「永訣の朝」と妹・岩田シゲ

さて、『宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録 屋根の上が好きな兄と私』(蒼丘出版)入手。
やはり気になるのは、「永訣の朝」に関わる部分です。

 大正十一年の十一月二十七日、花巻はみぞれでした。
 急いで病室を出て、賢さんについて、
 私も下駄をはいて台所口から庭に出ました。
 ビチョビチョと降る雨雪にぬれる兄に傘をさしかけながら、
 そこに並べてあるみかげの土台石にのって
 緑の松の葉に積もった雨雪を両手で大事に取るのを茶碗に受けて、
 そして松の小枝も折って、病室に入りました。
 ほんとうにあの病室は何と貧弱だったでしょう。
 高い所に明かり取りにつけた窓は素通しのガラス戸一重で、
 外の冷たい空気は遠慮なく部屋に入り込みます。
 赤くおこした炭火を火鉢に入れて、部屋の隅々においたって、
 天井は高いし室内が暖まる訳には行きません。
 空気が動けばとし子姉さんはすぐにせき込むのです。
 少しでも空気の動くのを防ごうとかやを吊り、屏風を回してという具合でした。
 賢治兄さんは何か言いながら採ってきた松を枕元に飾り、
 お茶碗の雪を少しづつさじですくって食べさせてあげましたっけ。
 いつの間にかお昼になったと見えて、
 関のおばあさんが白いおかゆと何か赤いお魚と外二、三品、
 チョビチョビ乗せて来たお盆をいただいて、母がやしなってあげました。
 ああ、お昼も食べたしよかったと少し安心した気持ちになっていた頃、
 藤井さん(お医者様)がおいでになって、脈などみて行かれました。
 父がお医者様とお話して来られたのか、
 静かにかやの中に入つてから脈を調べながら泣きたいのをこらえた顔で、
  「病気ばかりしてずい分苦しかったナ。
 人だなんてこんな苦しい事ばかりいっぱいでひどい所だ。
 今度は人になんか生まれないで、
 いいところに生まれてくれよナ」と言いました。
 としさんは少しほほえんで、
 「生まれて来るったって、
 こったに自分の事ばかりで苦しまないように生まれて来る」
 と甘えたように言いました。
 私はほんとに、ほんとにと思いながら身をぎつちり堅くしていたら、
 父が、「皆でお題目を唱えてすけてあげなさい」と言います。
 気がついたら、一生懸命高くお題目を続けていました。
 そして、とし子姉さんはなくなったのです。
 その後は夢のようで、いつ夜になったのかどこで眠ったのか、
 夜中、賢治兄さんのお経の声を聞いていたようでした。
 夜明けに、袴をはいたとしさんが、
 広い野原で一人、花をつんでいるのがあんまり淋しそうで、たまらなく、
 高い声で泣いて目を覚ましましたら、賢さんがとんできて、
  「何して泣いた? としさんの夢を見たか?」と差し迫った声で聞いたので、
 また悲しくなって、 「それだって、
 一人で黄色な花っことるべかなって言ったっけも」とまた泣きました。
 五十年前は今よりずっと寒くても、ストーブはどこにもありませんでした。
 病気で体が弱ると蒲団が重くて、病人も看護する人も苦しみました。
 滋養食の知識なんて、なんと貧弱だったでしょう。
 結核の療法はほとんどなかったようなものです。
 衣、食、住、比べてみれば、今は何と恵まれている事でしょう。
 ほんとに豊富になっていますね。
 それでもまた別の苦しい事、ひどい事がふえて、限りがありません。
 人の世とはそういう事なのでしょうか。 
 (『宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録 屋根の上が好きな兄と私』蒼丘出版)

ああ、「永訣の朝」にうたわれていたことは真実だったのだ、と思いました。
また、トシが、「うまれでくるたてこんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる」と言ったことも、父の問いかけへの返答とわかる。
トシのために、皆で「お題目」をあげたことも、わかりました。
ほかにも、母のこと、宮沢賢治の『伊勢物語』にびっしりと線が引かれていたこと、
家族ならではの視点から明らかになる事柄が、気になります。
先ごろの直木賞、芥川賞も、宮沢賢治に関わり、何やら宮沢賢治ブーム?
衣食住が豊かになり、滋養食の知識を得ても、人々の苦しみ、ひどいことはある。
宮沢賢治は1933年に死去、岩田シゲさんは1987年まで生きました。
亡くなったのは、敬愛する兄の命日の1日前、9月20日でした。

余談
今秋の朝ドラ「まんぷく」のヒロインは、安藤サクラさん。
出産後、女優を辞めようと思っていたこと、オファーが来てもできないと涙、
同じく俳優をする家族に背中を押され、やってみようと決めたこと。
子どもがいるヒロイン女優は初、これも女性の働き方改革。

