2017
09.20

サッカーチームに所属した2人の女学生

Category: 女子教育
日本の女子サッカーの発祥は、と気になって、ネットの波に乗ってみたら、
『朝日新聞』の「ことばマガジン」のサイトで取り上げられている記事に遭遇。

 起たんとする二女学生――昨日豪雨中予選の蹴球見物――

 つい此程東京蹴球団へ二女学生が入団を申込んだ、
 意外の事に一驚した幹部は種々研究もし相談もした揚句
 彼女等の希望は頗る真面目に競技を研究し
 婦人チームを組織したい目的だと判って入団を許した、
 両女は共に桜井女塾の生徒で
 本科一年生小笹浅子(一八)と阿部かね(一八)と云ふ 
 性来の女ファンで極東大会の蹴球予選開始以来
 一日も欠かさず軽快な揃ひの洋装で豊島師範のグラウンドに詰めかけ
 昨日の如き土砂降を物ともせず熱心見物して居た、
 蹴球団の佐々木氏は『驚いたもので十四、五人婦人のメムバーも拵へ上げ
 先づランニングから初めてキックに進む抔と
 頗る科学的にやってゐる』と語った
 (1921〈大正10〉年5月8日付 東京朝日朝刊5面)

これが大正10(1921)年5月8日の記事で、「蹴球」スタイルの女学生の写真も。
袴姿でサッカーをする丸亀の女学生の絵はがきは、大正13(1924)年撮影のもの。
丸亀の女学校でサッカーをしていた記録は、明治39(1906)年。
注目したいのは、ここで名前が明記されている小笹浅子と阿部かね。
2人は桜井女塾の女学生で、サッカーの「性来の女ファン」であったといい、
「軽快な揃ひの洋装」でサッカーの練習をし、土砂降りの中でも練習を見学した。
彼女たちは、「婦人チーム」をつくりたいとして「東京蹴球団」に入団。
丸亀のみならず、やはり東京でも女子のサッカー熱は高まりつつあった。
ちなみに、この東京蹴球団は、現在の東京都社会人サッカーリーグで存続。

 この2人が通っていた「桜井女塾」は、
 東京・本郷の向ケ岡弥生町(現・文京区弥生あたり)にあった、
 英語を主に教える学校だったようです。
 もしかしたら、英語文化に触れる環境の中で
 英国発祥であるサッカーを知り、興味を持ったのかもしれませんね。
 そして2人は「東京蹴球団」(東蹴)に入団を申し込みます。
 (中略)
 ところで今回の記事の2人の女性について尋ねたところ、
 記事の存在は知っていたものの、
 団に話が残ってはいないようだ、とのことでした。
 現在も、井上さんや鈴木監督の選手時代も、団員に女性はおらず、
 近所の女性が体力作りで練習に参加することがあった程度だそうです。
 長い東蹴の歴史の中でも、この記事の2人は異色の存在のようです。
 そうなるとこの2人が本当に団員だったのか、若干疑わしくなってきましたが、
 その疑念を払拭する記録を、あるサッカーファンが発掘していました。
 古い文献にあたって日本サッカーの歴史を独自に研究し、
 ブログ「蹴球本日誌」でその成果を披露している、
 ハンドルネーム蹴球閑人さん(55)。
 大正~昭和初期に発行された「運動界」(運動界社刊)という雑誌に
 この2人に関する記述があるといいます。

現在のチームにも伝わっていない2人の消息ですが、きちんと発掘されていた。

 早速、現物を確認しに国立国会図書館へ。
 目当ての記事は1929(昭和4)年の4月号掲載でした。
 当時1部50銭で158ページとなかなかのボリューム。
 この号は「運動界」の10周年記念号で、「ソッカー十年の思ひ出」として、
 東蹴の団員・原島好文氏の寄稿が掲載されていました。
 主にサッカーと東蹴の歴史を振り返る内容でしたが、
 その中に以下の記述がありました。
 その頃、東京蹴球団には婦人の団員が二人居た。
 モガの詞の無かった頃のモガで、彼女達はユニホームを着てグラウンドに出た。
 (中略)一人は丸顔一人は細面の一寸可愛い娘であった。
 二人は華美なストッキングをつけフットボール専用の靴を履いてゐた。
 或日の東京日日新聞紙上に、
 絵日傘をさしてニコニコしながらゲームを見てゐる二人の写真が出たっけ。
 その二人をメンバーに入れて試合した、
 肉弾戦のまだ大目に見られる頃であったが、まさか突当る訳にも行かず、
 相手の中学チームはさんざんに悩まされたことがあった。
 だんだんグラウンドに出るのが少くなったと思ふうち姿を消して、
 (中略)今は誰かのお母様になってゐるだらう。

