郷の好よしみで時々話すこともあり、
 そのうちにヨネは清作から難解な医学書について教えてもらうこともあった。
 ヨネの動向を知りたいと考え、清作は良馨と親しくなり、様子を度々聞いていた。
 清作は英世とも改名、検疫医官補となった姿をヨネに見せたいと考え、
 中国へ赴任することになった時、ヨネの下宿に制服を着て訪ね、
 胸の内を告白するが、見事に振られてしまうことになる。

済世学舎に入って女医になった山内ヨネは、萩谷清江の後輩になります。
山内ヨネは明治34(1901)年に前期試験、明治38(1905)年には後期試験に合格。
(医師登録は、萩谷清江の妹である藤村(萩谷)玉江の翌年でした。)

 若松で開業、最初の女医

 ヨネは、英世が思いを寄せることとは無関係に、
 自らの目的である医師試験に全力を集中した。
 医師の資格を取ったヨネは、意気揚々と若松に帰り、
 旧宅に「三省堂」の看板を掲げ、待望の医院を開業した。
 当時、若松で開業していた女医はヨネが最初の人ともいわれており、
 女性が人力車を走らせて往診する姿は、市民の間ではたちまち評判となった。
 ヨネは母の勧めにより福良村(現郡山市湖南町)出身で、
 11歳年上の医師森川俊雄の後妻となり鎮雄、歌子、大助、隆吉の四児を産む。
 ニューヨークの英世のもとに、良馨からヨネが結婚したことが知らされた。
 驚いた英世であったが、
 「ヨネの夫を見返すだけの人間になってみせる」と良馨に返事を書いたという。
 大正四年、英世は15年ぶりに帰国することになり、夫に先立たれ、
 再び聴診器をとっていたヨネ宅を訪ね、自らの講演会に出席を願った。
 ヨネは請われる通り講演会に行き、
 閉会後に行われた記念写真の撮影に加わった。
 その後、英世の宿泊場所であった東山温泉の新瀧にヨネが訪問、その時、
 英世はヨネの子どもの留学の心配をしたと伝えられている。
 ヨネは英世の厚意をあっさりと断った。
 それからの2人は生涯2度と会うこともなかった。
 英世はニューヨークを訪ねる会津の人たちに会うと、
 ヨネの近況を聞いていたという。
 ヨネは医院を1人で切り盛りして、昭和20年、64歳で亡くなった。
 (福島民友アーカイヴ)

野口英世にとって、山内ヨネは忘れられない人でした。
でも、山内ヨネは、野口英世の初恋の女性としてでなくても、
会津若松で最初に開業した女医として、記憶されるべき立派な女性でもある。


余談
「ひよっこ」、いよいよ実現が決まった、奥茨城村の聖火リレー。
いいなと思ったのは、大好きな村を出ていかなければならない三男に対して、
長男ゆえに出ていけない、村に縛られて生きる青年団のお兄さんたち。
それが嫌かどうかはともかく、そういう境遇の人もいることが示されてよかった。
みね子たち3人が上京する理由が、それぞれちがうのもいいなと思う。
2017
01.25