Tag:本 

「賢治妹の回想録出版へ」

宮沢賢治の妹、岩田シゲによる回想録が見つかり、出版されました。
『宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録 屋根の上が好きな兄と私』(蒼丘出版)です。

 賢治妹の回想録出版へ 岩田シゲ執筆、「永訣の朝」逸話も

 花巻市生まれの詩人で童話作家の宮沢賢治(1896~1933年)の妹
 岩田シゲ(1901~87年)による回想録が近く出版される。
 賢治の詩「永訣の朝」に描かれた
 上の妹トシ(1898~1922年)の最期の様子のほか、
 幼少期の賢治のエピソードもつづられている。
 回想録は「屋根の上が好きな兄と私」(蒼丘書林)。
 監修した実践女子大の栗原敦名誉教授は同書に解説を寄せ、
 シゲの「繊細かつ生き生きとした筆致」を指摘。
 多くの貴重な事実が明らかにされた意義を強調している。
 回想録はシゲが70歳を過ぎた頃から書きためていた。
 没後に次男夫妻が「孫たちへ」と題した冊子にして親族に配った。存
 在を知った栗原さんが確認し、監修。
 15編に構成し、賢治やシゲの略年譜や家系略図も付けた。
 「永訣の朝」では、病床のトシに
 「あめゆじゅとてちてけんじゃ(雨雪を取ってきてください)」と頼まれた賢治が、
 碗(わん)に雪をよそってきて食べさせる情景が描かれた。
 今回収録の「姉の死」で、シゲはこの日を回想。
 「賢治兄さんは何か言いながら採ってきた松を枕元に飾り、
 お茶碗の雪を少しづつさじですくって食べさせてあげましたっけ」
 と振り返っている。
 (2017年12月6日「岩手日報」電子版)

宮沢賢治がトシのために「雨雪」をとってくるとき、実はシゲもいっしょにいた。
でも、「永訣の朝」には、シゲの存在はうたわれていません。
なぜシゲを描かなかったのか、という新しい論点も出てきたのかなと思います。
宮沢トシは、日本女子大学校の家政科で学びました。

Tag:本 

『六花落々』

さて、西條奈加『六花落々(りっかふるふる)』(祥伝社文庫、2017年)を読了。
久々に読んだ時代小説を堪能、ぜひドラマ化してほしい秀作です。
雪の殿さまとして知られる、下総古河藩主の土井利位。
雪の欠片を雪華と名づけ、顕微鏡ではじめて観察したのは、この土井利位。
その重臣で、卓越した政治力をもち、蘭学者でもある鷹見忠常。
しかし、本作はあえて、主人公を土井利位の御学問相手の小松尚七とします。

 「いわば国許の民百姓に、もっとも近いところにいた。
 そういう者が傍におれば、おまえを通して民の思いは自ずと殿にも伝わろう。
 下々がまるでわからぬようでは、主君は務まらぬからな
 ……それは、わしにとっても同じこと」
 「わしは遠くばかりに目が行きがちであるからな。
 こうして海の向こうを見ながら、足許がおろそかになれば、
 崖から落ちるやもしれん。 
 おまえが足許に目を配っていてくれるからこそ、
 わしは心ゆくまで遠くを見渡せる……だから尚七、おまえはそのままで良い」

何事にも疑問を抱き、好奇心の強い、「何故なに尚七」の異名をとる小松尚七。
同じように関心をもって、研究しても、鷹見忠常にとっての蘭学は政治のための窓。
ああ、と膝を打ったのは、雪の結晶を多く見られる年は米が不作ということ。
土井利位の『雪華図説』は、大奥からも所望され、雪華は大流行。
天保の大飢饉が起こる中、鷹見忠常は、雪華の紋様を使い、
豪華な黒漆塗りの金蒔絵の印籠や文箱、棗(なつめ)と香合をつくる。
国許では大飢饉にあえいでいるというのに、と小松尚七は反発。
ところが、肥後熊本の細川家、豊前中津の奥平家、京阪の豪商からお救米が。
小松尚七は、鷹見忠常が、無理をして贈り物をした相手先であると気づく。

 忠常は、周到な男だ。
 尚七の嘆願に動かされたわけではなく、最初から見越して、
 蒔絵師に作らせたに違いない。
 飢饉の最中、米は何よりも高くつく。
 まともに贖えば、とんでもない金高になろう。
 --いまこの時こそが、雪華がもっとも高い値を生むときなのだ。
 忠常が言ったのは、このことだった。
 「あの道具が……雪華の紋様の道具が、米になったのか」
 民百姓の汗水を、無駄に費やしている。
 そう思えた雪華が、領民の糧となった。
 涙が、止まらなかった。

