2016
04.30

小橋三四子「天國は近づけり 廣岡淺子刀自を悼む」

Category: 広岡浅子
小橋三四子は、主筆の『婦人週報』第5巻第3号(大正8(1919)年1月17日)でも、
母校設立の恩人であり、敬愛する広岡浅子の追悼文を書いています。
『婦人週報』にとって、広岡浅子はスポンサーでもありました。
親しかった小橋三四子が、浅子がピストル持参で炭坑に入ったと書いており、
また、浅子が多く理解されていなかったとしていて、興味深い内容です。

 「『天國は近づけり』 廣岡淺子刀自を悼む」  小橋三四子

 近く病床の廣岡淺子刀自を訪ふた一日、ベットの上に起き直つた刀自は
 豊頬慈眼して例の如元氣のよい物語を續けて居られた時、
 ふとこんな言葉を洩らされました。
 「生死は神様の思召次第である。
 天に於て爲すべき働らきがあれば、神様は直ぐにもお召しになるであらうし、
 もし地上になほ爲さねばならぬ事があれば、生かして置いて下さるであらう。 
 召さるゝ時には、どうか引止めて下さるな、靜かに祈つて、
 此の霊を神様に渡す力添えをして下さい」と、
 千代もと願つた私の慾心には、この言葉を聞いてもなほ
 「天國は近づけり」との聲を悟ることが出來なかつたのは、
 恨めしくもまた悲しいことであります。
 
これは、小橋三四子が『婦人新報』第259号(大正8(1919)年2月)に寄せた、
「病床の廣岡刀自 嘗てなき輝けるその俤」と題する追悼文に、同じです。
天文学者でヴァッサー女子大学教授、ファーネス女史の訪問も同様。

 十二日の夜は、天文學者フアネス女史と會談の約があるから、
 あなたも傍で聞いて居て下さいとの事に、
 夜に入つて刀自の許を訪れました。
 安樂椅子に倚つた刀自と、
 フアネス女史とが盛んに支那問題社會問題を論ずるその快氣焔を聞いて、
 私は刀自にこの元氣あれば、
 病ひもやがて癒ゆるであらうとの望みを得て喜びました。
 フアネス女史等の辭し去つた刀自の部屋は
 ひつそりと俄かに淋しくなりました。
 「もう少しよいではないか」と云つて引き止められ、
 十時半迄、何くれと語つて居りました。
 「明日から大阪の客も去つて淋しくなるから、また始終遊びに來て下さいよ」
 との言葉を後とにして、お別れしたのが、今生の名殘であらうとは、
 今更らに頼み難い人生に涙を絞られます。 

しかし、以下の内容はさらに詳しく、浅子と小橋三四子の結びつきを示します。

 十三日終日外出して歸つた私は、刀自から
 「今から暇があつたら來てくれぬか」との電話を受けました。
 折柄編輯に差かゝつて居た私は
 「十六日の木曜日には是非伺ひますから」とお断りをしたのでした。
 翌日も終日外出して歸つた私は、突然
 「廣岡淺子さんが今日の午後八時遂に亡くなられました」との電話を、
 同家より受けた時には、只心臓の鼓動のみ高まつて、
 稍(やや)久しく呆然と電話口に立ち盡して居りました。

浅子が死去したのは、大正8(1919)年1月14日のこと。
小橋三四子は、1月12日に浅子とファーネス女史の会談に立ち合い、
ファーネス女史らが帰った後も、深夜10時まで残って語り合った。
13日、帰宅してから、浅子から誘いを受けたものの、編集作業のために謝絶。
16日の木曜日には伺う、という約束は、
毎金曜日発行の『婦人週報』の編集が終わってから、という事情だったはず。
しかし、浅子はそれを待たずに、14日に亡くなってしまったのです。

 冷たい澄み切つた空を仰ぎながら、なほ夢心地の私は、
 麻布材木町の別邸にと急ぎました。
 明後日を約したその人が、今はもう永久に亡いのであつたかと思ふと、
 玄關に入るや否や瀧なす涙を止むる術を知りませんでした。
 三階の病床その儘の室に入れば、生けるが如く横(よこたは)つた亡骸は、
 今にもまた起ち上つて來られるのではなからうかと頼まるゝのでした。
 私はその傍らを去るに忍びず、終に通夜することゝなりました。
 幾度かその顏覆ひを除つては、
 大理石の彫像のやうなその寝顏を凝視めつゝ
 美くしく高い鼻からは宛然(さながら)寝息きの洩るゝかのやう、
 軟かく閉ざした其の眼ざしは、次第に開らくかのやうにさへ思ひなしては、
 なほ死の眞を疑ふのでした。
 私は天父の許に昇り行かるゝ魂を神に托する祈りをも暫しは忘れて、
 只管(ひたすら)にその亡骸に執着の涙を注ぐのでした。

