「先生に時惠という一人の侍女があった」

山本覚馬の妻、時栄は、京都を出て大阪、神戸、東京へと流転しました。
信仰を捨てておらず、教会に関わる縁故を頼ったのかもしれません。
離縁の理由はともかく、山本覚馬、佐久や八重と何かがあったとするならば、
故郷の会津を追われた彼らが、時栄を故郷から追いやった形になる。

時栄が、維新前、幽閉された山本覚馬の世話をしていたことは、
青山霞村『山本覚馬伝』(同志社、1928年)にも記され、知られた事実だったはず。

 先生に時惠という一人の侍女があった。
 薩摩屋敷へ幽閉の身となった時も、
 随いて来て不自由な先生の世話がしたいと頼み、
 折々尋ねて来ては衣類の洗濯などしていたが、
 釈放後も先生につかえ、後正妻となった。
 かつて先生を危難からかくまい、
 木戸孝允の妻松女と並び称せられた女で、
 常に先生の坐臥進退をたすけた。
 府会へ出席の時も彼女が付添っていたのである。
 正妻になってのち、ある理由で離縁になった。
 この時惠との間に侍女久枝が生まれた。
 この次女が徳富蘆花の『黒い眼と茶色の目』の娘である。
 久枝嬢にも婿にすべき少年があった。
 同志社へ通っていたこの美少年からして
 久枝自身の関知しない悲劇が先生の家庭に起った。
 娘二人とも養子婿をとる縁がなかったのである。

先妻のうらを「正妻」とし、時栄を「侍女」としているのが気になります。
入籍していたことはまちがいありませんが、世間は時栄を「侍女」と見たのか。
その一方で、献身的な時栄を木戸松子と並び称せられた、とします。
幽閉された薩摩藩邸に押しかけた、といった書きぶりでもある。
ちなみに、「正妻」のうらに関しては、次のようにあります。

 先生が会津におった時、正妻との間に長女みね子が生まれた。
 しかし京都に住居を移してから、つづいて維新の大変革にあったとき、
 正妻は遠く隔てた京都へ移住することを好まないといって、
 離婚を求めたので、離別した。
 その長女は会津戦争のあと、母堂が京都へ移り住んだ時、
 妹の八重子とともに来た。
 養子婿を迎えるつもりで、その候補者もすでに来ていたが、
 出版のことについて面白くない行為があったから破約した。
 のちその女は横井時雄に嫁した。
 すなわち横井氏の先妻である。
 横井氏と婚約の時了解があった通りに、
 横井氏の長子山本平馬氏が先生の後を嗣いでいる。
 (青山霞村『山本覚馬伝』宮帯出版社、2013年)

うらがなぜ京都に来なかったのか、遠い土地に移ることを拒んだから?
また、そのうらが生んだ長女のみねには、婿養子の候補がいた。
ところが、「出版のことについて面白くない行為」のために破談になった、とある。
横井時雄は婿入りするわけにいかなかったのでしょう、結婚するとき、
生まれた男の子を山本家の養子に入れる、という約束がなされたいたようです。
山本平馬は、久栄の告別式の喪主でもありました。

余談
「監獄のお姫さま」、女子刑務所が安全な場所、という発想がすごい。
高い塀で囲まれた安全なお城で、お母さんは刑務作業しながら(仕事を続ける)、
仕事中は仲間(保育所、シッター)が赤ちゃんを預かってくれる。
年齢も境遇も(罪も)ばらばらな女たちは、助け合いながら子育てに協力し、
母性を爆発させて、自分の子のように赤ちゃんに愛情を注ぐ。
おお、確かに理想の子育て環境じゃないか、と宮藤官九郎に脱帽。
そこに足りないのが父親で、それが悪党だという展開。

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小田時栄のこと

山本覚馬の後妻、時栄は、徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」においては、
「鴨東に撥をとつて媚を賣つて居た女の一人」の時代、として描かれています。
眼と足が不自由な山下勝馬=山本覚馬を献身的に支えたと語られつつ、
この記述のために、祇園の芸者であった、という誤解は長く解けませんでした。
時栄がいったい、どういう素性の女であったか、に関しては、
同志社中学出身の丸本志郎の執念の調査によって、明らかになるのです。
小説が出版されたのは、大正3(1914)年12月のこと。
昭和61(1986)年12月25日「読売新聞」(夕刊)に、大きく記事が掲載されました。

