「会津墓地に容保公座像 京都、年内にも建立へ」

金戒光明寺西雲院の会津墓地に会津藩主、松平容保像が建立されるそう。

 会津墓地に容保公座像 京都、年内にも建立へ

 幕末の会津藩主松平容保公の座像が年内にも、
 京都市の金戒光明寺西雲院の会津墓地に建立される。
 京都会津会などが会津墓地整備のために集めた
 募金余剰金を西雲院に寄付し、西雲院が像を整備、
 京都守護職として金戒光明寺に本陣を置き京都の治安維持に尽力した
 容保公の「義」の心や偉勲を後世へ伝える。
 10日、西雲院で開いた京都会津会総会で報告された。
 会津墓地にある鳥羽伏見の戦い戦死者慰霊碑隣に設置する予定。
 陣羽織姿で撮影した京都守護職時代の容保公の写真を元につくる。
 青御影石による石像で、台座部分には白御影石を使う。
 像は高さ120センチ、台座は高さ52センチになる。
 募金は京都会津会、会津会、会津弔霊義会などが中心になり
 2004(平成16)年から2006年に約1649万円を集め、
 京都守護で命を落とした237人と鳥羽伏見の戦いで散った115人を祭る
 会津墓地の慰霊碑改修などに充てた。
 約237万円の余剰金を京都会津会が管理し、使途を検討していた。
 戊辰戦争150周年の今年、歴史を未来へつなごうと、
 募金に関わった団体などの了解を得て座像設置を決めた。
 会津松平家十四代当主の松平保久さんは
 「戊辰戦争の苦難の歴史が始まるきっかけは金戒光明寺にある。
 像の建立は眠っているみ霊のためにも、私自身にとっても喜ばしい」
 と歓迎した。
 (2018年6月12日「福島民報」電子版)

銅像は、「陣羽織姿で撮影した京都守護職時代の容保公」の姿だとか。
明治維新150年は、会津から見れば、戊辰戦争150年ということに思い至ります。
京都に藩主の像が建立されることを、八重さんも喜んでいるかな?

余談
「半分、青い。」、飛んでいった短冊と神さまのメモは通じるのかしら?

Tag:八重さん 

西南戦争の新史料

西南戦争に従軍した政府軍の兵士の手紙が見つかった、というニュースです。
 
 西南戦争の新史料が久米南町に

 西南戦争で西郷軍と戦った政府軍の兵士が、
 終戦直後に当時の戦況などを家族に伝えた手紙が久米南町で見つかりました。
 専門家は「戦争の最前線にいた一兵士の視点から
 当時の状況が詳細に記された第一級の資料だ」と話しています。
 この手紙は明治10年の西南戦争で政府軍として
 西郷隆盛率いる薩摩軍などと戦った兵士が
 戦地から岡山県に住んでいた父親に宛てたもので、
 父親のやしゃごにあたる久米南町の榊原東一さん(77)が保管していました。
 手紙には政府軍が戦いを優位に進めていることや、
 警視隊や屯田兵など、当時の政府軍の構成、
 それに、戦っている相手の軍を率いた「西郷隆盛」の名前も記されています。
 また、西南戦争最後の激戦地となった鹿児島市城山では、
 午前3時に政府軍が整列を始めたことや『砲声城山ヲクダクルカ如し』など
 相手軍に攻め入る際の様子が細かく描写されています。
 近代史が専門で志學館大学の原口泉教授は、
 「一兵士の従軍手記として、西南戦争の全容が分かる第一級の資料だ。
 西郷が自決した日の翌日に書いた手紙であるため、
 脚色する余地がないのは明らかで、客観性が高い」と話しています。
 手紙を所有していた榊原さんは
 「西南戦争のことが書いてある手紙があることは父から聞いていた。大
 河ドラマの『西郷どん』を見ていて、思い出した。
 研究の役に立つのなら、ぜひ使ってほしい」と話しています。
 (2018年6月5日「NHKニュース」)

西郷隆盛が自決した翌日に書かれた、生々しい状況を記した一兵士の手紙。
こういった一般市民の目撃者の手紙などは、まだまだ眠っているのかも。
毎年そうですが、大河ドラマは、そうしたものを再発見する契機にもなります。

