協志社=同志社の礼拝堂で葬儀

徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」、お稲=みねの葬儀はキリスト教式でした。

 親類と云ふにあまり着物が見つともないと云ふて、
 叔母さんは江見君と敬二に又雄さんの着古しの紋付羽織を出してくれた。
 袴は一つしかなかつたので、敬二は誰やらの注意で、
 去秋 Senseless being と扇動演説に罵つた
 四角四面の林田さん宅に往つて借りて來た。
 左の肩の所が少しいたむでぼやけた絲目を見せた
 薄茶色一樂の三鱗の紋付羽織を被て、やゝくたびれた嘉仙平の袴をはき、
 草履のやうに禿びた薩摩下駄をはいて、
 出棺前の玄關先に敬二が立つて居ると、
 黄八丈の壽代さんがお節ちやんを抱いて來て、眼早く敬二を見つけ、
 『敬さんに抱かれてお出』
 と云つて、お節ちやんを手渡した。
 受取りながら唯見ると、伊豫出の一年生町田の元さんが
 少し仰向いた團子鼻をひくひくさせてくりくりした眼で笑つて見て居る。
 敬二はてれ隠しにお節ちやんを抱いて往つて、
 邦語神學科の下山さんの天神髯を引張らせて居た。
 壽代さんの影がまたちらりとした。
 Mrs 誰だ、と下山さんがきくと、
 『Mrs,Tokuno』
 と元さんはゆるゆるとした口調で云ふた。
 敬二はお節ちやんを抱いて玄關に上つた。

「伊豫出の一年生町田の元さん」とは、増田雅太郎でしょう。
増田雅太郎は、明治21(1888)年6月、同志社英学校普通科を卒業します。

 正午やゝ過ぎて、荒神口の家を永久に出たお稲さんの棺は、
 昔其處に處女時代を其人の過した女學校の前を通つて、
 彰光館の鐘のつゞけざまに鳴る中を協志社の禮拜堂に入つた。
 又雄さんは協志社社員なので、
 協志社も半日の休業をして弔意を表するのであつた。
 禮拜堂は一ぱいになつて居た。
 黑い柩は高壇の下に安置され、花環と花の十字架が其上に置かれ、
 飯島先生の筆で能勢稲子之墓と書いた墓標は
 白木綿で巻かれたまゝ其横に立てかけられた。
 壇上にはフロツクコートの飯島先生がかけて居る。
 能勢家、山下家、飯島家、黑田家の家族親族は
 中央腰掛の第一列に腰かけて居る。
 敬二はかあやんと並んで其背(うしろ)に腰かけた。

能勢稲子=横井(伊勢)みね子は、明治20(1887)年1月27日(26日とも)に死去。
葬儀は翌日、同志社の礼拝堂で営まれました。
中央の一番目に座ったのは、能勢家=横井(伊勢)家、山下家=山本家、
飯島家=新島家、そして、黑田家とは山本覚馬の妹、新島八重の姉の窪田家。
その後ろに、敬二=徳冨蘆花、かあやん=寿加が座っています。

 前列に腰かけて居る壽代さんが突(つ)と立上つて席をはなれた。
 敬二ははつと息がつまるやうに覺えた。
 何をするかと思へば、柩の黑布の皺を直して、澄して席に復へるのであつた。
 やがて脇正面の職員出入口が開いて、
 胡麻鹽髯の人が女に負られて來て、前列の席に着いた。
 お稲さんの阿父(おとうさん)の山下さんであつた。
 やがて堂内は森(しん)となつた。
 前列の席をはなれて、人込みの中につひ背に居る加壽を尋ねるお節ちやんの
 『かあやん、かあやん』と云ふ心細い聲が堂内に迷ふた。
 (『徳冨蘆花集 第11巻』日本図書センター、1999年)

礼拝堂でも、壽代=久栄の行動は突拍子がなく、はらはらさせたよう。
後妻の時代=時栄と離別した山下勝馬=山本覚馬は、長女をも失いました。
「女に負はれて來て」とありますが、それは誰のことでしょうか。
お稲=みねの実母の実家にも訃報は伝わったはずですが、ここには見えません。
幼いお節ちゃん=悦子の無邪気な様子が、悲しみを誘います。

余談
「わろてんか」、うちはなんでこうなんやろ、と嘆いていたリリコが、優しくなった。
ほんの少しだけれど、それは、相方という家族ができたからだろうか。
楓さん、これまでもっと寄席に通っている場面があればよかったのに。

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壽代=久栄は悲しそうに見えなかった

徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」、お稲=みねの柩を見つめる敬二=徳冨蘆花に、
壽代=久栄の声が、「不快」に聞こえたとあります。

