2017
10.18

山下壽代の身体性

Category: 八重さん
「黒い眼と茶色の目」に語られる山本久栄=山下壽代は、
敬二=徳冨蘆花の視線を通して、「蓮葉」であると繰り返されます。
引っ越してきたばかりの横井家には、女中が2人、山本家からも手伝いが来た。
そうした家事には馴れていない久栄も、奮闘したようです。

 お稲さんの實家の山下家は、木屋町とはつい眼と鼻の河原町にあつた。
 引越當座は、毎日の様に山下家から手傳ひに來た。
 内では女中の二人も居て、はたき一つ持つたこともなさゝうな壽代さんが、
 甲斐〃〃しく襷を十字に綾どつて二階から下へと雑巾がけして廻つたり、
 鰹節の鉋を磨ぐと云つて大騒ぎして砥石を探したり、
 面白半分騒ぎ廻つて居た。
 時々は敬二が寢て居る八疊の上り框(かまち)へ來て、
 はらはらする敬二の方へ背を向けながら、
 土間で雨戸の修繕をして居る大工に平氣で言ひかけたりして居た。
 壽代さんは十六であつた。
 敬二はまだ子供らしくぎすぎすした其肩つきや、
 赫つちやけたおくれ毛のほつそりした襟頸を眺めて、
 『何と云ふ蓮葉な娘だらう』と思つた。
 しばしば顏を合せながら、誰もあらためて紹介をする者もないので、
 二人は挨拶を交はすこともなかつた。
 木屋町へ越して三日目の朝、
 敬二はまだ吊つたまゝの靑蚊帳の中で、土間を向いて寢て居た。
 格子戸がからり開いて、駒下駄の響(おと)がすると、
 土間に立止まつた壽代さんは、
 蚊帳越しに大きく眼を開いた敬二と顏を見合はせてーー目禮した。
 敬二も寢ながら目禮を返した。

久栄はまだ16歳、成熟とは遠い、「ぎすぎすした」体つきをしていたらしい。
引越しから3日が過ぎて、敬二と壽代はようやく「目禮」を交わした。

 此月頃兎角ぶらぶらしてすぐれずに居たお稲さんは、
 ドクトルペリーの診察で妊娠五月と知れた。
 『それ御覧なさい、それだのにあなたは何の角のと』とお稲さんは
 鼻聲で又雄さんを窘めて居た。
 お稲さんの容態も分つたし、引越し騒ぎも先づ形がついたので、
 又雄さんは程なく西南地方巡囘傳道の途に上つた。

蘆花が、ようやく回復して、協志社=同志社の入試準備に取りかかるころ、
ドクトルペリー(ベリー医師)の診察で、稲の懐妊が判明。

 敬二は壽代さんと泉水の水を更えた。
 薄鼠の浴衣に紅い襷をかけて、
 肱も露(あらは)の繊腕で壽代さんがだらだらと車井の水を手桶に汲むと、
 敬二は黙つて泉水に運むだ。
 三四度運ぶと、壽代さんが黙つて手桶に手をかける。
 このたびは敬二が汲む。
 壽代さんが片手で裾引あげ、跣足(はだし)になつて手桶を運ぶ。
 今度は敬二が黙つて手桶をとる。
 壽代さんが汲む。
 十ぱいも運ぶと、『最早えゝやろかー見て來う』
 壽代さんが口早に獨語つて、泉水を見に行く。
 『今少し』獨語つて、壽代さんはまた汲みはじめる。
 泉水が一ぱいになるまで、
 二人は共に働きながら、口もきかず、にこりともしなかつた。

姉の懐妊があり、壽代の手伝いも回数が増えたのかもしれません。
会話もなく、微笑もないながら、敬二と壽代はともに働いた。
赤い襷をかけた浴衣姿、「肱も露の繊腕」「跣足」とある、壽代の身体。
それが描かれるということは、もはや蘆花は久栄にひかれていたのでしょう。

 聞き覺えある駒下駄が、毎も敬二が勉強して居た六疊の前ではたととまると、
 勝手のかあやんに問ひかけたらしく、
 しをれた聲ーー敬二は斯く思ふたーーが響いた。
 『敬さんは?』
 敬二は息がつまつた。
 彼の心は高く動悸を拍(う)ち出した。
 かあやんが何と答へたか、敬二の耳にはよくは入らなかつた。
 (『徳冨蘆花集 第11巻』日本図書センター、1999年)

これまでの勉強部屋が居間になり、敬二は二疊の狭い離れを部屋にした。
それを知らずに、壽代は以前の「六疊の前で」足をとめたのです。
「かあやん」とは、「老婢の加壽」とは、横井小楠の妾の寿加のことでしょうか。
「敬さんは?」と問いかける声を聞くだけで、敬二の動悸が早くなった。
2017
10.03

