「女子教育の先駆者、毛利勅子の志」

電子の波に乗っていたら、女子教育に関する、こんな記事に出会いました。
女子教育の先駆者であり、また、初の女性校長とされる、毛利勅子。
彼女が創立した「船木女児小学」は、女学校としては日本で3番目に古い。

 女子教育の先駆者、毛利勅子の志 厚狭高校で継承

 小高い丘の上に、白い学舎が立つ。
 山陽小野田市の県立厚狭高校北校舎。
 ここに、年季が入った琴や三味線、書見台などが大事に保管されている。
 明治維新を経て、女子教育の先駆者となった毛利勅(とき)子の遺品だ。
 勅子は1819年、徳山藩主・毛利広鎮(ひろしげ)の七女に生まれ、
 琴や三味線のほか書や歌に通じた。
 長刀は免許皆伝の腕前で馬術にもたけた。
 だが、厚狭毛利家10代元美(もとよし)の正室になると、
 封建制度のおきてに縛られ、社会的な活躍の機会はめっきり減った。
 夫を助けて養子を育て、質素な暮らしを続ける日々。
 それも、明治維新で一変した。
 封建社会は崩れ、厚狭毛利家は没落した。
 勅子はたくましかった。
 社会に解き放たれ、新しい時代を力強く進んでいった。
 養子をドイツへ留学させるなど、教育に情熱を注ぐようになった。
 「我が国は開明の日尚浅くして、女史教育の道未だ開けず」。
 73(明治6)年、現在の宇部市に、
 当時はまだ珍しかった女学校「船木女児小学」を設立し、校長に就いた。
 日本最初の女性校長と言われる。
 勅子は生徒たちを畳に座らせ、裁縫のほか算術、読み方を教えた。
 学校の近くに住み込み、言葉遣いから着物の畳み方、
 屋内での所作に至るまで日常生活も指導。
 時には生徒と遠足に行ったり、歌を口ずさんだりもした。
 威厳を感じさせるが、いつもにこやか。
 生徒たちは勅子のことを「おっぱい様」と慕った。
 開校当時、7人だった生徒も6年後には50人に増えた。
 新校舎建設が進んでいたその矢先、勅子は脳出血に倒れ、亡くなった。
 「私は死すとも厚狭に帰らず。魂は永くこの学校にとどまる」の言葉を遺した。
 勅子の名前にちなんで、学校は「公立徳基(とき)学舎」などと改称を重ね、
 1908年には現在の厚狭高校南校舎の地に移転。
 戦後、厚狭高校となった。
 校舎に入ると、歴代校長の顔写真の先頭に初代の勅子の肖像画があった。
 厚狭高校では、今も「毛利勅子先生」と呼ぶ。
 服飾や食物を学ぶ総合家庭科があり、
 全国コンテストで毎年のように受賞しているのが自慢だ。
 校舎から少し離れた洞玄寺の裏山に勅子の墓はある。
 毎年5月、生徒が清掃する。
 清掃に参加した3年の俵絵里奈さん(17)も服飾を学ぶ1人。
 「先輩たちがしてきたことをつなげながら、新しい挑戦ができたら」。
 勅子の志は、世代を超えて受け継がれている。
 (2017年11月3日「朝日新聞」/山口)

毛利勅子は、新校舎の完成を見ることなく、教壇で倒れて亡くなった、とのこと。
「船木女児小学」は「徳基高等女学校」と改称、県内初の高等女学校に。
山口県には偉人が多くいますが、この毛利勅子のような人ももっと注目したい。

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「大原總一郎が書簡で棟方志功叱咤」

少しだけ……興味をもっていた、大原総一郎の書簡が見つかったそうです。
しかも、あの板画家、棟方志功に宛てた手紙なのだとか。
岡山に大原美術館がありますが、芸術家に対する援助もしていた大原総一郎。

