2016
08.31

『美しい暮しの手帖』第5号の村岡花子

Category: 村岡花子
大橋鎮子と花森安治が、昭和24(1948)年に創刊した『美しい暮しの手帖』。
その第5号(昭和24(1949)年10月)には、村岡花子も寄稿していました。
同号には、佐佐木信綱や吉岡弥生、森於莵なども書いています。


 母と子の書斎  村岡 花子

 母と子の書斎ははじめ、母だけの書斎であった。
 たたみにして六疊は敷けないせまい板ばりのゆかに、
 じゆうたんをしいたガラス戸と障子の部屋である。
 こうして私がこの奇妙な部屋のことを書いていると、
 讀者(というよりも執筆者の中に)すくなくとも一人は
 ここの光景を思いうかべて下さる人がある。
 それは片山廣子夫人で、以前この近所に住んでいられたからである。
 大體、私どもがここへ居をさだめたのも、母校での大先輩であり
 そのうえに佐佐木信綱博士の竹柏園でひとかたならぬ指導を受けた
 片山さんが長年住んでいられるということが、強い引力であったのだ。
 もつとも、そのころの私どもの家の中には
 妻の書斎などというものはなかつた。
 それでも私は結婚以前から文筆に依つて
 いくばくかの収入を得ることを知つていたので、
 家庭の主婦になつてからも、それを捨てようとは思わなかつたどころか、
 むしろ、それに依ることは必要條件でもあつた。
 そして何年かたつた後にようやくのことでこの書斎を建て増したのだが、
 その時にはもはや「妻の書斎」ではなくて「母の書斎」であり、
 私はここで子供を机のわきに寝かしたり、
 行李の中へ入れて遊ばせたりしながら、かきものをした。
 その女の子が今は新制高等學校の二年生になり、
 自分の勉強部屋を切實に要求するようになつた。
 私の書斎は家を建ててから數年を經た後に附けたものだから、
 廊下と廊下の曲りかどのところへ、一段おりてはいるようになつて居り、
 ほんとうに「取つてつけた」と言いたいような妙な工合なのだが
 小さな部屋のくせに、
 奥の一隅ははいつて來て直ぐには分らないようになつて居り、
 そこに机を置いて私は長年仕事をして來た。
 ところが、「母と子の書斎」にここがなつてからは、
 この奥を娘に提供して私は障子をあけると直ぐのところに机を移し、
 門番のようにして仕事をつづけているのだが、
 二人いつしよに勉強していても、めいめいの研究に没頭しているので、
 案外、孤獨を樂しめるものである。
 奥の一隅と私の方との間を仕切るために、「のれん」がかけてあるのだが、
 氣分というものは實に微妙なもので、こののれん一つで、
 完全に二つの部屋としての區別感が出て來る。
 (中略)
 英國のある女流作家が女が部屋を持つということと
 思想の自主生徒の關係を書いていたのを
 いつだつたか讀んだのを憶えているが、
 住宅難の現在自分の部屋を持つなどというのは
 おとぎばなしにも類することかも知れない。
 自分一人の部屋だつた場所へもどんどん他の人がはいつて來るし、
 またほかの人と分ち合うべきである。
 然しながら、昔から日本の住宅建築に於て普通の人々の家の中に
 とくべつに妻の居間というようなものが設計される場合が
 わりあいに少なかつたことは、そのこと自體として、
 反省してもいいことではないだろうか。
 家族の集る部屋としての茶の間も結構そこにだんらんして語り合つたり、
 讀んだり(主として新聞を)裁縫をしたりするのは樂しい。
 けれど、集團生活ーー家族生活ーーばかりあつて
 個人の生活を持つ機會のすくなかつた我が國の婦人はいつの間にか、
 思想内容の貧しいものになつていた。
 考える生活というものは必要である。
 批判するにも、討議するにも、議論するにも、
 先ず考えなければならないのに、
 行きあたりばつたりにとつさの思いつきばかり言うことに
 餘りに馴れてしまつた婦人が多いのではないだろうか。
 (後略)
 (村岡花子「母と子の書斎」/『美しい暮しの手帖』第5号、1949年10月)

このエッセイは、現在、村岡花子のエッセイ集に収録されています。
雑誌に合った題材として、「母と子の書斎」を執筆したはず。
暮らしの形態(主婦、母も自分の部屋を持つこと)が、考えることにつながり、
そして、「思想の自主性」を獲得することへ、という論点は鮮やか。
村岡花子の肩書について、(筆者は婦人評論家)と最後にありました。
当時の活躍ぶりが、そこにも見えます。
雑誌の「あとがき」には、「やつと、ここまで來ました」とあります。
第1号、第2号が赤字で、お餅を用意することもできずに年を越したとか。
「やつと少し先がひらけて來たような氣がするのです」に、安堵。
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