2013
11.30

徳富蘇峰記念館

Category: 八重さん
先日、「徳富蘇峰記念館」で開催中の「新島八重からの6通の手紙展」に出かけました。
JR二宮駅近くの靜かな住宅街にある小さな記念館ですが、貴重な所蔵品ばかり。
明治、大正、昭和にわたり、各界の要人からの書簡約4万7千通、
勝海舟、伊藤博文、大隈重信、森鴎外、新渡戸稲造など、差出人数は約1万2千人!
八重から蘇峰に送られた6通の手紙、自筆の和歌2首も発見されたのです。
新島襄、山本覚馬、山川健次郎、徳冨蘆花といった、「八重の桜」関係者の手紙たち。



記念館の入り口にも八重さん、右上には熊本から当館を訪問したくまモンの写真も。





(写真撮影の許可を頂いています。)
八重から蘇峰に宛てた手紙と封筒、「新島八重子」の署名が入っています。
この写真の手紙は、大正10(1921)年11月6日付け。
内容は、喜寿に頂戴したお祝いで、茶事を催すことができたことへの御礼。
大正12(1923)年12月21日の手紙には、同志社が八重の寄付した土地の売却を考えており、
切り売りするために寄付したわけではなく、自分が苺を作ったところなので、
せめて自分の存命中はやめてほしい、と相談しています。
この頃、同志社は大学設立のために多額の資金を必要としていたのです。
明治40(1907)年、八重は自宅の土地建物を寄付して、
同志社から年額600円の年金を受けていましたが、その交渉に当たったのが蘇峰たち。



新島襄の年賀状、明治23(1890)年元日付けで、大磯の百足屋旅館から送られました。
新島襄の死は1月23日、八重が駆けつけるのは20日午後11時。
21日、新島襄の遺言を書き留めたのは蘇峰でした。
恩師の死に、八重にこれまでの非礼を詫びて和解し、その後を支え続けます。
大学設立を見ないままに逝った新島襄は、まだ47歳。



民友社の看板(実物)は、11月24日放送の「八重の桜紀行」で紹介されました。
狭いところに掲げてあるので、カメラマンは撮影に苦労したのだとか。

蘇峰は、昭和32(1957)年、95歳で亡くなります。
この記念館は、昭和44(1969)年、秘書だった故・塩崎彦市氏が自費で自宅に開設。
妻であった塩崎マサ子氏が、徳富蘇峰記念塩崎財団を設立しました。
とても親切に説明してくださった、現在の学芸員さんは、そのお孫さんです。
今年は、文久3(1863)年生まれの蘇峰の生誕150年にあたります。
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