 蘆花の誤解 「黒い眼と茶色の目」 100年ぶり修正

「100年」ぶりとは、出版からではなくて、徳冨蘆花と壽代=久栄の出会いから?
丸本志郎は、その後、『山本覚馬の妻と孫』(まるもと、1992年)を刊行。
きっかけは、昭和61(1986)年11月11日、小田貞子という老婦人から電話があり、
彼女は、時栄の大叔母にあたり、小田家の除籍謄本を見せてもらったこと。
時栄が、山本覚馬の正式な妻として入籍されていたこともわかりました。

 謄本によると、時栄さんは隼人氏の四女で、嘉永六年五月七日生れとあり。
 明治十九年二月十二日、上京区第三十一組下丸屋町
 山本覚馬妻離縁復帰とあり。
 覚馬が六十五年の生涯を終えた二十五年十二月二十八日の翌年、
 山本家に残してきた久栄が父の後を追うように短い人生を閉じ、
 父の墓の傍に埋葬された。
 時栄さんは二十六年七月二十日の前日の十九日、堺市旅籠町に移り、
 二十八年、神戸市山本通五丁目に移っていられる。
 京都を去られた、十九日は久栄の没した日とされる二十日の一日前で
 一日の差はどう解釈するかは後にしても時栄さんには
 山本家の様子は伝わっていたとしか考えられない。
 彼女がどんな気持でこの時期に生まれ故郷の京都を去って行ったかを、
 察すると、一掬の涙を禁じ得ないものがあるのではないか。

時栄の旧姓は小田、父は小田隼人であり、名前は「時榮」。
嘉永6(1853)年5月7日生まれ、山本覚馬は文政11(1828)年の誕生であるから、
夫より25歳も若い妻であった、ということになります。
ちなみに、新島八重は弘化2(1845)年に生まれています。
時栄の夫であった山本覚馬は、明治25(1892)年12月28日に死去しますが、
その次女で、時栄が生んだ久栄は、翌年の7月20日に亡くなります。
そして、明治19(1886)年、33歳ですでに離縁していた時栄は、
久栄の死のまさに前日の19日に、京都から神戸に移っている、というのです。
なぜ前日だったのか、久栄の死と母、時栄の転居は関わるのか。

 小田家は代々丹波の郷士で、京に出て、御所に出仕した侍であったようで、
 その邸の門は六軒町通に面し、奥は七本松通近くまであったようで、
 現在の住居もその地続きである。
 覚馬は戊辰の役の時、この邸の中に、匿われていたが、
 後捕えられて薩摩藩邸に幽閉された。
 その後も眼の不自由な覚馬のため、時栄さんは、許しを得て、
 薩摩藩邸に通い、身の廻りの世話をして、
 釈放後も続けて覚馬に仕えて、後正妻になられたのである。

つまり、時栄は、維新前から山本覚馬を知り、世話をしていたわけです。
山本覚馬は小田家と懇意で、幽閉された薩摩藩邸にまで出向いて面倒を見た。
眼を患った山本覚馬を、そのはじめから支えていたのは、時栄でした。
丸本志郎は、時栄はそもそも「妾とも婢とも分らぬ女性」であって、
最初は山本家に「小間使」として仕え、後に妻の座についた、と考えています。
また、小田家は「代々丹波の郷士」で、「御所に出仕した侍」であった。
広大な土地を所有しており、昭和になってもその「地続き」に住んでいたとか。

 時栄の兄勝太郎は剣をよくし、守護職松平家の関係からか、
 近藤勇や、新門辰五郎等とかなりの交友関係があったようであるし、
 その妻は所司代与力の子であり、覚馬を一時邸に保護し、
 新門辰五郎の住居跡を、山本覚馬の邸に世話した情況は十分判断できる。

時栄の兄、小田勝太郎に、近藤勇や新門辰五郎と交友関係があったとは、
いったいどのような資料から言えることなのか、詳らかではないものの、
そこから、佐久や八重が身を寄せた山本邸の土地の世話をしたとは、なるほど。

 小田貞子さんの話によると蘆花の『黒い眼と茶色の目』が
 大正のはじめ世にでた時、そこに出る時栄さんに、
 親類一同くやしい思いをささ(ママ)れたようである。
 明治二十八年二月九日、堺市から
 神戸市山本通五丁目七十七番邸に転籍されて後の時栄の消息は
 京都の小田家には入っていないようだ。
 大正三年、蘆花が『黒い眼と茶色の目』を出版したのは、
 それから三十年も経った後のことである。
 (丸本志郎『山本覚馬の妻と孫』まるもと、1992年)