梅田雲浜の自筆書簡発見

Category: 八重さん
電子の波に乗っていて、こんな記事に出会いました。

 梅田雲浜の自筆書簡を再発見 安政の大獄で捕縛のきっかけに

 幕末の小浜藩士の梅田雲浜(1815~59)が
 「安政の大獄」で捕らえられるきっかけになったとされる
 自筆の書簡を入手したと、福井信用金庫(福井市)が11日、発表した。
 幕末の激動の一端がうかがえる貴重な史料で、
 昭和初期から所在不明だったという。
 大老井伊直弼の幕政を批判し、後の「安政の大獄」の一因となったとされる、
 朝廷の「戊午の密勅」に関する書簡。
 井伊と近い立場にあった小浜藩主酒井忠義に
 「江戸はもちろん、天下は遠からず動転するでしょう」と危機を知らせている。
 雲浜は当時小浜藩から藩籍を剥奪されていた。
 後に井伊から、浪人の身ながら朝廷の機密情報を知る立場にあった
 危険因子とみなされ、捕らえられることにつながった。
 同金庫が3月に京都市内の古美術商から購入した。
 福井県史の元調査執筆委員で、
 地元福井県小浜市で雲浜を研究している中島嘉文さん(65)は
 「雲浜が小浜藩主を守ろうとしていたことがうかがえる書簡。
 来年の明治維新150年を前に福井県に戻ってきたのは
 運命的なものを感じる」と、再発見の意義を評価した。
 書簡は約15・5センチで、長さは約3メートルある。
 1917年に研究者によって雲浜の書簡と鑑定された。
 1929年の刊行物で所有者が記されていたが、その後所在が不明だった。
 福井信金は書簡を夏にも公開する予定。
 (2017年5月14日「福井新聞」)

梅田雲浜の妻と娘は、京都の女紅場につとめていました。
手元の春錦会・鴨沂会『創立六十周年記念誌』(昭和7(1932)年12月)
「舊職員名簿」に、妻の梅田千代、娘の梅田ぬいの名が見えます。

 梅田千代/製品係
 明治5(1872)年4月13日~明治15(1882)年4月29日
 梅田ぬい/八等授業補
 明治5(1872)年4月13日~明治12(1879)年10月16日

開校当初から、母娘は女紅場につとめていたことになります。
ちなみに、「山本やへ」(新島八重)は、明治5(1872)年4月25日からの奉職。
明治8(1875)年4月4日に退職しますが、およそ3年、同僚であったことになります。
梅田千代は、明治22(1889)年3月14日に死去しています。 

余談
「わろてんか」、もしかして……という雰囲気を初回から出していた新一兄さん。
思った以上に早く倒れて、心配が募る……。
「何にでもよう笑うということは、逆に、人の悲しみにも敏感やゆうこと」
初回でそう言っていた新一、その「敏感」をどこかで味わうことになるんだろう。
そして、「トットちゃん」は、前作よりも朝ドラ仕様という感じ。
2017
10.02

「合志義塾」ノート発見

Category: 八重さん
今秋、ドラマ化もされるという「合志義塾」の塾生のノートが見つかっていたとか。
(このドラマは、東京でも見られるのかしら。)

 農民学校「合志義塾」ノート発見 明治から昭和初期

 明治から昭和初期にかけて合志市にあった農民学校
 「合志義塾」で学んだ塾生のノートが、
 同市の築約140年の民家から見つかった。
 具体的な講義内容が分かる資料はこれまで確認されておらず、
 市教育委員会は
 「県教育史としても価値の高い非常に貴重な資料」としている。
 同市福原の渡辺直哉さん(87)が昨年4月、
 熊本地震で被災した自宅の後片付けをしていて、2階から発見した。
 B5判ほどの和紙のつづりと手のひらサイズの単語帳の計10冊。
 漢字、片仮名交じりの筆文字で記されている。
 書いたのは渡辺さんのいとこで1980年に88歳で亡くなった農業、鍋島辰蔵さん。
 明治後期の03~06年、11~14歳だった鍋島さんが記し、
 表紙には名前も書いている。
 教科は歴史、算術、農業、修身、作文草稿など。
 内容は講義録や作文例で、「歴史」の「露西亞[ロシア]」の項には
 「近傍[きんぼう]ノ(中略)國[くに]ヲ無理非道ナスコトシテ攻メ取リマシテ
 大キナ國ニナリテ居マス」などと書かれている。
 当時は日露戦争の時期に重なる。
 卒業証書も一緒にあった。
 市生涯学習課によると、合志義塾のへん額や学校印、
 教師の個人的な日記は確認されているが、講義内容が分かる資料はなかった。
 同課の菅真一郎さん(44)は「私塾ということもあり保存された資料が乏しかった。
 講義内容は卒業生の記憶頼みだったが、
 今回の資料はそれを具体的に知ることのできる一級品」と評価する。
 渡辺さんはノートを、鍋島さんの次女で、くまもと文学・歴史館友の会世話人の
 向井ゆき子さん(65)=熊本市中央区=に託した。
 向井さんは昨年7月から作文草稿など4教科分をパソコンに入力。
 中村青史・元熊本大教授の監修で、11月の出版に向け準備を進めている。
 向井さんは「入力作業をしていると、
 まるで若き日の父と会話しているような感慨があった」と話している。
 (2017年9月8日「熊本日日新聞」)