死の床に駆けつけた小橋三四子は、悲しみと動揺のあまり、
「神に托する祈りをも暫しは忘れて」、涙に暮れました。
その病室で、27日の間にしばしば語り合い、貴重なときを過ごして、
浅子の最期まで進歩的な態度、輝きに感動した小橋三四子。

 一代の女傑と唄はれた廣岡刀自はかくして遂に逝かれたのでありました。
 刀自は其の自叙傳にも記されたやうに、夫に別れてさへ、
 涙一滴流さなかつたとふ剛情な處もあつた方でありました。
 世間と人とを毫も恐れずに當の人の面前に善惡正邪の意見を直言し、
 往々言葉は心より過激に失する憂ひもあつた方でありました。
 然しその心情は公明正大にして、些の私心なく、
 常に國家と人類との爲めに憂ひて何物をか捧げんとして居られました。
 殊にその晩年は基督教に入つて、著しい自信力が、
 神の婢(しもめ)としての謙遜なる態度に一變してからは、
 「われに從へ」と云ふ事が出來る程に、
 先づ自ら修養をしなければならぬと氣付かれたのでありました。
 燒くが如き夏の日も、きちんとした洋装をして机に倚る刀自が
 幼兒のやうに真面目に正直に勉強さるゝのを見て、
 私共の怠り多きを思はずには居られませんでした。

浅子の一本気な、誤解されがちでもあった「剛情」な性質がわかります。
その浅子を「一變」させたのが、信仰心でした。
「幼兒のやうに」とあるのが面白く、学問、求道に対しては無邪気だった。

 富あり、地位あり、異常の力のあつた刀自は、實に世の強者でありました。
 さりながら生前の刀自に遇ふ毎に、
 私は多くの場合強者の悲哀を感ぜずには居られませんでした。
 幾人よく刀自を理解して、その眞情を掬み得る者がありましたでせうか。
 その若き日には深窓の令夫人たる者が、ピストルを懐にして、
 鑛夫共を指揮した時に、世人はこれを狂氣したと云ひました。
 事業稍緒について、公共事業に熱誠を捧ぐる折も、
 彼女の熱心彼女を狂氣せしめたと云ひました。
 基督界に入つても、幾多人間の醸した弊害を取掃つて、
 純正な基督の基督教を只管(ひたすら)に求めつゝ行かんとした
 刀自の身邉には迫害も亦少なからずあつたのでありました。
 遂に世に迎合する事の出來なかつた刀自の言語動作は、
 往々事勿れを望む世人を脅かしました。
 そして世人からはその力を富を、常に求めらるゝのみで、
 これに報いらるゝ處は
 或は恨みが多かつたのではなからうかと思はれました。
 しかも不撓不屈の精神は、臨終に及んでも、國家社會を憂へて、
 己のが病苦の慰めさへ求めなかつたのであります。
 友人知己等は、刀自の病床に在ることをすら知らなかつた者が
 多かつたのでありました。

このあたりが、小橋三四子がもっとも熱意を込めている部分。
ピストル持参で炭坑に入った、と浅子自身が話したことがあったのでしょうか。
浅子は、晩年にとりわけ目をかけた小橋三四子には素顔を見せたのか。
「強者」であるはずの浅子に、「悲哀」を感じずにはいられず、
「事勿れを望む世人を脅かし」て、誤解、迫害されることも多々あった、とする。
「幾人よく刀自を理解して、その眞情を掬み得る者がありましたでせうか」
その嘆きや憤り、同情は、小橋三四子ならではの視点です。

 今や死は彼の女の世と人との爲めに憂へた眞情のみを美しく輝やかせて、
 凡ての毀與を葬り去り、いと安らかに、
 天父の許に絶えず住ふ幸を與へました。
 「わが父の家には第宅多し」との約束の空ならざるを刀自はけふ
 明らかに知られた事と信じます。
 刀自は「われなんぢらの爲に所を備へに往く」と云つて
 暫し地上の私共を離れて天國にと急がれました。
 私共はけふより更らに一層天國に親しみを増し、
 憧憬の念を加ふるに至りました。
 願はくは天父よ、彼の女の魂を享け、
 再び逢ふ日迄、恵みと安きとを與へ給へ。
 (『婦人週報』第5巻第3号、大正8(1919)年1月17日、婦人週報社)

小橋三四子がいかに浅子を慕っていたかが伝わる、追悼文です。
浅子が最期に会いたいと願ったのが、この小橋三四子。
浅子は何か、小橋三四子に聞きたいこと、伝えたいことがあったのか……。
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