明治28(1895)年に山本通に移ってから後は、時栄は、実家とも縁を切った。
兄の勝太郎の子、虎次郎を養子にもらい、アメリカに渡った、とも伝えられるとか。
なぜ神戸だったのか、もちろん京都からほど近い都会でありつつ、
神戸は、アメリカンボードのつながりもあり、新島襄などを通して縁故があったか。
生前の新島襄が八重と静養したという、和楽園の借家は、
神戸英和女学校の裏手、諏訪山にあり、山下通と近いはずです。
さらに、本井康博『八重の桜・襄の梅』(思文閣出版、2013年)には、
大正15(1926)年の時点では、時栄は東京に住んでいた、との情報あり。
同志社の最初の入学生の一人である、本間重慶の証言に、
「今は小田時恵女史、即ち山本(覚馬)先生の未亡人」が、
「今は、基督教の信者にて、前、永く山本氏と同棲せられ、
日夜、夫の不自由を保護せられ居られた」とし、
東京(日本橋区新葭東萬河岸一四)に住んでいる、とあるといいます。
具体的なこの住所は、何を意味しているのでしょう。
これは、本間重慶「創立当初の事情、問合わせ先其の他に就て」
(『同志社校友同窓会報』1926年11月15日)に載っている、ということのよう。
大正15(1926)年、嘉永6(1853)年生まれの時栄は、73歳です。
小田家で言い伝えられていた、アメリカに渡り、帰国して後のことなのか。
いずれにせよ、京都を出た後、堺から神戸、東京へと流転していたとわかります。
明治19(1886)年の離縁から40年、時栄は信仰を捨てずにいたのでした。
丸本志郎は、山本覚馬と同時に受洗したことが転機であり、
正妻として扱われたことに、佐久や八重が反発したのではないか、とします。
それを踏まえれば、苦労をしても、時栄が信仰を持ち続けたのは、
宗教がかつての夫と自身を結びつけていたから、とも思えてしまいます。

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時代=時栄の献身

徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」には、山本家のスキャンダルが記されています。
山本覚馬の後妻、つまり、久栄の母である時栄の不義です。
小説には、山本時栄について、その献身ぶりが書かれています。

 お稲さんの實母は、其時最早居なかつた。
 起居に不自由な山下さんの介抱は、壽代さんの生母時代さんがして居た。
 時代さんはもと鴨東に撥をとつて媚を賣つて居た女の一人であつた。
 幕末から明治にかけて、
 政治運動の中心であつた京都に續出した悲劇喜劇に、
 地方での名士に絡むで京美人はさまざまの色彩を添へた。
 其ある者は、契つた男の立身につれて眼ざましい光を放つた。
 眼こそ潰れたれ、新政府に時めく薩長土肥の出でこそなけれ、
 人々の尊敬も淺からぬ名士の山下さんを、
 時代さんは一心にかしづいて、二十一の年壽代さんを生むだ。
 壽代さんが生れた翌年山下さんは跛になつた。
 時代さんはますます實意を見せて、寢起きも不自由の夫によく仕へた。
 (『徳冨蘆花集 第11巻』日本図書センター、1999年)

お稲さん=みねの実母、うらは、京都にはやって来ませんでした。
その事情も明らかではありませんが、時栄の存在を知っての決断だったのか。
書かれていないということは、徳冨蘆花も知らなかったのでしょう。
眼も足も不自由な山本覚馬に、若い時栄はよく尽くしたのです。
時代=時栄は、「鴨東に撥をとつて媚を賣つて居た女の一人」であったか。
実は、時栄は芸者ではなかった、という実証も出ています。
時栄は、芸者ではなくて、京都の地主の娘である、というのです。
これは、徳冨蘆花が誤解していたのか、あえてミスリードしている設定なのか。
この記述のために、時栄は長い間、人々に誤解されたままでした。

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協志社=同志社の将来を託された結婚

徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」において、もっとも注目されてきたのは、
山下家=山本家の家族関係の描写であったろう、と思います。
新島八重の兄、山本覚馬は、作品の中では「山下勝馬」として語られています。
お稲さん=みね、壽代=久栄の父です。

 お稲さん壽代さんの實父山下勝馬さんは、今年六十歳、
 两眼盲ひ脚痿えた不自由な體を河原町の暗い奥の間に寢たり起きたりして、
 名士と呼ばれて居た。
 會津の藩士、佐久間象山の砲術の門人、大砲頭取となつて
 元治元年七月長州兵が禁闕に迫つたのを、蛤御門に打破つた當年の勇士。
 慶應の末年眼病で失明し、維新の際は一方會藩の士を諭し 
 一方朝廷に會藩の爲辨疏せんとして、薩兵に捕へられ、
 一時入獄の身となつたが、獄中意見書を草して岩倉具視に識られ、
 又雄さんの阿父の沼南先生が参與の職で退朝の途を寺町で
 刺客の難に果敢(はか)なくなつた明治二年に、
 新政府に抜擢されて京都府の顧問になつた。
 明治八年には新歸朝の飯島先生と意氣投合して共に協志社を興し、
 脇差をさしたり、薙刀を提げたり、女人隊の活躍した會津落城に
 『明日よりはいづくの誰か眺むらん馴れにし御城にのこる月影』
 と云ふ歌を城壁に題して烈婦の名をとつた
 妹のお多惠さんを先生に妻あはせ、
 其後は京都府會議長として、府知事の顧問、
 當代の山本勘助と云はれて、智嚢の名が高かつた。

