2017
04.14

三宅艶子の母、やす子

Category: 柳原白蓮
井原あや『〈スキャンダラスな女〉を欲望する 文学・女性週刊誌・ジェンダー』
(青弓社、2015年)が取り上げていた、「実名連載小説」。
「禁じられた恋に生きた女たち」の第1回は、三宅艶子による「柳原白蓮」。
村岡恵理『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(新潮文庫、2011年)掲載の、
昭和18(1943)年8月30日、吉屋信子邸に集った女性作家たちの写真に、
村岡花子、吉屋信子、林芙美子、宇野千代らとともに、三宅艶子も映ります。
戦時下の女性作家の集まりで、村岡花子と三宅艶子は同席していました。

 三宅艶子(みやけ つやこ)
 1912-1994 昭和-平成時代の小説家、評論家。
 大正元年11月23日生まれ。三宅恒方(つねかた)・やす子の長女。
 画家阿部金剛と結婚、阿部艶子名で執筆し、離婚後は三宅姓をつかう。
 昭和33年随筆集「男性飼育法」を発表、
 ユニークなタイトルで女性の人気をよんだ。
 ほかに小説集「きづな」など。
 平成6年1月17日死去。81歳。東京出身。文化学院卒。
 (コトバンク/デジタル版日本人名大辞典+Plus)

母の三宅やす子、娘の三宅菊子も作家で、母の代から宇野千代と親しかった。
夏目漱石に師事したという、三宅やす子にも注目したい点があります。
三宅やす子は、明治23(1890)年生まれ、昭和7(1932)年に亡くなりました。
東京女子高等師範学校付属高等女学校を卒業し、夏目漱石、小宮豊隆に師事。
女学校の同級に杉田久女がいて、ライバル関係にあったとか。
昆虫学者三宅恒方と結婚、大正10(1921)年の夫が死後に文筆活動に入った。
(奇しくも白蓮事件と同じ年、三宅やす子も「ノラ」だったのかもしれない。)
三宅やす子の墓は、宇野千代、長谷川時雨などの有志で多磨霊園に建てられた。
ちなみに、近代女性作家の先駆となった三宅花圃は、三宅雪嶺の妻で、
その甥が、三宅やす子の夫の三宅恒方。
三宅花圃の父、田辺太一の甥が、琵琶湖疎水を作った田辺朔郎で、
その妻は、同志社女学校卒業で、土倉政子の友であった北垣静子です。
実は、三宅やす子は、京都師範学校校長であった加藤正矩の娘で、京都で誕生。
父の加藤正矩は加藤弘之の弟で、三宅やす子は加藤弘之の姪にあたります。
そして、父の加藤正矩の経歴に関しても興味は尽きませんが、
同じ出石藩出身、植松左武郎の娘を養女に迎えています。
三宅やす子の義理の姉妹となった養女は、キリスト教伝道者の河本香芽子。
河本香芽子は慶応2(1866)年誕生、三宅やす子の義姉になります。
年齢差は24歳もあり、親しい関係だったかどうかはどうでしょう。
2017
04.13

「若き学生との恋の逃避行」

Category: 柳原白蓮
井原あや『〈スキャンダラスな女〉を欲望する 文学・女性週刊誌・ジェンダー』
(青弓社、2015年)が取り上げていた、「実名連載小説」。
「禁じられた恋に生きた女たち」の第1回は、三宅艶子による「柳原白蓮」。
最終節は、いよいよ「若き学生との恋の逃避行」です。

 はじめに訪ねるときは、ただ気まぐれな奥さまに過ぎないと
 宮崎は燁子のことを思っていたと後に友人に喋っている。
 用談の合間に歌の話を少しした。
 ひとことひとこと噛みしめるようにきく白蓮夫人の態度に宮崎は打たれた。
 そしてするつもりでなかった自分の抱負を、ぼつりと語った。
 父親譲りの熱情と、
 若さの気迫は燁子をひきつけずにはおかなかっただろう。
 実際、家の中を見廻しても心を許せる人が一人もいず、
 夫は事業で外に飛び廻っているか
 下品な言葉でわめき散らすかどっちかだ。
 わずかに上京して佐々木先生のところに行く以外、
 話らしい話をするときもない燁子だったのだ。
 短い時間の二人の会話は、お互いをどの位幸福にさせたか知れない。
 「世の中をもっと住みよいものにしなければ」という竜介の情熱は
 燁子にとって初めての話題でもあり、
 ただの恋心以上にひきつけられたことだろう。
  今はただまことに人を恋ひそめぬ 甲斐なく立ちし名の辛さより
  わが命惜しまるるほどの幸を初めて知らむ相許すとき
 二人が激しい情熱の中に身を投じたのは、
 さもありなん、と思うばかりである。