この雪華の紋様の印籠が、現在、永青文庫の細川コレクションに所蔵されており、
原羊遊斎(久米次郎)の作品のようで、鷹見忠常が贈ったもの?
この作品には、多くの蘭学者や歴史上の人物が点描されています。
鷹見忠常が蘭学を始めたのは、レザノフ事件があったから。
植物学、化学等を初めて書物にして紹介した宇田川榕菴。
鷹見忠常(泉石)の肖像画を描き、後に非業の死を遂げる渡辺華山。
幕府の天文方の高橋景保、間宮林蔵、シーボルト、大黒屋光太夫などなど……。
そして、土井利位が大阪城代になったため、大塩平八郎の乱を鎮圧。
幕末までにはまだ時間はあるものの、その胎動は確かだった。

 混じりのない純粋な石でしか、砕けぬ楯もある。
 皮肉なことに、大塩が丹精して磨き上げた玉は、乱という鏃に姿を変えて、
 絶対であった徳川という楯に小さなひびを入れた。
 打ち寄せる波が、固い岩を少しずつ削ってゆくように、大塩の乱は、
 この先もくり返し立ち現れて、倒幕と、さらには民主主義の旗印とされる。
 しかしそれを、利位も忠常も尚七も、見ることはない。
 梅雨空にもかかわらず、どこかで揚雲雀が鳴いた。
 世は幕末に向けて、ゆっくりと傾いていた。
 (西條奈加『六花落々』祥伝社文庫、2017年)

古河藩の第4代藩主であった土井利位が亡くなったのは、嘉永元(1848)年。
鷹見忠常は、安政5(1858)年に死去しています。
(『鷹見泉石日記』をはじめとする関係資料は、重要文化財に指定。)
江戸幕府の終焉は慶應3(1868)年、鷹見忠常の死から僅か約10年後のこと。

余談
NHK「未解決事件」、赤報隊事件は過去の出来事と片付けられない、今の恐さ。

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『愛と狂瀾のメリークリスマス』

堀井憲一郎『愛と狂瀾のメリークリスマス』(講談社現代新書、2017年)を読了。
副題には、「なぜ異教徒の祭典が日本化したのか」とあります。
年内に読み終えることができずに、すっかり季節外れのテーマになってしまった。

 キリスト教は、信じないものにとっては、ずっと暴力であった。
 そういう厄介なものはどう取り扱えばいいのか。
 それは日本のクリスマスに答えがある。
 「日本のクリスマス騒ぎ」は、力で押してくるキリスト教文化の侵入を、
 相手を怒らせずにどうやって防ぎ、どのように押し返していくか、
 という日本人ならではの知恵だったのではないか。 
 だからこそ「恋人たちのクリスマス」という逸脱にたどりついたのである。

まず「序 火あぶりにされたサンタクロース」にこのようにあり、興味をそそられます。
戦国時代の宣教師たちによるクリスマスのことなど、勉強になります。

 日本人による明治以降の最初のクリスマスは、
 1874(明治7)年、この築地居留地内にあった学校内で行われた、とされている。
 東京の女子校御三家「桜蔭・雙葉・女子学院」のひとつ
 「女子学院」(いわゆるJG)の発祥は、
 1870(明治3)年に築地居留地に建てられた「A六番女学校」にある。
 1874年に原胤昭らがそこで初めてのクリスマスを開いた。
 この一件に関するタネ本はひとつである。
 銀座の教文館出版の『植村正久と其の時代』
 (佐波亘編/1938年刊行/1976年復刊)である。
 その第二巻の十一章「我国に於ける最初のクリスマス」と
 そのものずばりのタイトルで書かれている。

記録上で確認できる、明治の最初期の日本人によるクリスマス、ということ。
原胤昭が入信の記念として催した、築地のクリスマスは風変わりで、
「神田明神の祭礼のような気持ちでやった」といい、新富座の若い者が手伝い、
サンタクロースは裃をつけ、大刀小刀を差した扮装だったらしい。
明治時代、キリスト教系の女学校が次々と創立されたわけで、
そうした女学校におけるクリスマスはどのように祝われ、継承されたのか。
現代のクリスマス文化に関しても、著者は雑誌や新聞から冷静に分析しますが、
学校や幼稚園などにおけるクリスマス会とか、どうだったのか。
企業戦略、テレビドラマや歌謡曲のそれは、社会を投影しつつ影響を与えたはず。
まだまだ分析するべき、考えられる視点はあるかもしれません。