なるほど、チームに女子がいると、相手チームは困ってしまうという。
そうした問題もあってか、しだいにグラウンドから姿を消した、というわけです。

 傘をさした写真というのが、今回の記事ではないでしょうか。
 原島氏は東京日日新聞(現・毎日新聞)としていますが……。
 写真の2人も丸顔と細面に見えます。
 原島氏は細面の女性のほうをちょっと気にしていたようですね。
 この証言を見る限り、2人はちゃんと試合にも出ていたようです。
 大正時代にも「なでしこ」が存在したのでした。
 蹴球閑人さんはこの記述を見つけたとき、
 「大正時代ののびやかな雰囲気を感じた」そうですが、
 まさに時代は大正デモクラシー、男女の機会均等を訴える風潮の中で、
 この2人ものびのびと、サッカーを楽しんだのかもしれません。
 (『朝日新聞』「ことばマガジン」)
 http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2011100600001.html

試合にも出ていたのであれば、今後、写真が見つかる可能性も?
当時の新聞はもちろん、婦人雑誌や少女雑誌などに掲載はないのか。
明治、大正時代の女学校の体育については、最近、研究が盛んな印象。
何といっても、具体的に氏名がわかっていることが嬉しい。
サッカーを続けることはできなかったのかもしれませんが、想像が膨らみます。
記事にもあるように、英語を学ぶ中で出会った競技なのでしょうか。

余談
夏休みが(宿題を残して)終わっても、無気力状態が続く……。
録画もたまっていて、しかも、楽しみにしていた「校閲ガール」を見逃しました。
2017
09.19

大正のなでしこたちの1枚の写真

Category: 女子教育
日本の女子サッカーの夜明けは大正時代の丸亀、は1枚の写真から。
『サンスポ』の丸山汎さんのコラムに、次のようにありました。

 一枚の写真から~大正時代のなでしこたち~

 ある古い写真に、強くひかれている。 
 見れば見るほど引き込まれてしまうのは、
 そこにいる少女たちの表情があまりに生き生きとしているからだ。
 はかま姿で手ぬぐいを頭にかぶり、
 誰もが目を輝かせて地面のボールを追いかけている。
 チーム分けなのだろう。
 何人かは白いたすきを肩からかけて。
 これは今から91年前の日本の一瞬の場面を切り取った写真だ。
 撮影されたのは1924(大正13)年とみられ、
 下には「香川縣立丸亀高等女學校運動會」「フットボール」の文字がある。
 現在までに発見されている、日本で最古の女子サッカーの写真なのである。
 「どうして丸亀で女学生たちがサッカーをしていたかについては、
 諸説あります」と説明するのは、
 所蔵する丸亀市立資料館の学芸員・大北知美さん。
 大正時代、第一次世界大戦で丸亀市内にはドイツ人の俘虜収容所が作られ、
 そこから「フットボール」が伝えられたとの説もある。
 当時丸亀のドイツ人捕虜たちは、週一度は
 市内の日本庭園や海岸でゴルフなどを楽しむ自由も与えられていたという。
 彼らが後に移された徳島県の板東俘虜収容所で、
 わが国初のベートーベンの「第九」の演奏会を行ったことはつとに知られている。
 日本人の優しさに感激し、
 戦後も本国送還を断って日本残留を決めたドイツ兵は、およそ170人を数えた。
 サッカー自体は日本には1873(明治6)年に英国海軍の将校により
 伝えられたとされるが、いずれにしても、邂逅した新しい異国の競技を、
 積極的に楽しもうとする自由闊達な気風が丸亀にもあったのだろう。
 それだけではない。
 「これはただの写真ではなく、当時売られていた絵はがきなんです」と
 大北さんは言う。
 おしとやかなはず(?)の大正の大和撫子たちが、お転婆ぶりを隠さずに、
 審判役の先生もそっちのけに、前のめりに笑顔でゴールを目指している。
 まるで彼女たちの上げる大きな歓声までが聞こえてきそうだが、
 こんな楽しそうな風景を、
 当時の丸亀の人たちは胸を張って世に紹介したのだろう。
 その「日本女子サッカー発祥の地」で、5月18日から
 日本女子代表「なでしこジャパン」が、6月開幕のカナダ女子W杯に向け、
 いよいよ直前合宿をスタートさせる。
 日本の連覇の懸かる注目のW杯。
 始動の地が丸亀になったのも一つの運命なのかも知れない。
 (2015年5月17日『サンスポ』)

