2014
01.31

「八重の篤志、横浜にも」

Category: 八重さん
大河ドラマ「八重の桜」も終わった、2013年12月29日、「神奈川新聞」の一面に、
新島八重が横浜であった大火の被災者に多額の寄付をしていた、との記事が載りました。
「八重の桜」が描ききれなかった、八重と横浜のつながりを伝えたかったのでしょう。
記事が掲載された当日は、感謝状に記された、その翌日の日付です。
この事実は、今回はじめて明らかにされたわけではなく、新島会館の展示で、
神奈川県知事からの感謝状と木杯を、昨年、見かけた気がします。

 「八重の篤志、横浜にも 大火被災者へ多額の寄付、神奈川知事が感謝状」

 今からちょうど110年前、1903(明治36)年12月28日。
 当時の神奈川県知事・周布(すふ)公平が、一人の女性に感謝状と木杯を贈った。
 宛先は、新島八重(1845~1932)。
 横浜であった大火の被災者への多額寄付に謝意を表したものだった。
 福島・会津出身で京都に住んでいた八重にとって、横浜は縁もゆかりもない。
 八重を突き動かしたものは、何だったのだろうか。

八重 感謝状

 
 1899年8月12日、横浜市の雲井町(現在の中区弥生町周辺)で起きた火事は
 南風によって延焼し、伊勢佐木町近辺をほとんど焼き尽くした。
 焼失戸数は、当時の市内世帯数の1割にも及ぶ約3200戸。
 神奈川新聞の前身「横浜貿易新聞」は「惨は火災より甚だしきはなし。
 しかも我が市の大火は惨中最も惨なる。
 酸鼻(むごたらしい状況)にむせばざるものあらん」などと記した。
 この大火の被災者を支援するため、八重が義援金を送っていた。
 寄付額は35円。
 現在の貨幣価値と単純に比較することは困難だが、
 企業間取引の物価指数の推移からみると、少なくとも現在の50万円以上に相当する。
 横浜貿易新聞が発生直後から
 「江湖(こうこ)(世間)の慈善家に訴ふ」と10日間募り、
 横浜市役所に届けられた義援金の総額は159円80銭。
 八重は遠く離れた京都から、その2割強にあたる額を寄付したことになる。
 戊辰戦争で会津が敗れて故郷を失った後、
 同志社英学校(現同志社大)を創設した新島襄の妻となって
 学校運営に奔走するなど京都を拠点としていた八重。
 何のゆかりもない横浜の災害に、多額の寄付をした理由は何なのか。
 八重はこの火災以外にも、実に多くの慈善活動に携わっている。
 身を賭して近代看護の普及に努めた「日本赤十字社篤志看護婦人会」、
 目や耳が不自由な人の支援目的で発足した「京都婦人慈善会」、
 戦争未亡人らの経済援助を行った「愛国婦人会」。
 いずれも自ら資金を提供し、報酬はない団体の幹部として奮闘した。
 さらに、孤児の世話をする東京市(当時)の担当部門、京都の高等女学校の増築、
 尋常小学校の改築などに、八重個人として浄財を投じていた。
 同志社社史資料センターの小枝弘和・社史資料調査員は
 「八重は50歳を過ぎてから自身のことを語りだしたが、ほとんど会津のことばかり。
 慈善活動について語った記録がなく、気持ちは分からない」と述べる。
 その上で、「襄と生活して社会的地位が上がるにつれ、
 果たすべき役割に気付いて寄付などを始めたのではないか」と推察。
 横浜への寄付については、
 「会津戦争で八重は大好きな故郷を失った。
 だから、同じように苦しんでいる人たちを放っておけず、
 できることはしたいと思ったのではないか」と心情を推し量った。
 (2013年12月29日「神奈川新聞」)

記事には、「横浜は縁もゆかりもない」とありますが、経由したことはある。
新島襄の終焉の地も、同じ神奈川県の大磯であり、新島襄は何度も横浜を訪れています。
当時のキリスト教関係者にとっては、横浜は重要な拠点の1つだったのでは。
大山捨松ら、上流階級の女性たちは、慈善活動に熱心でした。
キリスト教の精神を身につけた八重は、尚更のこと、見過ごせなかったのでしょうか。
同志社のために全国から寄付金を頂いた、その感謝の気持ちもあったのかも。

