2016
05.31

広瀬恒子と和久山きそ

Category: 広瀬恒子
明治女学校の第2代校長となる巌本善治が、若松賤子と結婚したのは、
ちょうど広瀬恒子が同志社女学校を卒業した直後、明治22(1889)年7月18日。
若松賤子が「小公子」を訳載し始めたのは、その翌年からでした。
広瀬恒子や竹内梅子が進学した明治22(1889)年は、明治女学校の最盛期。
新島八重をもちろん知る彼女たちは、若松賤子にも会ったでしょうか。
星野天知が明治女学校に招聘されたのも、そのころにあたる。
明治25(1892)年、巌本善治が校長になり、島崎藤村が教員となった。
広瀬恒子は卒業を迎えましたが、星野天知、松井まんとは複雑な関係にあった。
明治26(1893)年、島崎藤村は、星野天知の紹介状を持って、
神戸にいた広瀬恒子を訪ね、島崎藤村は彼女の中に故佐藤輔子の面影を見る。
フィクションや誇張が混じり、彼女たちの関係性はよくわからない。
その恋愛問題はともかく、その後の広瀬恒子も向学心に燃えていました。

 明治女学校を卒業した恒子は、神戸に居を移した。
 それは、新設される
 頌栄保母伝習所の高等科に入学する準備のためであった。
 彼女にこのような決意をさせ、その縁を作ったのは、
 同志社時代の恩師和久山きそ(頌栄幼稚園長・同保母伝習所所長)であり、
 恒子に深い感化を与えた日本における幼児教育の開拓者であった。
 彼女が伝習所に入学したのは、明治二十六年九月である。
 同じ二十六年初めに明治女学校を退職して、関西の旅に出発した藤村が、
 天知の紹介状を持って神戸の彼女を訪ねたのは、
 彼女の準備学習の時であった。
 彼女は、二十八年七月十一日付で卒業した。
 (〈私立神戸頌栄幼稚園ニ於テ二カ年間高等科ノ課程ニヨリ
 幼稚保育法及ビソノ関係学科ヲ履修〉「二月七日付書簡」より)。
 前橋市の清心幼稚園主任として赴任、三十一年に、
 後に初代早稲田高等学院院長となった杉山重義と結婚して、
 家庭の人となって献身的に夫に尽くし、昭和二年に死亡した。
 敬虔真摯なキリスト者であり、
 強固な意志と聡明な知性を持つ、
 情愛豊かな女性であったと伝えられている。
 (伊東一夫『藤村をめぐる女性たち』国書刊行会、1998年)

広瀬恒子は、幼児教育の黎明期の保母でもあったのです。
広瀬恒子を頌栄保母伝習所に導いたとされるのが、和久山きそ。
和久山きそは、明治18(1885)年に神戸英和女学校を卒業し、
同志社女学校に進み、卒業後は、英語教師兼舎監をつとめた才媛でした。
頌栄保母伝習所の第1回生でありながら、オルガン教師と幼稚園保母を兼務し、
卒業後も生涯を頌栄で過ごし、A.L.ハウ女史を支え続けます。
A.L.ハウ女史は、アメリカン・ボードから派遣された婦人宣教師で、
神戸で保母を求めていることをアメリカで訴えたのは、帰省中のD.J.ディヴィス。
頌栄保母伝習所は、同志社ともゆかりがありました。
頌栄保母伝習所は、広瀬恒子らが同志社女学校を卒業したのと同じく、
明治22(1889)年秋に開設されており、ほぼ同時に同志社を巣立ったのでしょう。

留学準備をしていた土倉政子が、明治23(1890)年5月20日、神戸に行き、
「ハラトナン申ス幼稚園教師ノ宅ニ一泊シ」た、と日記に記しています。
その「ハラ」という幼稚園教師も、頌栄保母伝習所の関係者かもしれません。
back-to-top