柳原白蓮の短歌も入れ、互いに思いを打ち明けあえる関係を強調。
孤独な柳原白蓮、情熱をほとばしらせつつ熱く語る宮崎龍介。
そして、絶縁状を後悔しての白蓮事件については、
この企画がもっとも関心を示して、語られるべき部分でしょう。

 大正十年十月、朝日新聞を拡げて大声をあげなかった人はないだろう、
 と私より年上の人が言っていた。
 あかがね御殿脱出の記事はそれほど人を驚かせた
 「人妻が恋をする」だけでも絶対に許せないことなのに、
 夫に無断で行方をくらませ、
 しかも翌日は夫に対する絶縁状を新聞を通じて天下に公表したのだから、
 読者がびっくりしたのも無理もない。
 (その頃はアンナ・カレニナでも、人妻ということがわからないようにカットして、
 カレーニン夫妻を親娘につくりかえたという話がある位の世の中だった)

ここに、「『人妻が恋をする』だけでも絶対に許せないことなのに」とあります。
この連載企画じたい、「禁じられた恋に生きた女たち」なのでした。
また、伊藤伝右衛門に対する、衝撃の絶縁状の内容は、
「『人形の家』のノラの科白よりも劇的な印象を与えるものであった」とし、
著者の三宅艶子が、秘話を明かします。

 (この手紙は宮崎氏の親友赤松克麿氏が書いたとも言われている。
 数年前、赤松氏のお葬式に、
 すっかり年老いた白蓮女史が敬虔な祈りを捧げている姿を見たが、
 何十年昔のことをどう思い出して居られるかしら、
 とこちらの目頭が熱くなった)。

( )書きにしているのは、著者としての自分を表に出さない配慮でしょうか。
赤松克麿が亡くなったのは、柳原白蓮の死やこの掲載の12年前。
その後の人生の描写は少なく、まとめられています。

 「もう、何度危篤になったことか、
 死人と同じに何もわからなくなっても頑張って、
 明日死ぬと言われてから八ヶ月も生きていたんですよ」とは
 親しい人の言葉である。
 そそとした美女の八十年の生涯は、華やかで又清清しいものであtった。
 (『ヤングレディ』1967年3月20日号、講談社)

最後の1文は、この「実名連載小説」の企画にあらがって、
三宅艶子が、ふと見かけて目頭を熱くした柳原白蓮への思いを述べたものか。
(ほかの小説も検討しなければ言えない、とは思いますが、保留。)
2017
04.12

「第二の結婚にもいつか破綻の影が」

Category: 柳原白蓮
井原あや『〈スキャンダラスな女〉を欲望する 文学・女性週刊誌・ジェンダー』
(青弓社、2015年)が取り上げていた、「実名連載小説」。
「禁じられた恋に生きた女たち」の第1回は、三宅艶子による「柳原白蓮」。
その第3節は、柳原白蓮と伊藤伝右衛門の結婚の内実と破綻。
「出戻り」とはいえ、伯爵家の娘が滅多な家に嫁ぐわけにもいかない中で、
25歳も年上で、学のない男と結婚させられることになったのには、理由があった。

 一つは兄の義光が貴族院議員として政治資金が必要だったこと。
 坑夫から営々と苦労して、その頃一番出炭量の多い炭坑の持主となり、
 巨大の富を持った伊藤は、後妻を迎えるにあたって、
 貴族のうちでも皇太子と血の続いた従妹を選ぶことによって
 最大の名誉をわがものに出来ると思ったのだろう。
 そのためには柳原家に対して多額の金銭の援助が申し入れられたに違いない。
 もう一つは、燁子自身がその富に魅力を感じたことであった。
 といっても、年をとった金持ちを夫にしてぜいたくをしようというのではない。
 離婚して以来歌や文学を勉強して来た燁子は、
 未婚のお嬢さんがばくぜんとなにかに憧れるのよりは、
 世間をいくらか知っている。
 貧しさの苦しみも、富の持つ権力も、実感として感じたことだろう。
 燁子は学問も家柄もない働きものの伊藤に先ず夢を持ったのではなかったか。
 そしてその金力にも、彼女の理想を託したのだ。
 そのときの結納金は二万円だと新聞にも出たという。
 二万円は今のお金に直すと二千万円位であろうか。