八重は、記事にあるように、横浜の焼野原と戊辰戦争後の故郷を重ねたのかもしれない。
あるいは、「八重の桜」の第16回「遠ざかる背中」では、
慶応2(1866)年8月8日の「孫右衛門焼け」と称される大火を描き、印象的でした。
後々まで語り継がれた大火で、山本家は被災を免れましたが、広範囲で被害が出たそう。
そうした遠い記憶も、八重の中にはよみがえっていたのではないか。

八重に感謝状と木杯を贈った神奈川県知事、周布公平は奇しくも長州藩の出身。
周布公平の父、政之助は、来年の大河ドラマ「花燃ゆ」に登場する可能性があります。
大火の起こった明治32(1899)年12月、神奈川県知事は京都出身の浅田徳則。
ちなみに、八重に感謝状と木杯が贈られた明治36(1903)年の時点で、
同志社英学校の卒業生で、熊本バンドの1人、社長代理を務めた市原盛宏が横浜市長。
その在職期間は、明治36(1903)年1月9日から明治39(1906)年5月2日。
八重への感謝状と木杯授与に、市原盛宏の助言があったりして……。
義援金が届けられたのは横浜市役所のように読めるので、記録が残っていたでしょう。

その周布公平は、明治40(1907)年、神奈川県に第四中学が設立されたとき、
吉田松陰の甥にあたる吉田庫三を、初代校長として招聘しました。
明治42(1909)年、横浜は開港50周年にともなう式典、事業が行われて、
彦根藩士の家に生まれた、横浜正金銀行頭取だった相馬永胤が、
郷里の井伊直弼顕彰碑建立を熱望し、計画。
周布公平には、井伊直弼による「安政の大獄」で吉田松陰を殺された恨みがあり、
元彦根藩士らは除幕記念式典を強行したものの、数日後には、
だれの仕業か、銅像の首が切り落とされてしまった、という言い伝えもあります。
戦時中には金属回収のため撤去され、現在、建っているのは2代目の銅像。
立場は異なりますが、周布公平にとっても幕末は容易には終わらなかったのでした。

追記
見逃していたのですが、「大河ドラマ特別展 八重の桜」のカタログにも、
この感謝状が掲載されており、その解説に、
感謝状の八重の肩書きが、「京都婦人慈善会副会長」であることから、
「慈善会が寄付し、八重が代表で感謝状を受け取ったと考えられる」とありました。

余談
成瀬仁蔵が創設した、日本で最初にできた女子大学、日本女子大学校の学生たちが、
自学自動の教育方針により、実験の際に使う作業着を開発、これが後に割烹着と呼ばれた。
当時、白衣はお医者さんのもの、あるいは、男性のものと思われたのかしら?
あ、白衣では袂の袖が邪魔になるからでしょう。
2013年は、東北帝国大学に、はじめての女子大学生が入学してから100年目でした。
その3人の中には、日本女子大学校から受験した、丹下ウメもいました。
丹下ウメは栄養学者、日本初の女性農学博士となる。
日本女子大学校の第1期生ですが、割烹着の考案に関わったり、着ていたり?
スタンフォード大学に留学した後、理化学研究所で研究に携わった。
日本女子大学校の後輩に、女性ではじめての薬学博士となった鈴木ひでるがいます。
東京帝国大学薬学部薬学科の女子専科生として、両校を往復しながら、黙々と研究した。
戦争が始まると、鈴木ひでるは防毒マスクの研究をしたりしたとか。
地味な着物にひっつめ髪、化粧気もなく、実験用の割烹着姿が印象的で、
「石炭女子」という渾名がついた、のだそうです。
日本のお母さんの象徴みたいな割烹着が、学問する女たちの勝負服だったとは。
いや、家庭だろうが仕事場だろうが、研究室だろうが、場所はちがっても奮闘している。
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