余談
平昌五輪、アメリカの女子シングル代表に、ブレイディ・テネル、
長洲未来、カレン・チェンが選出され、アシュリー・ワグナーは補欠に。

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『牛車で行こう! 平安貴族と乗り物文化』

さて、ご近所の神社に初詣も済ませ、家族は早くも明日から仕事です。
今日は、京樂真帆子『牛車で行こう! 平安貴族と乗り物文化』
(吉川弘文館、2017年)をのんびりと読みつつ、テレビっ子の本領発揮。
本書は、これまでありそうでなかった、1000年前のカーライフ本で、
各新聞の書評欄で取り上げられるなど、話題になりました。

 間違いだらけの車選び

 職場での地位もそこそこ上がって、経済的に余裕もできた。
 そろそろ憧れの牛車ぎっしゃでも買って、
 平安貴族のようなカーライフを満喫しようか。
 というセレブにオススメな本がついに刊行された。
 本書には牛車生活を送るうえでの様々なノウハウが、
 初心者にも分かりやすく図入りで解説されている。
 その一端をご紹介しよう。
 【車種】まず大事なのは、車種選び。
 唐車からぐるまはベンツ、檳榔毛車びろうげのくるまはクラウン、
 網代車あじろぐるまはアクア。
 清少納言は檳榔毛がイチオシのようだが、
 やはり自身の分ぶんを弁わきまえて、愛車はしっかりと選ぼう。
 【乗り心地】現代の乗用車に比べて、牛車はサスペンションは良くない。
 とくに初めての人は乗り物酔いしがちなので要注意。
 牛が暴走する危険もある。
 車中には手すりも標準装備なので、初心者は手すりの位置も確認しておこう。
 【乗り方】牛車は、後ろから乗って、前から降りる。
 これを間違えると、『平家物語』の木曽義仲のように
 800年後まで笑われるので要注意だ。
 基本的には4人乗り。車内では前列右側が一番上席、後列右側が末席となる。
 上司と乗るときは、ゆめゆめ座席を間違えないようにしたい。
 【マナー】上司の車とすれ違ったら、車を道の脇にとめて、
 牛を車から離して、車全体で前傾姿勢をとって、心からのお辞儀を忘れずに。
 言っておくが、これを面倒だと思うような人には、
 雅みやびな王朝ライフは送れない。
 本書の優れているところは、以上の知識を踏まえなかったために起きた
 失敗談などを、古典文学や歴史資料からふんだんに引用している点にある。
 牛車を買おうという気のない人でも、
 これら牛車をめぐる悲喜劇を読むだけで十分に楽しめるだろう。
 また同時に、古典や日本史の理解も深まること請け合いである。
 牛車は高価な買い物だが、丁寧に扱えば数世代にわたって乗れる。
 買ってから後悔しないよう、購入を検討している人は、
 ぜひ事前に本書を熟覧してほしい。
 (2017年9月4日「読売新聞」電子版/清水克行(日本史学者・明治大教授))

以下、『源氏物語』の引用について、重箱の隅的に気になった点になります。

 輦車宣旨を得た人物も、『源氏物語』には二人いる。
 それは、病を得て内裏から退出する桐壺の更衣であり(桐壺)、
 もう一人は光源氏の妻である紫の上で、
 「女御の御有様に異ならぬ」(藤裏葉)と表現されている。
 一人は天皇の后の中でも位の低い更衣であり、
 もう一人は正妻ではなく召人の立場にいる女性である。
 (147頁)

輦車の宣旨を受けた、「もう一人は正妻ではなく召人の立場にいる女性」とは、
文脈からして、紫の上を指していると思われます。
ただし、入内した明石の姫君の養母、紫の上は「召人」ではないでしょう。

 薫は浮舟とともに隠れ家から宇治へ同車して移動した。
 その同じ車にお供として、乳母の尼君と女房の侍従も乗り込んだ。
 道の悪いところでは車が揺れるので、薫が浮舟を抱きかかえている。
 それを「車の中に引き隔て」た「薄物の細長」越しに
 シルエットとして尼君が見ている。
 ということは、車の前後を薄い絹の上着で仕切った、ということになろう。
 車の前には薫と浮舟が乗り、後部に尼君と女房が乗っているのである。
 (150頁)

東屋巻、故大君によく似た浮舟を、薫が強引に宇治に連れて行く場面。
その車にともに乗り込んだのは、「乳母の尼君と女房の侍従」とありますが、
確かに「尼君」ではありますが、誰の乳母でもなく、弁の尼でした。
弁の尼の母が、薫の実父・柏木の乳母ではありました。
……上記の書評でも言われているように、古典文学からも、
牛車にまつわるエピソードが紹介され、牛車をめぐるドラマがわかり、魅力です。

余談
BSプレミアムの「美子伝説」については、後日、まとめたいと思っています。
テレビ東京の「忘却のサチコ」、シリーズ化、連ドラ化もあるかな。

Tag:本 

四季の花時計
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