 大原總一郎が書簡で棟方志功叱咤 依頼作厳しく批判も絆示す資料

 岡山県倉敷市出身の実業家で、芸術家を支援するパトロンでもあった
 大原總一郎(1909~68年)が、
 終生深く交友した板画家棟方志功(03~75年、文化勲章受章者)に宛てた
 書簡が25日までに見つかった。
 棟方に制作を依頼した作品の出来を厳しく批判する内容で、
 独自の審美眼で芸術家を導いた大原と、
 叱咤を受け止めて飛躍した棟方の絆を物語る資料として注目される。
 書簡は、棟方の孫で棟方志功研究者の石井頼子さん(61)=東京都=が
 遺品整理中に発見。
 倉敷考古館(倉敷市中央)で開催中の特別展「棟方志功と縄文の風」で
 記念講演を依頼されたのを機に、
 大原との関係を再検証する中で内容が判明した。
 便せん4枚の封書で、消印は1946年2月7日付。
 棟方に制作を依頼した「三幅対二種」(肉筆画6点)について
 「一覧致し失望の感を深くしたる次第に御座候」と批判。
 奔放な筆致を「戦争末期に於ける無秩序混乱の敗戦的大暴れのやう」と酷評し
 「御返送致す」と記述。
 作風の方向性への危惧を伝えた上で
 「多少なりとも御参考に相成候はゞ幸甚に存ずる」と結んでいる。
 棟方は大原の依頼作について、随筆「板愛染」(48年)に
 「『雷鳴神』を中幅にして、右幅に『雲立神』、左幅に『稲光神』を描いた」とし
 「この仕業に命の本当を叫ぶのだ」とつづっており、
 渾身の作品を批判されたことになる。
 棟方の返信は未確認だが、
 石井さんは「大変な衝撃と困惑をかみしめたはず」と推し量る。
 それでも生涯、その書簡を手元に置き、
 また互いに変わらず交友を続けたことから
 「棟方にとって大原は無条件の支援者ではなく、
 理想の美を追究する盟友のような存在だった」と指摘。
 「批判も厳しく温かな言葉として真摯に受け止め、
 糧としたのだろう」と評価する。
 (中略)
 大原總一郎と棟方志功
 1936年に西洋視察旅行に出た大原が英国のギャラリーで偶然、
 棟方作品と出合ったことが親交のきっかけ。
 感銘を受けた大原は38年、自身の帰国を祝う会で棟方に初めて会い、
 すぐにふすま絵の制作を依頼。
 以後、公私にわたり数多くの仕事を発注するなど支援し、
 63年には大原美術館に棟方志功の展示室を開設した。
 棟方も年少の大原に深い敬意を払い、
 68年の大原死去に際して
 「日本の美の最大の理解者でした」とする追悼文を発表している。
 (2017年10月26日「山陽新聞」)

大原総一郎と棟方志功には、特別な信頼関係があったようです。
いつも思うのですが、明治時代や大正時代の資本家たちは、
事業を大きくし、その利益を社会事業や教育のために寄付するなど還元。
今も大企業が取り組んでいるのでしょうが、もっと報道すべきだと思いました。

Tag:女子教育 

サッカーチームに所属した2人の女学生

日本の女子サッカーの発祥は、と気になって、ネットの波に乗ってみたら、
『朝日新聞』の「ことばマガジン」のサイトで取り上げられている記事に遭遇。

 起たんとする二女学生――昨日豪雨中予選の蹴球見物――

 つい此程東京蹴球団へ二女学生が入団を申込んだ、
 意外の事に一驚した幹部は種々研究もし相談もした揚句
 彼女等の希望は頗る真面目に競技を研究し
 婦人チームを組織したい目的だと判って入団を許した、
 両女は共に桜井女塾の生徒で
 本科一年生小笹浅子(一八)と阿部かね(一八)と云ふ 
 性来の女ファンで極東大会の蹴球予選開始以来
 一日も欠かさず軽快な揃ひの洋装で豊島師範のグラウンドに詰めかけ
 昨日の如き土砂降を物ともせず熱心見物して居た、
 蹴球団の佐々木氏は『驚いたもので十四、五人婦人のメムバーも拵へ上げ
 先づランニングから初めてキックに進む抔と
 頗る科学的にやってゐる』と語った
 (1921〈大正10〉年5月8日付 東京朝日朝刊5面)

これが大正10(1921)年5月8日の記事で、「蹴球」スタイルの女学生の写真も。
袴姿でサッカーをする丸亀の女学生の絵はがきは、大正13(1924)年撮影のもの。
丸亀の女学校でサッカーをしていた記録は、明治39(1906)年。
注目したいのは、ここで名前が明記されている小笹浅子と阿部かね。
2人は桜井女塾の女学生で、サッカーの「性来の女ファン」であったといい、
「軽快な揃ひの洋装」でサッカーの練習をし、土砂降りの中でも練習を見学した。
彼女たちは、「婦人チーム」をつくりたいとして「東京蹴球団」に入団。
丸亀のみならず、やはり東京でも女子のサッカー熱は高まりつつあった。
ちなみに、この東京蹴球団は、現在の東京都社会人サッカーリーグで存続。