余談
小学校が耐震工事をしていなければ、交通整理の警備員さんもいなかった。
拳銃を持った犯人の目的はまだわかりませんが、最悪の事態もありえた。
時間が少し遅ければ下校時間で、生徒たちが校門前に大勢いたかもしれない。

Tag:八重さん 

「西郷と愛加那の長女菊子か 菊次郎のひ孫宅で写真発見」

大河ドラマ「西郷どん」、吉之助は愛加那が生んだ長女に「菊草」と命名しました。
その「菊草」は、後にあの大山捨松の義妹になりますが、
彼女の写真が見つかった、とのこと。

 西郷と愛加那の長女菊子か 菊次郎のひ孫宅で写真発見

 西郷隆盛と愛加那の長女菊子(菊草)とみられる写真がこのほど見つかった。
 実兄の西郷菊次郎家族と一緒の記念写真とみられる。
 菊次郎のひ孫にあたる女性宅で発見された。
 龍郷町学芸員の川元美咲さんは
 「子孫からの提供で菊子本人にほぼ間違いない。
 これまで菊子本人の写真は見つかっていない。貴重な資料」
 と重要性を指摘している。
 近く、同町に正式に寄贈され、
 町生涯学習センターりゅうがく館2階文化財展示室で展示される予定。
 川元さんと西郷隆盛研究家の原田良子さんが協力して調査した結果、
 菊子は12歳前後に鹿児島に迎えられた後、
 大山誠之助と結婚したが、その後別居。
 京都市長時代の菊次郎が
 菊子とその次男、次女を呼び寄せていることなどが分かっている。
 寄贈された写真の中には、菊次郎との続柄を示す資料も添付。
 菊次郎家族の中に菊子とその子どもたちも一緒に並んで写っている。 
 川元さんによると、提供された写真はA4サイズで複写版。
 関東在住のひ孫の女性が自宅で資料を整理中に偶然見つけたという。
 川元さんは「菊次郎が菊子家族を引き取ったことは分かっている。
 写真を撮った日時や場所について調査している」と話した。
 今回の写真提供は、西郷隆盛について
 龍郷町で公民館講座などを開講している志塾・西郷塾のメンバーと
 菊次郎のひ孫女性が数年前から交流があったため、
 同塾を通して同町に寄贈の話がまとまった。
 同塾の久保笙子さんは「愛加那にも焦点を当てたいとの思いで活動をしている。
 その活動の一環で菊次郎のひ孫の女性とメンバーが知り合い、
 今回の写真提供の話が持ち上がった」と話した。
 (2018年3月2日「南海日日新聞」電子版)

早くに亡くなった秋子の葬儀には、東京から大山捨松も参列したのだとか。
西郷秋次郎が京都市長に就任したのは、明治37(1904)年。
残念ながら(?)、新島襄や山本覚馬の死後でした。
会津の人々の間でも西郷隆盛には寛容だと聞きますが、八重さんは?

余談
「半分、青い。」、視聴の追いつかない身ではわかりかねますが、
律の突然のプロポーズ、違和感はなかった。
同じ病院で同じ日に生まれた、少女漫画以上の設定と双子以上の絆。
律にとっては、かつて自分が別れを言い出したにしても、
鈴愛とはいつか結ばれる、それはとても自然なこと。
互いが半身であり、結ばれるのはいつでもよく、道が定まった今ならなおいい。
それはもはや理屈ではなく、過程もどうでもよく。
だって、マグマ大使を呼ぶ笛がまた鳴ったのだから。
それは鈴愛もどこか同じで、それは2人の油断や思い込み、驕りなのかも。
それでも、鈴愛の描いた漫画の神さまのメモみたいな形でいつか?

Tag:八重さん 

新島八重の新資料?

