2013
02.28

与謝野晶子の未発表歌

昨年、2012年は、与謝野晶子の没後70年、渡欧100年のメモリアルイヤーでした。
そのためにも調査が進んだのか、未発表の短歌の発見が相次いでいます。

2013年1月9日「日本経済新聞」などで、新年早々に報道されたのは……。
岡山県倉敷市で、与謝野晶子の直筆の短歌103首が、
B4サイズの原稿用紙12枚に、黒インクのペンで記されているのが発見されました。
ルビがふられ、冒頭に「秋の薔薇」や「萱の葉」といった題名や、
「与謝野晶子」と署名が付されたものもあり、大正期の作品と考えられています。
親交が深く、大阪毎日新聞に勤務していた同市出身の詩人、薄田泣菫に、
新聞掲載用に送った作品で、うち16首は未発表とみられます。
新聞紙面や与謝野晶子の全集には、掲載が確認できないとのこと。
また、計15首をつづった2枚の原稿用紙には「紫影抄」と題名が付けられ、
欄外に、「一度にお載せ下さい」と朱筆で書き添えられていました。

 砂踏むを燒けむとそしり網小屋の蔭をあゆめり物思ふ人

 物思ふ萱の葉などと並ぶ時今こし方のわれもうらめし

 髪よりも静かなるなし夕ぐれの山の色よりみづうみよりも

一方、2012年12月23日「日本経済新聞」ほかの報道では、京都の元医師の書庫から、
与謝野晶子の歌集に未収録の4首の短歌が見つかった、とありました。
昭和初期に即興で作歌したらしく、筆跡から本人の自筆とみられるそうです。
京都帝国大学教授だった元医師の縁者が戦前、京都市内の自宅で開いた文化サロンに、
与謝野晶子が繰り返し招かれ、揮毫を依頼されたものらしい。
未収録歌は元医師の縁者が筆写していた万葉集の、余白ページに書かれていた。
合計37首を寄せており、大半が旅にまつわる歌。
与謝野晶子文芸館が全集と照合し、このうち4首を未収録と判断しました。

 かがやきぬ我等のくにの太陽の今生れくるわたつみの上
 
 東京を二里のあなたにして住めば早くほのめく天の川かな

 恋などは忘れはててもわが心なわすれ草の色をこそすれ

 紫陽花の枕にすべくなりゆくやうすものをして人は細れど

製本・装丁され、桐箱に収められた写本は、ほかに古事記、論語などがあり、
与謝野晶子だけでなく、与謝野鉄幹、佐佐木信綱、高浜虚子、斉藤茂吉らの書画が。

あるいは、2013年1月27日の報道では、「忘れられた453首」が見つかった、と。
新作着物の発表会「百選会」(高島屋主催)で詠んだ短歌453首が、調査で明らかに。
同会の顧問だった与謝野晶子は、大正から昭和の20数年にわたって作品を発表。
しかし、それらは、歌集にも全集にも収録されていなせん。
高島屋の図案室や美術部で、「百選会」の仕事に携わっていた元社員が、
在職中に「百選会」と与謝野晶子の関わりを知り、退職後、
高島屋史料館(大阪市浪速区日本橋)に残る埋もれた資料から、丹念に調査。
与謝野晶子は、高島屋の要請で、大正7年から「百選会」に関わり、
やがて審査会で歌心を触発されて、着物や工匠の技などを題材に歌を詠み始めた。

 春の衣(きぬ)京の工人色糸にたそがれを織りあけぼのを織る

 ひんがしの日の出の色をわが帯の一端にだに置かまほしけれ

 花いかだ花ぐしのごと美くしき京染の袖誰れ振るならん

調査によれば、病気で顧問を辞める昭和15年までに短歌453首、詩7編を発表。
この間、毎回の流行色にも「聚楽紅」「慶長紫」などと造語で命名、その数も286に及ぶ。
これらの詩歌は当時、顧客向けの冊子やグラフなどに掲載されたものの、
随筆で「百選会」に言及する程度で、その作品を歌集にも取り上げていないのです。
昭和46年に高島屋がまとめた「百選会百回史」に、50首が掲載されたのみ。
「百貨店の催事であることを超えて、それらは晶子の和装文化に対する讃歌だったのでは」。

与謝野晶子が亡くなったのは1942年、平成の世になって、これほどの歌が見つかるとは。
いえ、まだまだどこかに眠っているかもしれないと思うと、胸が高鳴ります。

余談1
村上佳菜子が、中京大中京高校を卒業。
入学式同様、浅田真央から譲られた制服を着て。
「(浅田真央に)近づけたかは分からないが、自分もスケートも成長したと思う。
前は練習で怒られるとふてくされていたが、だいぶなくなった」
世界選手権を経て、4月からは中京大学へ進学します。

余談2
イタリア・ミラノで世界ジュニア選手権が開幕し、男子シングルSPで、
田中刑事の辞退で代替出場の宇野昌麿が7位、日野龍樹は12位発進と出遅れました。
今季は好調だった日野龍樹ですが、公式練習中に左ふくらはぎをつったとか。
試合でもその影響があったのかどうか、FSで挽回してほしい。
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