世間を騒がせた、華族の令嬢と成りあがりの炭鉱王の結婚の理由は、
女性週刊誌の読者も、興味をもつところにちがいありません。
具体的な結納金の金額は、当時も取りざたされたもの。
よく指摘される、女学校経営の話に望みをもった、という事情は語られません。
しかし、「働きものの伊藤に先ず夢を持ったのではなかったか」とは、
言葉のニュアンスでもありますが、なるほど、と思わされます。
ところが、そんな「夢」は打ち砕かれてしまう。
いないとされていた子どもが3人、女中頭がいて、燁子はその言うまま。
しかも、その女中頭は夫の愛人でもあって、「潔癖の燁子」には堪えられない。
「社会事業に使えるどころか、妻としての小づかい銭も与えられなかった」。

 大正六年には「踏絵」と題する歌集が出版された。
 佐々木門下のグループや文壇の人々をも招いた出版記念の会は、
 歌人としての燁子の地位をつくるものとなった。
 新聞や雑誌に彼女の歌や写真がたびたび出るし、
 東京の文人がはるばる訪ねて行くことも多く、
 そんなところから「筑紫の女王」ということばも出た。
 彼女としても、伊藤夫人であった間、泣くことばかりではなかったようだ。
 九州・博多のあかがね御殿はときには白蓮夫人のサロンともなっていた。
 後に世を騒がすことになった恋人、宮崎竜介と燁子が会ったのは、
 そういう「筑紫の女王」時代。
 結婚して十一年目の頃である。
 (『ヤングレディ』1967年3月20日号、講談社)

それこそ、当時のメディアが「筑紫の女王」として注目した、柳原白蓮のサロン。
「伊藤夫人であった間、泣くことばかりではなかったようだ」
著者は少し辛辣に、豪勢な博多の別荘で、文人たちの中心にあり、
サロンの女主人として振る舞う彼女を、「泣くことばかりではなかった」とします。
また、井原あやさんが指摘していますが、ここに伊藤伝右衛門の影が薄く、
ひたすらに耐え抜いた、柳原白蓮の姿が見えるだけです。
自叙伝においては、確かに暴君であっても、妻に気をつかったりする、
ふがいない夫の様子も語られていたのに、それは避けられてしまっています。

余談
トリノ五輪当時の強化部長が、スポーツ紙にて、
浅田真央さんがトリノ五輪に出て(トリプルアクセルを跳んで)いたら、
金メダルを取ったと思っている、と語っています。
今、彼女のような立場だった人がそんなことを言うのは、
荒川静香さん(彼女にも苦難はあった)にも、他の代表選手、他国の選手にも、
ルールを運命として受け入れ、次の五輪にかけた浅田真央さんにも、失礼。
そんなことを考えながら、トリノで代表選手たちのそばにいたのか。
そんな「もしも」を言わなくても、浅田真央さんは十分に偉大な選手です。
2017
04.11

「人形のような乙女妻として…」

Category: 柳原白蓮
井原あや『〈スキャンダラスな女〉を欲望する 文学・女性週刊誌・ジェンダー』
(青弓社、2015年)が取り上げていた、「実名連載小説」。
「禁じられた恋に生きた女たち」の第1回は、三宅艶子による「柳原白蓮」。
不幸だった最初の結婚が、詳細に語られています。
北小路家へは、「少女の身に、まだ尊重すべき自分の意志もなく」行った。

 ことさらに黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記

当時の悲しみを思って、後に詠まれた短歌も挿入されています。

 どんなに質素なくらしでも、夫が信頼出来る人であったら、
 少なくとも普通に話し会える人であったら、
 妻として生活を築く気にもなっただろう。
 しかし夫の資武が十六歳の花嫁を
 ただ性的な対象としてだけ相手にすることは堪えられなかった。
 精神的な語り合いがなんにもないままに、彼女は母親になった。
 それも妊娠ではないかと姑に言われて
 「うそよ。そんなこと」というほど無邪気な燁子であった。
 
生まれた子の世話は姑たちが担い、抱くことさえ許されず、
「若い母の燁子はここでも人形のようであった」。

 「どうしても」と柳原家に帰って来てしまった直接の原因は、
 もはや争いでも不和でもなかった。
 もともと嫁ぐ日から、「帰りたい」と念じていたのだ。
 今だったら、親兄弟が
 「もう約束してしまったのだから」となだめられる女性はいないだろうが、
 当時はなかばそれが宿命とされていたのだ。
 六年かかっても、帰って来た燁子は
 おそまきながら自我に目覚めたといえるだろう。
 白蓮の名で歌を詠むようになったのは、その「出戻り」の時期からである。
 燁子は柳原家から英和女学校に通い、
 佐佐木信綱の竹柏会にはいって和歌を習った。
 変則だった少女時代をとり戻すかのように、彼女は熱心に和歌に打ちこんだ。
 美しい歌人として、白蓮の名を知る人はその頃でも多かった。
 (『ヤングレディ』1967年3月20日号、講談社)