 この2人が通っていた「桜井女塾」は、
 東京・本郷の向ケ岡弥生町(現・文京区弥生あたり)にあった、
 英語を主に教える学校だったようです。
 もしかしたら、英語文化に触れる環境の中で
 英国発祥であるサッカーを知り、興味を持ったのかもしれませんね。
 そして2人は「東京蹴球団」(東蹴)に入団を申し込みます。
 (中略)
 ところで今回の記事の2人の女性について尋ねたところ、
 記事の存在は知っていたものの、
 団に話が残ってはいないようだ、とのことでした。
 現在も、井上さんや鈴木監督の選手時代も、団員に女性はおらず、
 近所の女性が体力作りで練習に参加することがあった程度だそうです。
 長い東蹴の歴史の中でも、この記事の2人は異色の存在のようです。
 そうなるとこの2人が本当に団員だったのか、若干疑わしくなってきましたが、
 その疑念を払拭する記録を、あるサッカーファンが発掘していました。
 古い文献にあたって日本サッカーの歴史を独自に研究し、
 ブログ「蹴球本日誌」でその成果を披露している、
 ハンドルネーム蹴球閑人さん(55)。
 大正~昭和初期に発行された「運動界」(運動界社刊)という雑誌に
 この2人に関する記述があるといいます。

現在のチームにも伝わっていない2人の消息ですが、きちんと発掘されていた。

 早速、現物を確認しに国立国会図書館へ。
 目当ての記事は1929(昭和4)年の4月号掲載でした。
 当時1部50銭で158ページとなかなかのボリューム。
 この号は「運動界」の10周年記念号で、「ソッカー十年の思ひ出」として、
 東蹴の団員・原島好文氏の寄稿が掲載されていました。
 主にサッカーと東蹴の歴史を振り返る内容でしたが、
 その中に以下の記述がありました。
 その頃、東京蹴球団には婦人の団員が二人居た。
 モガの詞の無かった頃のモガで、彼女達はユニホームを着てグラウンドに出た。
 (中略)一人は丸顔一人は細面の一寸可愛い娘であった。
 二人は華美なストッキングをつけフットボール専用の靴を履いてゐた。
 或日の東京日日新聞紙上に、
 絵日傘をさしてニコニコしながらゲームを見てゐる二人の写真が出たっけ。
 その二人をメンバーに入れて試合した、
 肉弾戦のまだ大目に見られる頃であったが、まさか突当る訳にも行かず、
 相手の中学チームはさんざんに悩まされたことがあった。
 だんだんグラウンドに出るのが少くなったと思ふうち姿を消して、
 (中略)今は誰かのお母様になってゐるだらう。

なるほど、チームに女子がいると、相手チームは困ってしまうという。
そうした問題もあってか、しだいにグラウンドから姿を消した、というわけです。

 傘をさした写真というのが、今回の記事ではないでしょうか。
 原島氏は東京日日新聞(現・毎日新聞)としていますが……。
 写真の2人も丸顔と細面に見えます。
 原島氏は細面の女性のほうをちょっと気にしていたようですね。
 この証言を見る限り、2人はちゃんと試合にも出ていたようです。
 大正時代にも「なでしこ」が存在したのでした。
 蹴球閑人さんはこの記述を見つけたとき、
 「大正時代ののびやかな雰囲気を感じた」そうですが、
 まさに時代は大正デモクラシー、男女の機会均等を訴える風潮の中で、
 この2人ものびのびと、サッカーを楽しんだのかもしれません。
 (『朝日新聞』「ことばマガジン」)
 http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2011100600001.html

試合にも出ていたのであれば、今後、写真が見つかる可能性も?
当時の新聞はもちろん、婦人雑誌や少女雑誌などに掲載はないのか。
明治、大正時代の女学校の体育については、最近、研究が盛んな印象。
何といっても、具体的に氏名がわかっていることが嬉しい。
サッカーを続けることはできなかったのかもしれませんが、想像が膨らみます。
記事にもあるように、英語を学ぶ中で出会った競技なのでしょうか。

