2015
09.30

捨松、華族女学校の設立準備委員になる

Category: 山川家の人々
明治17(1884)年、大山巌は、欧州へ視察旅行に出かけています。
新妻の捨松は、懐妊のために同行はできませんでしたが、夫の留守中、
鹿鳴館でバザーを企画したり、新設の華族女学校の準備委員を任されました。
女子教育に尽くしたい、という夢への接近に、捨松は喜びます。

 親愛なるアリス
 とても忙しくて手紙を書き終る時間さえありません。
 アリス! 今、私の生涯の夢が実現しようとしているのです。
 先日、あなたに書いたように、
 日本の皇室はぜひとも改革を必要としています。
 でもあまり直接的な方法ではかえって実行不可能ですので、
 皇后陛下の御後援のもとに、
 影響力をもった人達の手で学校を設立することを考えています。
 日本には、現在女子のための満足な学校は一つもありません。
 小学校を除いて、女学校は二つしかなく、どちらもひどい状態なのです。
 勿論、ミッションスクールはいくつかありますが、
 それぞれに欠点があります。
 それに、上流階級の人達は娘をミッションスクールには入れたがりません。
 ですから、今日本は本当によい学校を必要としているのです。
 でも、大学はまだ必要ではありません。
 女子に高等教育を受けさせようとする人はいないでしょうから。
 
捨松から見れば、既存の女学校は満足のいく内容ではなく、
「ひどい状態」である、と言わざるをえない不完全さだったのでしょうか。
捨松が、「皇室の改革」にこだわっているのも気になります。

 皇室の改革が、女学校を作ることによって達成されるのですから、
 まさに一石二鳥だと思います。
 皇室がこの学校を援助することになれば、
 当然皇后や女官達が学校を参観するので、
 新しい教育と西洋の思想とが同時に皇室の中に浸透していくと思います。
 
別の手紙では、皇室の改革は何よりも急務であり、
皇后の生活の内情を変えなければならない、とも主張していました。
これは、女官として出仕を始めたばかりの姉・山川操の影響もあるのか。
日本の女性の代表である皇后の暮らしを変えることこそが、
日本の新しい女性を創造することになる、と信じていた捨松の考え方は、
伊藤博文らが宮中の洋装化を実現させたこととも、通じるでしょう。
ともあれ、教壇からではなく、捨松は別の方法で理想実現に近づいていく。

 この学校を設立するための準備委員が二名選ばれ、
 その一人がこの私なのです。
 どこからも干渉されることなく十分に資金援助を受け、
 日本で最も影響力のある人達の支持のもとに、
 私達が最も理想的と思う学校を作ろうとしているのです。
 まさに私がやりたいと考えていたことです。
 もう一人の委員の女性は、
 すでに二年前に女子のための私塾を開いた人で、
 人格者で見識のある経験豊かな立派な女性です。
 女官もしておられ皇后の御寵愛を深く受けているひとです。
 
もう一人の設立準備委員は、美子皇后の信頼の厚かった下田歌子。
この年5月、下田歌子の夫が病気で亡くなっています。
津田梅子は、この年2月、伊藤博文の世話で、
下田歌子の開いた桃夭女塾で教え、歌子から日本語を習っていました。

 初め私はこの申し出を辞退したのですが、
 余りにも熱心に薦められたので受けることにしました。
 伊藤博文氏から、上流階級の女子のために
 ぜひとも新しい学校を作る必要があると理路整然と説きふせられ、
 私は返す言葉もありませんでした。
 伊藤氏は私に次の三つのことを強調されました。
 一つは、私が日本政府によってアメリカに派遣されたので、
 道義的にもこの仕事を引き受ける義務があること、
 次に私が大学卒の学位を持つ日本で唯一人の女性であること、
 そして、最後に私が陸軍卿の妻であるため知名度が高く、
 影響力が大きいからとおっしゃるのです。
   一八八四年三月八日
 (久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』中公文庫、1993年)

捨松や梅子は、留学したときから、伊藤博文に信頼を寄せていたよう。
最初は断った、というのは、長女・久子を懐妊中だったからか。
官費留学生としての道義的な責任、を持ち出されれば、返す言葉もない。
日本ではじめての学士である女性の、本領発揮が期待された。
「陸軍卿の妻であるため知名度が高く、影響力が大きいから」とは、
捨松にとって、もっとも嬉しい理由だったのではないかな、と思われます。
苦悩と迷いの果てに選んだ結婚、それが早くも、
大山巌夫人としての知名度、影響力を認められ、抜擢されたのだから。
そして、華族女学校には、津田梅子が採用されることになります。

ちなみに、上記の手紙の中で、捨松は、
今はまだ女子大学は必要ではなく、それ以前の段階だと書いています。
日本初の女子大学、成瀬仁蔵の日本女子大学校が、
広岡浅子らの協力で設立されるのは、明治34(1901)年のこと。
ここにそう書いているということは、大学も構想の中にあったのでしょう。
女子大学設立の機が熟すには、まだ改革が必要だった。
捨松は、日本女子大学校の設立発起人に名を連ねているのです。
明治30(1897)年、広岡浅子も同席した、第1回発起人会にも出席しました。
(開校式の来賓には、大日本女子教育会の会長の毛利安子(銀姫)も。)
back-to-top