最初の嫁ぎ先から無理に戻ってきた、それが「人形」からの「目覚め」とする。
そして、東洋英和女学校に編入し、佐佐木信綱に師事する。
短歌に熱心に取り組むようになっていく、それと時を同じくしての覚醒。
ただ、「白蓮」という名を用いるようになったのは、伊藤伝右衛門と結婚してから。
過激な内容に配慮して、佐佐木信綱に勧められたからではないか。

余談
私は、浅田真央さんはもちろん、大好きなのだけれど、それ以上に、
浅田真央さんだけでなく、安藤美姫さん、中野友加里さん、村上佳菜子さん、
鈴木明子さん、高橋大輔さん、小塚崇彦さん、織田信成さんなどが、
それぞれ個性豊かで、スター性があり、実力も兼ね備えて、
ライバルだけれど、普段は仲良しで楽しそうで……あの頃がいとおしい。
浅田真央さんだけで、あの時代を作ったわけではないし、
中野友加里さんも、トリプルアクセルを跳んでいた。
また、日本女子を世界的に評価されるまでに押し上げた村主章枝さん、
トリノ五輪で金メダルに輝いた荒川静香さんも、過小評価してはならない。
さらには、姉の浅田舞さんの葛藤やそれを乗り越えてきた過程にも共感する。
2017
04.10

「貴族の家に妾腹の子として出生」

Category: 柳原白蓮
井原あや『〈スキャンダラスな女〉を欲望する 文学・女性週刊誌・ジェンダー』
(青弓社、2015年)が取り上げていた、「実名連載小説」。
「禁じられた恋に生きた女たち」の第1回は、三宅艶子による「柳原白蓮」。

 貴族と富豪を捨て第三の結婚へと走った
 悩み多き情熱の女(ひと)・柳原白蓮の一生=三宅艶子

 近代日本の女性史に名をとどめる、
 禁断の恋をつらぬきとおして生きた幾人かの女人群像を、
 女流作家の目で描ききった実名小説
 ーー連載第1回は、さきごろ八十歳の生涯を閉じた
 「大正時代のノラ」柳原白蓮の波乱多き一生ーー

この連載でも扱われる松井須磨子が主演した、「人形の家」は、
明治44(1911)年9月に初演を迎え、福岡公演は大正4(1915)年でした。
いわゆる白蓮事件は、大正10(1921)年のこと。
この「実名連載小説」の筆致は、小説というより、評伝や伝記のような書き方。
柳原白蓮の波乱の始まりは、実母が正妻ではなかったこと。

 白蓮、柳原燁子は明治十八年伯爵柳原前光の
 妾腹(生母は柳橋の芸者とのこと)の娘として生まれた。
 当時の華族階級は血統を重んじ、
 「腹は借りもの」という考えが厳然と残っているころだ。
 天皇家、将軍家のように、側室が子供を生むのはなんの不思議もない。
 生まれた子供は、勿論男子が優遇されるが、
 女の子もお姫さまとして大切に育てられる。
 そして生母が我が娘を自分より身分の高いひととして仕えなくてはならない。

やんごとなき階級ならではの習わしというのも、読者の興味を掻き立てたでしょう。
やはり慣習として里子に出され、元気に育ったことも語られます。

 大森や品川は今でこそ高速道路や京浜国道を通るくるまの数もおびただしいが、
 その頃は東京から離れた田舎なのだ。
 その田園の生活は、あとで振り返って見て、
 彼女のしんの強さをよく育てるもとになっているのではないかと思う。
 (『ヤングレディ』1967年3月20日号、講談社)
 
ここに「思う」と見え、三宅艶子の考えが示されているようです。
つまり、華族の令嬢として似つかわしくない強情で、「禁じられた恋」を貫き、
スキャンダルを起こした、という前提があってこその推測か。

余談
浅田真央が現役引退を発表、ミシェル・クワン同様、銀を金にかえたレジェンド。
もう少し頑張ってほしかった、次の五輪に出てほしかった……。
スポーツニュースは、突然の発表を受けた街の声を伝えていました。
でも、残念だし寂しくても、そのときが来たのだなという気がします。
腰や膝の痛みもあるでしょう、10代のころからトップを走ってきて、疲労もある。
もう十分に頑張ってきたし、次の道に進むときだろう、と思います。
浅田真央自身が決断したのであれば、もう少し、とはとても言えない。
ほかの競技とちがい、フィギュアスケートにはアイスショーもある。
夏のアイスショーでは、ルールに縛られない、自由な演技を見せてくれるはず。
26歳、あるいは、別の目標を見つけるとしても、可能性は広がっている。
本当にお疲れさまでした。ありがとう、真央ちゃん。
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