山本覚馬が京都府の顧問になったのは、又雄=横井(伊勢)時雄の父、
沼南先生=横井小楠が刺客に襲われた、その明治2(1869)年だった符合を語り、
その妹のお多惠さん=(新島)八重のことも紹介しています。
「明日よりは……」が八重の詠である、とはじめて明かすのが、この作品。
この語りによって、東海散士『佳人之奇遇』の「烈婦」が八重であるとわかります。
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-2797.html

 最早其頃は山下さんの懇望、飯島先生夫妻の肝煎で、
 名家の子と名家の女の間に婚約は定まつて居て、敬二は
 まだ協志社の聖書級(バイブルクラス)に居た又雄さんが諸友を催ほして
 山下家に話聞きに往く毎(たび)に皆にからかはれて居た事を覺えて居る。
 (『徳冨蘆花集 第11巻』日本図書センター、1999年)

又雄=時雄とお稲さん=みねの結婚は、飯島先生=新島襄と八重の「肝煎」とか。
協志社=同志社の将来を託すべく、新島襄は横井時雄に期待していた。
その妻が、ともに同志社を興した山本覚馬の娘ならば、理想的だったわけです。
いわば、新島襄と(山本覚馬の妹である)八重の結婚の再現でした。

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お稲さん=みね、敬二=徳冨蘆花に伝道の道をすすめる

徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」には、徳冨蘆花と横井(山本)みねの関係性も。
女ばかりの複雑な家庭の中で、みねも苦労したようです。

 かあやんやおいよ婆さんと朝夕話す敬二も、お稲さんには自ら遠かつた。
 唯一度敬二が最早蚊帳に入つて、蚊帳外のかあやんと話して居ると、
 二階から湯を飲みに下りて來たお稲さんが何か言ひかけて、
 其まゝかあやんを傍聽者に蚊帳の内と外とで
 夜深まで話し込むだことがあつた。
 敬二は傳道師牧師の生涯よりも自身は筆で身を立てたい、と云ふた。
 お稲さんは、傳道師をしつゝ傍筆を執れぬことはない、
 目的を變へるはよくない、と云ふた。
 敬二自身は元來傳道師になる志望はなかつたが、
 うかうかして居る間にあたりが彼を傳道志願としてしまふたのである。
 お稲さんも矢張さう思うて居た。
 
明治元(1868)年生まれの敬二=徳冨蘆花は、自分で道を選ぼうとします。
同志社復学を前に、もはや「筆で身を立てたい」と考えていながら、
みねを含む周囲は、最初の希望通りに「傳道師」の道に進むことを望んだとか。
思い出すのは、大河ドラマ「八重の桜」で描かれた徳冨蘆花です。
「食べるために小説を書くんじゃなか、小説ば書くために食べると!」
明治生まれの青年ならではの彷徨し、悩める青年として、描かれていました。

 お稲さんは更に敬二が先協志社に居た頃の事から、
 お稲さんとお美枝さんと敬二の姉と三人女學校に居た頃の事を話して、
 わたしはお美枝さんよりお勝さんが好きと、
 ぶつきら棒のお稲さんは敬二の姉の名を云つた。
 (『徳冨蘆花集 第11巻』日本図書センター、1999年)

協志社=同志社の女学校で、お稲さん=みねは、夫の横井時雄の妹であり、
今はみねの義妹となった、お美枝さん=横井(海老名)みや子や、
敬二=徳冨蘆花の姉である、お勝さん=(湯浅)初子とともに学んでいました。
生徒数のまだ少ない開学当初のこと、みなが親しい仲で、
みねは、徳富(湯浅)初子と仲がよかったということでしょうか。

余談
「花子とアン」、お金のために結婚する蓮子は、わざと嫌われて、花子と別れる。
富山先生の「掴みそこねた幸せは取り戻せない」が、やはり響く。
2度も「掴みそこねた幸せ」を、蓮子はでも、ついに取り戻すことになる。
甲府の家に隠れよう、という花子の必死の提案も、後に実行される。
こちらがドラマチックな展開なぶん、「わろてんか」がよけいに薄味に感じる。

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