萩谷清江、関連年譜

Category: 萩谷清江
さて、萩谷清江に関連する事柄を年譜に(簡単に)まとめてみました。
萩谷清江をめぐる、ファミリーヒストリーです。

 弘化4(1847)年 1月1日、父萩谷義則、生まれる。
 明治2(1869)年 12月、義則、大学東校に入学して医学を学ぶ。
 明治3(1870)年 2月24日、理平治、岡山の庄屋に生まれる。
 明治5(1872)年 2月、義則、軍医試補として東京鎮台十三番大隊に配属。
 明治8(1875)年 4月8日、清江、大阪北区桜之宮に生まれる。
 明治11(1878)年 義則、大阪鎮台病院兼兵隊附 軍医補。医事会同社社員。
 明治13(1880)年 9月7日 義則、大阪鎮台病院課勤務。
 明治14(1881)年 11月14日、義則、熊本鎮台歩兵第14聯第3大隊の副医官。
 明治15(1882)年 6月13日、義則、依願免官。
 明治16(1883)年 義則、大阪谷町にて開業。
 明治17(1884)年 6月29日、玉江、生まれる。
 明治21(1888)年 清江、13歳のころに腸チフスにかかる。
 明治26(1893)年 清江、上京して済生学舎に入る。「淑徳会」会員。
 明治28(1895)年 清江、医師開業試験前期試験に合格。
 明治29(1896)年 清江、病気のため帰郷、大阪慈恵病院医学校で学ぶ?
 明治30(1897)年 3月、清江、医師開業試験合格。緒方病院研修。6月、開業。
 明治31(1898)年 8月、清江、医師登録。
 明治35(1902)年 8月10日、義則、死去。理平治、医師登録。
             11月6日、(徳山)寿子、生まれる。
 明治36(1903)年 7月27日、徳山璉(たまき)、生まれる。
 明治37(1904)年 11月、玉江、医師登録。
 明治42(1909)年、玉江、この時点で藤村姓。
 明治44(1911)年 清江、『関西杏林名家集』に女医として紹介される。 
 大正2(1913)年 (栗本)静子、生まれる。
 大正6(1917)年 萩谷朴先生、生まれる。
 大正10(1921)年 玉江の夫か、藤原元張、国立大学以外で初の博士号取得。
 大正14(1925)年 12月、寿子、徳山陽を出産。
 昭和3(1928)年 3月、すでに3人の子持ちの徳山璉、東京音楽学校を卒業。
 昭和12(1937)年 4月、萩谷朴先生、東京帝国大学文学部国文学科入学。
 昭和15(1940)年 3月、萩谷朴先生、東京帝国大学文学部国文学科卒業。
 昭和16(1941)年 10月15日、萩谷朴先生、結婚の翌々日、大阪で入営。
 昭和17(1942)年 1月28日 徳山璉(たまき)、死去。
 昭和18(1943)年 3月13日、萩谷朴先生、清江に見送られて出征。
 昭和21(1946)年 6月23日、萩谷朴先生、帰還。7月26日、理平治、死去。
 昭和24(1949)年 清江、死去。
 昭和25(1950)年 静子、夫・栗山義重がシベリアから戻り、長男を出産。
 平成4(1992)年 5月18日、徳山(萩谷)寿子、死去。
 平成21(2009)年 1月24日、萩谷朴先生、死去。

細かい部分については、この略年譜には反映されていませんので、
当カテゴリーの記事を御覧いただければ、と思います。

余談
「わからんものよ、女の一生なんて……」。
ヨーソローのママ、戦争で亡くした息子がいて、
あの店が居場所のない若者たちの拠り所になっているのか。
「東京タラレバ娘」、衝撃の展開が!
「これでも一生懸命生きてきたつもりだったの!」……倫子(´;ω;`)
2017
01.18

徳山(萩谷)寿子、烏を弟がつかまえる

Category: 萩谷清江
徳山璉(たまき)が逃がしてしまった小鳥、慌てふためく彼を、
寿子は「餘計なことをするからだ」と叱り、防空演習の近所の人は笑います。

 それから、屋根の上に金網の入口を開けてのせて置いた。
 中にまつかな柿と水と餌を澤山入れて待つた。
 然しどう虫の居どころがわるいか、てんで烏はよりつきもしない。
 隣の異人屋敷の數千坪の庭の木の止つてゐると、知らせてくれる者がある。
 私は早速柄を三つばかりと、昆蟲とりの網を持つて、
 裏口から叱られたら、それまでと斷りなしに入つた。
 なる程地上から五米ぐらゐの枝にとまつて、のびのびとうれしさうにしてゐる。
 私がその下までゆくと、例の頸をかしげて私を見る。
 私も「からす」とよんでみる。
 さかんに頸をまげて、私を見て、嘴で枝をつゝいてうれしさうにする。
 これが烏の自然な姿かも知れないと思ふと、
 私はもうつかまへるのを止めてかへらうかと思つた。
 結局そこでいろいろの方法をやつてみたが、
 黑は又遠くの方へとんで行つて見えなくなつた。
 私はたうとう日が暮れるまで烏にかゝたが駄目だった。
 私はも早くたくたに疲れてゐた。
 