なぜ丸亀だったのかについては、ドイツ人の俘虜収容所と関わりが?
写真として残っていなくても、東京の女学校とかでは早い例がないのだろうか。
当時、絵はがきというメディアの意味はどうだったか。
写真が撮られたのは大正13(1924)年、記録が残っているのは明治39(1906)年。
そういえば、女子バスケを導入したのは、成瀬仁蔵の梅花女学校とか。
2017
09.18

「大正時代のサッカー女子」

Category: 女子教育
ネットの波に乗っていて、「大正時代のサッカー女子」の記事に出会いました。
女子サッカーの発祥が丸亀の女学校である、とは知られた話ですが、
この記事によれば、2011年に発見された絵はがきや領収書が根拠なのか。

 香川)大正時代のサッカー女子 丸亀高校演劇部が上演へ

 日本の女子サッカー発祥の地とされる丸亀高校で、
 演劇部の生徒たちが大正時代のサッカー女子の姿を描いた
 「フートボールの時間」を上演する。
 部員たちは「当時、立場の弱かった女性が、
 時代にあらがうようにボールを追った心情に迫りたい」と話している。
 1920(大正9)年の旧丸亀高等女学校(現丸亀高校)が舞台。
 女学生の間に広まりつつあったフートボールに理解を示す
 教師や女学生がいる一方、「女のくせに」と批判する大人たちもいる。
 複雑な人間関係のなか、ルールを教えてくれた教師が退職。
 サッカーを愛した女学生も見合い結婚をして退学する、といったストーリー。
 脚本を書いた演劇部顧問の豊嶋了子教諭は
 「当時の女性は、本音では思い切りボールを蹴って、
 もっとおおらかに生きたかったのでは。
 同年代の部員たちだから、そんな気持ちをうまく表現できる」と期待している。
 16人の部員は舞台衣装を手作りし、はかまは通販で購入。
 6月半ばから稽古を始めた。
 最近、丸高で見つかった当時の女学生の作文のなかに
 「フートボール」の言葉があり、タイトルが決まった。
 結婚する女学生の母親を演じる部長の長井ゆいさん(16)は
 「大正時代を想像しながらの役作りに苦労しました。
 女学生たちのもどかしさを感じてもらえたらうれしい」と話している。
 丸高では2011年、はかま姿でサッカーをする女学生の姿を撮影した
 大正時代の絵はがきやボール購入代の領収書が見つかり、
 「日本の女子サッカー発祥の地」との説が有力になっている。
 劇は文化祭「斯文祭(しぶんさい)」の2日目、10日午前11時50分から、
 第2体育館で上演される。
 (2017年9月7日「朝日新聞」電子版)

女子高生たちによる劇が、結局は「見合い結婚をして退学する」のは象徴的。
サッカーが「時代」への抵抗であったのだとすれば、尚更に。

余談
テレビというメディアで勝負した作品なら、それを最後まで貫いてほしい派。
2017
07.26

最愛の弟の死

Category: 女子教育
井上秀は、最愛の弟の死を経験して、より勉強に励むようになりました。
弟、井上順太郎は、チフスにかかり、明治25(1892)年8月、15歳で死去します。
京都から帰省するのも、この弟に会いたいからでした。

 弟はもう帰つて来ない。
 両親の悲しみ、寂しさを見るにつけ、私は自分にいいました。
 これからもつともつと努力して弟の分も荷いましよう、と。
 当時私の生涯に大変化が起りました。
 従来私は思うままに学問の道に専念し、
 世のため人のため尽し得られる人になるため、
 東京に遊学しようと思うて居りましたところ、偶然弟が死亡した為に、
 私が田舎の祖先譲りの家の相続人となりました。
 適当の養子をえらんで家を立てるということとなりました。
 すると方々から人が来て、
 この家の息子さんはいい出来だからどうかと縁談を持込んでくるのでした。
 父も母も、開けた考えをもつていてくれまして、
 当人がまだその気になつていませんからと、
 いくつかの申込をことわつてくれる様子でした。
 どこまでも、当人の気持が第一、養子の場合とりわけそうだと、
 父が養子であつた経験からでもありましようか、大変慎重にしてくれました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