 勝手の方で、
 『わたし今夜は寢ンと居るわ』
 と云ふ壽代さんの上ずつた調子が、敬二の耳に不快に響いた。
 明け方から敬二は暫く眠つた。
 おいよ婆さんの聲として、
 『皆來てござるばい。往つて御覧。敬二さんも、富岡さんも、
 それから留田さんも、大勢來てござる』
 襖があいてちよろちよろと走り寄つたお節ちやんが、
 蒲團の下から眼をあいた敬二の顏を覗いて、嬉々と笑ひながら往つて了ふた。
 敬二が寢がけに片袖のちぎれかけた古い紀州ネルのシヤツの繕ひを
 かあやんに賴むで置くと、
 思ひがけなく壽代さんが縫ふて枕もとに置いて往つた。
 壽代さんは悲しさうにも見えなかつた。
 座敷前の小庭で、町田君等が檜葉や南天や水仙で花環をこさへて居る所に
 ちよいちよい姿を見せては、ニキビ顏に鋼鐵緣の眼鏡をかけた町田君に
 輕い戯談を云はれたりして居た。
 
壽代=久栄の声が「不快」に聞こえたのは、悲しそうではなかったからか。
母の死の意味がまだわからない、幼いお節ちゃん=悦子の無邪気さが愛らしい。

 十時頃には出棺の用意も整ふた。
 又雄さんはじめ一同別れをお稲さんに告げた。
 敬二も棺の側に立寄つて最後の告別をした。
 二十八歳のお稲さんは、水仙の花に埋つて、
 眼を閉ぢ、兩掌を胸に組むで居た。
 病苦の程も思はれて、肉は落ち、頬骨隆く秀で、
 大きな眼は凹み、太い前齒を少し露はして居た。
 然し蒼白い其顏に不安はなかつた。
 美しい服從が面を掩ふて居た。
 強いお稲さんは死んで美しく見えた。
 協志社關係の西洋婦人が幾人かかはるがはる遺骸に禮して
 「beautiful」と小聲に咡(さゝや)き合ふた。
 (『徳冨蘆花集 第11巻』日本図書センター、1999年)

横井(山本)みねは、文久2(1862)年5月20日生まれとか、若い死でした。
出産から7日後、明治20(1887)年1月27日(26日とも)に死去。
葬儀は翌日、同志社の礼拝堂で営まれました。
クリスチャンとして死んだ彼女は、病みやつれてはいても美しかった。
「美しい服從」とは神に対する服従か、戊辰戦争を生き抜いた激動の人生でした。

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レビツト嬢の禁酒演説

徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」、壽代=久栄も異母姉の急死に涙しています。
敬二=徳冨蘆花は、在りし日のお稲=みねの姿を思い出しました。
能勢家=横井(伊勢)家に世話になって久しく、やはり懐かしく慕わしいのでした。

 家族の女達の中に壽代さんの時々手巾を眼にあてる姿も見えた。
 敬二等數人は交代に柩の前に通夜をした。
 昨年の夏敬二が京都に來るとやがて、京都倶樂部で矢部さんの通辯で 
 米國基督教婦人矯風會のレビツト嬢の禁酒演説があつた時、
 汗が流るゝ演説者の背から團扇で始終扇いで居たお稲さんの白い單衣姿や、
 二年前伊豫の二階で、お節ちやんを抱いて、
   When He cometh, when He coneth.
   To make up His jewels.
 と歌ひながら二階の縁をトントンと往つたり來たりした
 お稲さんの聲と足音としきりに思ひ出されて、
 敬二は茫然と白い柩を眺めて居た。
 (『徳冨蘆花集 第11巻』日本図書センター、1999年)

気になるのは、「昨年の夏」、つまり、明治19(1886)年の夏に、「京都倶樂部」で、
「米國基督教婦人矯風會のレビツト嬢の禁酒演説」があった、という点。
そこで、お稲=みねは、演説する「レビツト嬢」のために団扇で扇いであげたとか。
日本基督教婦人矯風会は、まさにその明治19(1886)年に、
まずは東京婦人矯風会として発足、初代会頭は矢嶋楫子でした。
発起人には、海老名みや、小崎千代といった同志社に関わる名前も見える。
矢嶋楫子は、横井時雄にとっては叔母にあたり、その縁で世話をしたのでしょうか。
「レビツト嬢」とは、世界婦人矯風会の第1回特派員のミセス・レビット。
『日本キリスト教婦人矯風会百年史』(ドメス出版、1986年)の年表によれば、
ミセス・レビットは「東京、神戸、岡山、長崎で矯風演説」とありますが、
お稲=みねも演説を聞いたらしいのは、神戸のことか、それとも京都でも遊説を?