余談
夏休みが(宿題を残して)終わっても、無気力状態が続く……。
録画もたまっていて、しかも、楽しみにしていた「校閲ガール」を見逃しました。

Tag:女子教育 

大正のなでしこたちの1枚の写真

日本の女子サッカーの夜明けは大正時代の丸亀、は1枚の写真から。
『サンスポ』の丸山汎さんのコラムに、次のようにありました。

 一枚の写真から~大正時代のなでしこたち~

 ある古い写真に、強くひかれている。 
 見れば見るほど引き込まれてしまうのは、
 そこにいる少女たちの表情があまりに生き生きとしているからだ。
 はかま姿で手ぬぐいを頭にかぶり、
 誰もが目を輝かせて地面のボールを追いかけている。
 チーム分けなのだろう。
 何人かは白いたすきを肩からかけて。
 これは今から91年前の日本の一瞬の場面を切り取った写真だ。
 撮影されたのは1924(大正13)年とみられ、
 下には「香川縣立丸亀高等女學校運動會」「フットボール」の文字がある。
 現在までに発見されている、日本で最古の女子サッカーの写真なのである。
 「どうして丸亀で女学生たちがサッカーをしていたかについては、
 諸説あります」と説明するのは、
 所蔵する丸亀市立資料館の学芸員・大北知美さん。
 大正時代、第一次世界大戦で丸亀市内にはドイツ人の俘虜収容所が作られ、
 そこから「フットボール」が伝えられたとの説もある。
 当時丸亀のドイツ人捕虜たちは、週一度は
 市内の日本庭園や海岸でゴルフなどを楽しむ自由も与えられていたという。
 彼らが後に移された徳島県の板東俘虜収容所で、
 わが国初のベートーベンの「第九」の演奏会を行ったことはつとに知られている。
 日本人の優しさに感激し、
 戦後も本国送還を断って日本残留を決めたドイツ兵は、およそ170人を数えた。
 サッカー自体は日本には1873(明治6)年に英国海軍の将校により
 伝えられたとされるが、いずれにしても、邂逅した新しい異国の競技を、
 積極的に楽しもうとする自由闊達な気風が丸亀にもあったのだろう。
 それだけではない。
 「これはただの写真ではなく、当時売られていた絵はがきなんです」と
 大北さんは言う。
 おしとやかなはず(?)の大正の大和撫子たちが、お転婆ぶりを隠さずに、
 審判役の先生もそっちのけに、前のめりに笑顔でゴールを目指している。
 まるで彼女たちの上げる大きな歓声までが聞こえてきそうだが、
 こんな楽しそうな風景を、
 当時の丸亀の人たちは胸を張って世に紹介したのだろう。
 その「日本女子サッカー発祥の地」で、5月18日から
 日本女子代表「なでしこジャパン」が、6月開幕のカナダ女子W杯に向け、
 いよいよ直前合宿をスタートさせる。
 日本の連覇の懸かる注目のW杯。
 始動の地が丸亀になったのも一つの運命なのかも知れない。
 (2015年5月17日『サンスポ』)

なぜ丸亀だったのかについては、ドイツ人の俘虜収容所と関わりが?
写真として残っていなくても、東京の女学校とかでは早い例がないのだろうか。
当時、絵はがきというメディアの意味はどうだったか。
写真が撮られたのは大正13(1924)年、記録が残っているのは明治39(1906)年。
そういえば、女子バスケを導入したのは、成瀬仁蔵の梅花女学校とか。

Tag:女子教育 

「大正時代のサッカー女子」

ネットの波に乗っていて、「大正時代のサッカー女子」の記事に出会いました。
女子サッカーの発祥が丸亀の女学校である、とは知られた話ですが、
この記事によれば、2011年に発見された絵はがきや領収書が根拠なのか。

 香川)大正時代のサッカー女子 丸亀高校演劇部が上演へ

 日本の女子サッカー発祥の地とされる丸亀高校で、
 演劇部の生徒たちが大正時代のサッカー女子の姿を描いた
 「フートボールの時間」を上演する。
 部員たちは「当時、立場の弱かった女性が、
 時代にあらがうようにボールを追った心情に迫りたい」と話している。
 1920(大正9)年の旧丸亀高等女学校(現丸亀高校)が舞台。
 女学生の間に広まりつつあったフートボールに理解を示す
 教師や女学生がいる一方、「女のくせに」と批判する大人たちもいる。
 複雑な人間関係のなか、ルールを教えてくれた教師が退職。
 サッカーを愛した女学生も見合い結婚をして退学する、といったストーリー。
 脚本を書いた演劇部顧問の豊嶋了子教諭は
 「当時の女性は、本音では思い切りボールを蹴って、
 もっとおおらかに生きたかったのでは。
 同年代の部員たちだから、そんな気持ちをうまく表現できる」と期待している。
 16人の部員は舞台衣装を手作りし、はかまは通販で購入。
 6月半ばから稽古を始めた。
 最近、丸高で見つかった当時の女学生の作文のなかに
 「フートボール」の言葉があり、タイトルが決まった。
 結婚する女学生の母親を演じる部長の長井ゆいさん(16)は
 「大正時代を想像しながらの役作りに苦労しました。
 女学生たちのもどかしさを感じてもらえたらうれしい」と話している。
 丸高では2011年、はかま姿でサッカーをする女学生の姿を撮影した
 大正時代の絵はがきやボール購入代の領収書が見つかり、
 「日本の女子サッカー発祥の地」との説が有力になっている。
 劇は文化祭「斯文祭(しぶんさい)」の2日目、10日午前11時50分から、
 第2体育館で上演される。
 (2017年9月7日「朝日新聞」電子版)

女子高生たちによる劇が、結局は「見合い結婚をして退学する」のは象徴的。
サッカーが「時代」への抵抗であったのだとすれば、尚更に。

余談
テレビというメディアで勝負した作品なら、それを最後まで貫いてほしい派。

Tag:女子教育 

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