これがいつのことかはわかりませんが、隣の「異人屋敷」に外国人が?

 ところが、その夜は防空演習のお蔭で、
 どこの家も電氣を消さなければならなかつた。
 それを利用して、私の家だけは、
 警戒管制の時に電氣を明るくつけて、二階の窓を開けて置いた。
 勿論これは馨防團に見附かれば叱られるが、隣組の了解のもとに行つた。
 そして私は晝の追ひかけで、ぐつたり疲れて、うとうと眠りかけてゐる時、
 弟がたうとう烏をおびきよせて、十二時間目につかまへた。
 今では鳥は益々子供や私達にもなついて、毎朝行水をやつてゐる。
 然しもう水は冷いので、昨夜ののこりの風呂の湯で行水させると、
 老人が湯に入つた時のやうに、ううんとうなつて、いつまでも樂しんでゐる。
 鶯や、いんこや、うづらを飼ふより烏を飼ふことは、
 ずつと澁い趣味だと思つてゐる。
 もう逃さないつもりだ。
 (徳山璉『徳山璉随筆集』輝文館、昭和17(1942)年)

隣組の人々にとっても、小さな烏は癒しだったのでしょうか。
烏をつかまえたという「弟」とは、誰を指すのかしら?

戦時歌謡で一世を風靡した徳山璉でしたが、終戦を待たずに、
38歳の若さで、昭和17(1942)年1月28日に死去しました。
死因は敗血症、満州で怪我をしたことが原因であったとされます。
夫の死後、昭和を生き抜いた寿子は、平成4(1992)年に亡くなりました。
明治35(1902)年生まれの90歳、天寿をまっとうしたと言えます。
ピアノや音楽を教えて子どもを育て、夫の死後、長く長く生きたのでした。


(写真は『モダン化粧史 粧いの80年』(ポーラ文化研究所、1986年)から。)
頑張ってきましたが、萩谷清江を追いかける旅もここまでかな、と思います。
落ち着いたら、年譜をまとめたい。

余談
「東京タラレバ娘」、吉高さんは、花子に続いて、妄想してしまう。
家事代行に行ったら平匡さんみたいな人に出会うほど、うまくできていない。
原作は未読だけど、年齢を下げて、倫子はまだ売れない脚本家。
33歳? 周りは結婚して出産、一番焦る時期かも。
仕事がうまくいっていると、それだけでいいじゃない、と思ってしまうかも。
みくりはある意味、戦ってきたヒロインだったのかな、倫子たちは回避してきた。
女子会だけで楽しくやれてしまう、東京。
2020年は、私も確かに、タイムリミットみたいにじわじわ来ていてつらい、東京。
2017
01.17

徳山(萩谷)寿子、夫が小烏を逃す

Category: 萩谷清江
徳山璉(たまき)が満州に出かけていた留守に、小烏を飼い始めた徳山家。
帰国した徳山璉は、かわいい小烏と対面しました。
戦時下でも微笑ましい一家の風景、「小烏の行水が面白い」と寿子。