東京に行って学びたい、向学心の強い井上秀ならば、そう望むのは自然でしょう。
弟の死という不測の事態が起こらなければ、実現していたかもしれません。
明治女学校に進学したいと考え、当時の河原校長にまで相談して、
東京女子高等師範学校に入るための準備をしていた、そういう時期でした。
最愛の弟を失い、遊学の希望もかなわなくなり、結婚を強いられることになった、
その井上秀に、新たな希望の光をもたらしたのも、広岡浅子や亀子でした。

余談1
BSプレミアム「今夜はとことん! ピアノと日本人」、面白かったです。
シーボルトがはじめて日本に持ち込んだピアノが、萩にあるとは知らなかった。
明治時代、音楽取調掛の初代長官の井沢修二が取り上げられたものの、
あれ、日本初の女子留学生だった、瓜生(永井)繁子は紹介されなくて残念。
帰国した繁子は、音楽取調掛で、井沢修二のもとでピアノを教えた。
実技試験の記録、幸田延の名前が出ていましたが、彼女も繁子の教え子。
ピアノで身を立てた、繁子はその初期の女性なのに。

余談2
「ひよっこ」、みね子が島谷に「ありがとう」と言う機会が訪れるのか、どうか。
早苗が言うように、たかが恋の1つが終わったくらいで、人生に決着はつかない。
いつかハッピーエンドになれば、それでいいのだ(ドラマはまだ終わらないし)。
退職金は当然、嫁入り道具を鈴子が用意するのは、高子に身寄りがないから?
昭和42(1967)年4月、3月には島谷は大学を卒業したはずが描かれない。
このあまりにあっさりとした別れは、今後の再登場を予感させるものなのか。
あかね荘にお引越しの愛子さん、住人たちとも富さんとも親しく。
独身女性が1人で生きてきた愛子さん、対人スキルが高い。
川本世津子、食べるために働いてきた、女優さんでも、みね子や皆と同じ。
みね子の方言にやはり反応しているのは、実が関わる?
2017
07.21

井上秀、母校の発展を祈る

Category: 女子教育
井上秀、母校の創立60周年の講演ですから、最後は母校の話に戻ります。
母校、京都府立第一高等女学校で教えられた「良妻賢母の意識」が、
その後の生き方に影響していることを述べ、感謝します。

 此學校で敎へられた良妻賢母の意識は何處に行つても働いて居つて
 その範囲外には出ないのであります。
 今日私の爲しつゝある凡ての事は良妻賢母論に根底を有し、
 唯之を擴大して今日の社會、國家、
 世界に及ぼさうといふに過ぎないのであります。
 此等は皆此學校に學び、
 先生方から多大の御指導をお受けしたお蔭であります。
 私が若しこの學校に入らなかつたならばもつと變挺な者でしたせう。
 もし京都の優しい穏健質實な感化を受けなかつたら
 きつと粗暴な者になつてゐた事だらうと思ひます。
 其外私の在學中暗に私を指導された先輩がありました。
 私の入學の時に卒業され後學校に職を奉じられて居りましたが、
 私はその人より非常に精神的な感化を受けました。
 かゝる先輩の感化が誠によい結果を齎らしました事も感謝して居ります。
 要するに私は此學校の敎育に對し殊に精神的感化に對して感謝致します。
 若し此學校の感化、敎育が私に與へられなかつたならば、
 餘程極端な人間であつたらうと考へるのであります。
 此の優美なる自然、古き歴史を有する校風、慈愛ある恩師先輩方に對し
 深き感謝と敬意を捧げて將來益々母校の發展され
 又諸先生皆様達の御健康を祈り、
 幾久しく此學校にお盡しあらん事を切望する次第であります。
 長く御靜聽頂きました事を厚く御禮申上げます。
 (春錦會・鴨沂會『創立六十周年記念誌(昭和7(1932)年)

井上秀の講演は、母校への感謝、先生や先輩に対する感謝で閉じられました。
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