驚いたのは、「合志義塾」は、明治25(1892)年に西合志村黒松に誕生し、
昭和24(1949)年の閉塾まで存続し、約7000人の卒業生を輩出したということ。
この教育の機会に恵まれない農村子弟のための私塾は、
開塾時には25名が在籍し、その中には女子2名も含まれていたとか。
徳富蘇峰が設立した大江義塾で学んだ、合志出身の平田一十が、
従兄弟の工藤左一とに創設、その縁で新島襄ゆかりのカタルパの木が贈られ、
現在「文教の地・合志」の象徴として、「合志義塾」から株分けされた苗が、
合志市内の小中学校にも植えられて、今も花を咲かせているそう。
農村の子弟のための私塾、興味があります。

余談
「わろてんか」スタート、史実と異なるようだけれど、既視感のある改変方法。
明治35(1902)年、広岡浅子が尽力した日本女子大学の設立の翌年。
村岡花子は、明治36(1903)年に東洋英和女学校に編入学する。
2017
09.26

「八重の歌碑建立 若松の大龍寺」

Category: 八重さん
昨日のエントリーの記事と同じ内容ですが、こちらは「歌碑」となっています。

 八重の歌碑建立 若松の大龍寺

 NHK大河ドラマ「八重の桜」で描かれた
 新島八重の実家・山本家の菩提(ぼだい)寺である
 福島県会津若松市慶山の大龍寺は、
 八重が詠んだ和歌の碑を山本家の墓前に建立した。
 八重の命日にあたる14日、室井照平市長らが除幕した。
 碑に刻まれている和歌は
 「たらちねの御墓のあとをとふことも今日をかぎりとなくほとゝぎす」。
 八重が亡くなる2年前の昭和5年、京都から会津に帰郷した際に詠まれたという。
 古里の墓前に手を合わせるのは最後かもしれない-
 と悟った切ない思いがにじんでいる。
 八重は会津藩士の娘で、戊辰戦争で銃を手に戦った。
 京都で同志社大を創立する新島襄と結婚し、支えた。
 大龍寺は来年に迫った戊辰戦争150年を前に、
 家族や会津に対する八重の思いを伝えようと建立を決めた。
 14日は室井市長と会津史学会会員の岩沢信千代さんが除幕した。
 室井市長は「八重の気持ちを感じてもらえる場所ができた。
 多くの人に訪れてもらいたい」、岩沢さんは
 「会津の先人のよすがをたどる拠点の一つになってほしい」と願った。
 (2017年6月15日「福島民報」)

会津にはまだ行かれていないので、いつかこの歌碑も見てみたいと思います。
2017
09.25

新島八重直筆の「たらちねの……」

Category: 八重さん
新島八重の「句碑」が会津若松の大龍寺に建立され、除幕されたという記事。
これは、「歌碑」ではなくて「句碑」なのかしら?

 新島八重直筆の「句碑」除幕 命日に会津若松の大龍寺

 大河ドラマ「八重の桜」の主人公新島(山本)八重の先祖の墓がある
 会津若松市慶山の大龍寺が、境内に八重直筆の和歌を刻んだ句碑を建立した。
 14日に句碑がある山本家の墓所で除幕式を行った。
 句碑は、来年の戊辰戦争150年を前に、
 八重の会津や先祖に対する思いを形に残そうと建立された。
 八重の命日に合わせて除幕が行われた。
 句碑に記された和歌は
 「たらちねの御墓(みはか)のあとをとふことも今日をかぎりとなくほとゝぎす」。
 八重が亡くなる2年前に詠まれた可能性が高く、
 会津史学会の岩沢信千代さんは
 「夫襄と結婚しクリスチャンとなった八重は、先祖と同じ墓には入れない。
 墓を訪れるのは最後という晩年の八重の
 切実な思いが強く感じられる和歌だと思う」と説明した。
 直筆の和歌は現在、徳富蘇峰記念館(神奈川県)に所蔵されている。
 除幕式には室井照平市長らも参加した。
 大龍寺の増子宮子さんは
 「切ない思いが詰まった八重の句に浸ってほしい」と語った。
 (2017年6月15日「福島民友」)

記事中に見える、会津史学会の岩沢信千代さんは、
『不一 新島八重の遺したもの』(アイミライ、2012年)の著者。
来年は、明治維新150年ではなく、会津若松では戊辰戦争150年という認識。
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