 妻の云ふには、行水がとても面白いと云ふ。
 毎朝糞をとり換へる時、止り木にのせたまゝ、水をはつた盥に入れてやると、
 うれしさうに長いことやつてゐて、
 決して烏の行水なんてかんたんではないさうである。
 その日はもう行水はすんでゐたので、
 翌朝のを見るのをたのしみに、一先づ旅裝をといた。
 そして翌朝は防空演習で、妻は隣組でいそがしいので、
 鶏の糞のとり換への時間に出來ない。
 私は自分でやつてみようかとも思つた。
 然し私にはまだ馴れてゐない。
 毎朝妻のやる日課になつてゐるものなら、その方が烏もよろこぶだらうし、
 私が餘計なことをして、逃がしでもしたら、折角の金網が無駄になる。
 然し、いつになつたら妻がやることだらう。
 烏も早く糞をとり換へてもらひたいだらうと、
 考へに考へて、私は金網をはづした。
 勿論烏は止り木に止つてゐる。
 私はそのまゝそつと水の盥の上に持つてゆかうとした。
 この時、運わるく、うちの犬がのつそりとあらはれた。
 これが間違ひのもとで、結局、あつと云ふ間もなく、止り木がはづれ、
 烏はあれよあれよと空高く舞ひ上つたと云ふと、何んだか目出度いやうだが、
 私の氣持ちは、周章狼狽の極に達してゐた。
 空を飛んでる鳥について、私は地上を走つた。
 近所の人は、防空演習で外に出てゐたので、ゲラゲラ笑つて見てゐる。
 妻からは、餘計なことをするからだと案の錠叱られる。
 ロクに飛べまいと思つてゐた烏が、
 かくも氣持ちよく大空を羽搏きをさせて飛んでゐるのを、
 私はたゞぼんやり口を開いて空を眺めてゐた。
 (徳山璉『徳山璉随筆集』輝文館、昭和17(1942)年)

小烏の世話は、寿子の役割だったようなのですが。
さてさて、まだ馴れていない璉が逃がしてしまった小烏はどうなる……。

余談
昭和36(1961)年1月17日、竹鶴政孝の妻・リタが亡くなりました。
2017
01.16

徳山(萩谷)寿子、小烏の行水を愛でる

Category: 萩谷清江
徳山璉(たまき)が満州に出かけていた留守に、小烏を飼い始めた徳山家。
帰国した徳山璉は、かわいい小烏と対面します。

 それから滿洲の旅も無事に終へて、久しぶりで我が家の門をくゞつた。
 私が玄關を入らうとすると、突然鶴の一聲ならぬ、
 烏のカアーの一聲に膽を奪はれた。
 私は大連宛の手紙を咄嗟に思ひ出した。
 呼びかけられて、先づは敬意を表さないわけには行くまいと、
 靴もぬがず緣側に廻つて、烏と初對面することにした。
 もうストーブの金網でなく、新しい四角な金網に入れられて、成程、
 少し小柄だけれど、ほんものゝ鳥がとまり木に止つてゐる。
 そしてまるい可愛い眼をくるくるさせて、私を見てゐる。
 頸をかしげて、この男はよく太つてゐるから、よく寐るだらう。
 そしてよく食ふだらう。
 これで歌ふのが商賣かね。
 のん氣さうな、だらしのない顏をしてゐるなあ、
 とこんなことを云ひたげな顏をして、私をしげしげと見てゐる。
 私が紙きれを網の目に持つてゆくと、
 それを長い嘴(くちばし)で引つぱつてとつて了ふ。
 それを足の指にはさんで、嘴でこまかくちぎつて、すてゝゐる様子は、
 犬がじやれてゐるのと同じ氣持ちである。
 妻の云ふには、行水がとても面白いと云ふ。
 毎朝糞をとり換へる時、止り木にのせたまゝ、水をはつた盥に入れてやると、
 うれしさうに長いことやつてゐて、
 決して烏の行水なんてかんたんではないさうである。
 (徳山璉『徳山璉随筆集』輝文館、昭和17(1942)年)

これは戦時下、翌朝には防空演習があり、寿子は隣組で大忙しだったとか。
そうした日常の中でも、何か微笑ましい家族の光景です。
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