2016
02.29

新島襄はM・ケアリ・トマスに会った?

Category: 八重さん
明治18(1885)年5月8日、新島襄は、フィラデルフィアのモリス邸を訪ねました。
その出会いは、新島襄の日記にもきちんと記されています。
5月6日、ボルチモアのジョンズ・ホプキンズ大学のギルマン学長を訪ね、
佐藤昌介や新渡戸(太田)稲造とともに、夕食に招かれた。
フィラデルフィアに入ったのは翌日で、新渡戸稲造から内村鑑三に、
新島襄がフィラデルフィアに行くことを知らせた、とあります。
内村鑑三がひどい鬱状態であると聞いた新島襄は、内村鑑三に電報。
内村鑑三は、5月8日早朝に新島襄のもとを訪れたのでした。

 明治18(1885)年5月8日(金)〔フィラデルフィア〕
 朝早く、朝食前に内村氏がホテルに私を訪ねてきた。
 非常に愉快な会話をし、彼の将来の計画について話した。
 聖書を読んで祈る。
 彼の告白と、キリストのために働く決意。
 午後、私たちはフィラデルフィアの近くにある
 ペンシルヴァニア州オーヴァーブルックのグリーン・ヒル農場に、
 メアリ・モリス夫人を訪問した。
 そこでミス・トーマスに会う。
 モリス夫人と楽しく話す。
 モリス夫妻は日本人の良い友人である。
 この日内村は、ペンシルヴァニア州デラウェア郡エルウィンの、
 カーリン博士の許へと帰っていった。
 (同志社編『新島襄自伝ー手記・紀行文・日記』岩波文庫、2013年)

日記の記述によれば、新島襄が訪ねたのは、夫妻というより、
女子教育や日本伝道に興味をもっていた、モリス夫人であったようです。
モリス夫人は、フィラデルフィア・クエーカー派婦人外国伝道会の会長であり、
新渡戸稲造と内村鑑三は、モリス邸で日本について話をし、講演料を得て、
その結果、日本にジョセフ・コサンドが派遣されました。
ジョセフ・コサンドは、日本に派遣された、最初のクエーカー宣教師です。
コサンド夫妻が来日したのは、この年の12月というタイミング。
モリス夫人は、新島襄にも日本の教育・宗教事情を尋ねたのではないか。
記されていませんが、モリス邸に宿泊したかもしれません。

気になるのは、そこに「ミス・トーマス」がやってきた、とあること。
「ミス・トーマス」というのは、まさか、ブリンマー大学の2代目学長となり、
奨学金創設のために津田梅子に協力した、M・ケアリ・トマス?
M・ケアリ・トマスは1857年生まれ、このときは28歳か。
ブリンマー大学は、9月の開学をひかえ、このころは最後の準備段階。
M・ケアリ・トマスは、開学1年前から学部長をつとめました。
いわば、大学設立というプロセスを知っています。
土倉政子、松田道子という、同志社女学校ゆかりの才媛が後に留学する、
その縁を考えれば、新島襄がM・ケアリ・トマスに出会えたのなら、
それはもう、モリス夫人の運命的な引き合わせであったとしか思えません。
偶然の出会いだったのか、モリス夫人の配慮であったのか。
大学設立を目指す新島襄は、M・ケアリ・トマスから助言をもらったかもしれない。
(彼女の父は、ジョンズ・ホプキンズ大学、ブリンマー大学の理事でした。
新島襄は、この前々日、ジョンズ・ホプキンズ大学の学長を訪ねた際、
「トーマス博士」とともに夕食に招かれているが、父か関係者でしょうか。)
上記の岩波文庫には、「ミス・トーマス」について、注記はありません。
また、『新島襄全集8 年譜編』(同朋舎、1992年)では、触れられてもいない。
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-3701.html
しかし、「ミス・トーマス」が彼女であるならば、看過できない事実でしょう。

余談
週タイトルは「自慢の娘」、ドラマストーリーでは「夢の山王寺屋」でした。
腰の骨を折った菊は、藍之助を呼び戻してはならないと言う。
「わしが、お母ちゃんの大阪帰りたいゆう最後の望み、断ち切ってしもたさかい」
「お母さまかて、うちの大事なお母さまだす」
養之助、いつのまにかしっかり者に。
雁助一家は、娘も元気になり、神戸でマッチの工場を開いている。
加野屋の大番頭だった肩書で、信用を得ている。
あさは、すっかり元気そう。
新次郎がご機嫌斜めさんなのは、千代の縁談が原因。
平十郎は、給料日前に藍之助を連れ出して、美和のお店に。
「お母ちゃんが、卒業したらお嫁に行けて。もうこれ以上、学問したらあかんて。
顔も見たことない男になんか、嫁ぎたない! うちもっともっと勉強したいのや」
学問はともかく、知らない男と結婚したくないのは、千代も宜も同じ。
千代が嫁入りまで時を置きたいと言ったら、新次郎はご機嫌になり、
嬉しいときに降る、という雨まで。
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