2017年11月19日、NHKのニュースで報道されたようですが、
新島八重に関する新資料の発見、という内容に驚き、期待が高まりました。
ただ、新島八重について新発見があるかは、今後の分析によります。
新たに公開されたのは、新島襄や八重の岸和田伝道を支援した、
山岡尹方の長男、山岡邦三郎の日記だとか。
山岡邦三郎は会津若松教会の牧師もつとめた、同志社の卒業生。
その妻で、梅花女学校を出た、女性運動指導者の山岡春も知られます。
日記は、明治26(1893)年から28(1895)年のもの。
新島襄の死後になりますが、そこに新島八重の関わる記述がありますように。

Tag:八重さん 

山川浩と伊藤博文

山川浩の中吉旅館に対する礼状や贈り物の記事には、別の事実も……。

 御坊市議会一般質問、伊藤博文(初代総理)書額の文化財指定検討

 御坊市12月定例議会は5日に再開し、一般質問を行った。
 トップバッターの松本隆史議員は御坊小学校校長室に掲げられている
 初代内閣総理大臣の伊藤博文の書額(市所有)の
 市指定文化財への指定や保存、活用を質問したのに対し、
 市教育委員会は詳しく調査し、
 市文化財保護審議会に指定を諮問する考えを明らかにするとともに、
 市歴史民俗資料館での保存や複製品を作製して
 御坊寺内町会館等で展示することも検討している、とした。
 伊藤博文の書額は黒塗枠に金箔地和額表装で、
 当時、和紙より高価だった絹本に墨書され、朱印も押されている。
 「御坊黌」の文字を右書きし、御坊小学校のための揮毫とみられる。
 大正期の校長、薗和四郎の孫が存命しており、
 古くから伊藤博文の書であることが広く知られていたという証言もある。
 平成27年5月に京都美術倶楽部会員の紹介を経て京都市の関係者から
 「落款と絹本の生地質の調査、書の筆致、他の作品との書風の比較から
 博文の中年期に書かれた作品であることを断定」との鑑定結果報告があり、
 真筆であることが判明した。
 幕末の鳥羽伏見の戦いで敗れ、紀州に落ち延びて
 小松原村の中吉旅館で命を救われた会津藩士で東京高等師範学校
 (現・筑波大)校長等を務めた山川浩が明治21年に学事巡視で御坊に来ており、
 この時期に親交のある伊藤博文に依頼して
 揮毫された可能性が高いとされている。
 松本議員は「大変貴重で立派なもの。
 市指定文化財として登録するのにふさわしい」と提案したのに対し、
 森田誠・生涯学習課長は「書の中に御坊の文字があり、
 御坊にとって貴重なもの。
 校長室に掲げられることになった経緯等をもう少し詳しく調査した上で、
 市文化財保護審議会に諮問していきたい」
 と文化財指定に取り組む考えを示した。
 また、複製品を作製し
 「御坊寺内町会館等で複製品を展示することを検討している」と答えた。
 書額の保存については「校長室に掲げられているが、
 防犯上や書自体の劣化の問題があり、適切な保存方法を検討している。
 保存場所は市歴史民俗資料館が最も適している」と答弁。
 松本議員は「歴民館に保存するにしても、
 本物を見る機会をぜひつくってほしい」との要望には
 「期間を定めて歴民館で展示することも検討している」と答えた。

 山川浩の縁で交流促進期待 来年1月に会津若松市訪問

 中吉旅館で命を救われた山川浩は、
 明治15年に旅館主人の中野吉右衛門に感謝の手紙と大皿(九谷焼)を贈り、
 21年に学事巡視で和歌山を訪れた際に中吉旅館を訪問し、
 会津塗りのわんを贈ったほか、22年に
 県下一円で発生した大水害の見舞い状、見舞金を贈るなど交流を続けた。
 この品物が、戊辰150周年を記念して来年1月に
 「中吉旅館子孫一同」から会津若松市に寄贈される予定で、
 松本議員は「150年前のご縁を生かし、
 会津若松市との交流につなげてほしい」と求め、柏木征夫市長は
 「御坊、日高の人情の厚さをつくづく感じる話。
 会津若松市に寄贈する際は、本市も同行したい。それなりの人を派遣する。
 交流については今後、会津若松市とのお話になってくる」と答えた。
 (2017年12月6日「紀州新聞」)

山川浩は、東京高等師範学校の校長をしていた関わりから、
伊藤博文に、坊小学校校長室に掲げられている書額への揮毫を依頼した?
山川浩と伊藤博文とは、どういう関係性だったのでしょう。

余談
「モンテ・クリスト伯」、異色の作品でしたが、よかったなと思います。
ディーン・フジオカさんの当たり役、彼しかできなかった。
フジテレビは、現在の状況を逆手にとって、いろいろと野心的に実験している。
良くも悪くも定着、安定路線のテレビ朝日と対照的な気がします。

Tag:八重さん 

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