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亡骸の番人

徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」、お稲=みねの急死に、
ずっと看病をしていた叔母、飯島の夫人=新島八重もショックを受けました。

 眼を泣き腫らした飯島の夫人が通りざまに敬二を見かへり、
 『敬さん、お稲がね、敬さん敬さんつて呼びましたよ』
 『さうでしたか、私はまた一月も逢ひませんでした』
 愚な返事の外に敬二は言ふすべを知らなかつた。
 日が暮るゝと、江見君が宰領で
 病院から窃と御苑を通つてお稲さんの柩を舁いて來た。
 寒冷紗で掩ふた柩の前に、又雄さんをはじめ一同集つて祈禱讃美をした。
 實子が無いので本當の女の様にして居た姪に死なれて、
 其亡骸の番人でゝもあるやうに
 柩を背にして正面に一人坐つた飯島の夫人は、
 脂ぎつた赤い顏に流るゝ涙を拭きもせず、
 やけになつた様な大聲に讃美歌を歌ふた。
 家族の女達の中に壽代さんの時々手巾を眼にあてる姿も見えた。
 (『徳冨蘆花集 第11巻』日本図書センター、1999年)

息を引き取る前のお稲=みねが「敬さん」と呼ぶほどに、親しく感じていたのか。
それなのに、敬二=徳冨蘆花は一ケ月も会っていなかったし、
又雄=横井(伊勢)時雄に「弔詞」も伝えられていないという、真の悪さ。
江見=海老名弾正の「宰領」で、お稲=みねの柩が戻ってくる。
集まった家族たちの中には、異母妹の壽代=久栄も当然いました。
飯島の夫人=新島八重の様子には、なんとなく悪意が感じられてしまいます。
看病疲れで身なりに気をかけていないのでしょうが、「脂ぎつた赤い顏」、
讃美歌を「やけになつた様な大聲」で歌う、というだけでなく、
「其亡骸の番人でゝもあるやうに柩を背にして正面に一人坐つた」とは、
一族の代表であろうとするような、傍若無人さを表しているかのようでしょう。
この小説においては、新島八重は憎まれ役です。

余談
「西郷どん」、斉彬公は、いつも手紙をくれる西郷吉之助を捜そうとして相撲を?
自分が藩主だからといって手加減をする男かどうか、試したのかしら?
そして、うっかり藩主に勝ってしまうような西郷に、
島津家のために生き、胸の内を偽らなければならない篤姫が惹かれるのか。

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「會津に住むお稲さんの實母の實家」

徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」、お稲=みねの死は、
戊辰戦争を生き抜き、京都に出てきた山下家=山本家にとって、再びの悲劇。

 病院から敬二は荒神口の家に往つた。
 協志社からも追々聞きつけて、能勢家縁故の學生が續々やつて來た。
 病院からも人々が歸つて來た。
 孝明天皇二十一年祭御執行の爲、
 恰も天皇陛下が京都御所に行幸中なので、
 お稲さんの遺骸は夜に入つて病院から窃と連れて來ることにした。
 奥の間では高森さん佐藤さん沈田さん林田さん等の同窓が、
 讃美歌を歌つたり話したりして又雄さんを慰めて居る。
 勝手の報では、會津に住むお稲さんの實母の實家や東京の親戚やら
 伊豫の敎會やらに電報をかけるので、『オイネサンゴビヤウキ』では
 『お稲さん御病氣』と讀まるゝからいけぬと電文の研究をして、
 邦語神學の富岡君留田君四年生の町田君などががやがや言つて居る。
 其處へ奥から又雄さんが出て來て、
 いきなり敬二に此處ゝゝに知らせの手紙を書いてくれと云ふ。
 又雄さんには東京歸り後はじめて會ふのであつたが、
 敬二はあらためて弔詞を述ぶる機會を失ふて、
 云はるゝままに唯手紙を書いた。
 (『徳冨蘆花集 第11巻』日本図書センター、1999年)

能勢家=横井(伊勢)家に駆け付け、讃美歌を歌い、又雄=時雄を慰めた、
高森は金森通倫、沈田は浮田和民でしょう。
あちこちに電報を打つというとき、お稲=みねの実母の実家にも、とあります。
山本みねの実母は上洛しておらず、その後の消息はわかっていません。
この記述が確かな史実であるならば、当時は、実母=樋口うらと連絡がとれた?
「實母の實家」という書き方も気になり、うら以外の親戚を指すのか?
そのあたりの事情は、今ではわからなくなっています。

余談
「家族の旅路 家族を殺された男と殺した男」、2人の赤ちゃんが入れ代わった?

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