2016
09.30

池田芙蓉(亀鑑)「落城の前」(4)

Category: 八重さん
池田芙蓉(亀鑑)「諸國物語 落城の前」
(『少女の友』第14巻第11号、大正10(1921)年11月、実業之日本社)、
主人公は、「山本八重子」です。
(戊辰戦争時、川崎尚之助の妻であり、川崎八重だったはず。)
大河ドラマ「八重の桜」のヒロインであり、戊辰戦争後、兄を頼って京都に移り、
クリスチャンとなって、同志社の創始者・新島襄と結婚しました。
ところが、この「落城の前」の結末はまるでちがいます。
池田芙蓉が参照したのではないかと思われる、
熊田葦城『少女美談』(実業之日本社、大正10(1921)年5月)と同様に、
ここでの八重は、戦死者を弔うために出家するのです。

 やがて悲しい落城の日はきた。
 義にはやる武士(もののふ)達は、我と我がのんどをうち貫き、
 算を亂(みだ)してそこらにうちたほれた中には
 齡八十をこえた白髪の老人もあつた。
 歳十五に足らぬ紅顏の少年もあつた。
 彼等はお城の焔(ほのお)とともに、
 かうして遠い遠い永劫の廢滅の中に葬られてしまふのだつた。
 このいたましい最後をまのあたり見てきた少女八重子は、
 城外遠くのがれ出て綠なす二八の黑髪をすつかり下(おろ)した。
 げに死するは易く生けるは難い世の習である。
 難きをえらんだ彼女は、その淋しい後半生を墨染の衣につゝみ、
 お城と共に散りはてた少年武士達の英魂を永くとむらつた。

「歳十五に足らぬ紅顏の少年」、「お城と共に散りはてた少年武士達」とは、
史実の八重も語っていた、白虎隊の少年たちを指すのでしょう。
八重は、明治42(1909)年5月、岡山の山陽高等女学校にて、
大正6(1917)年1月、岸和田の泉南女学校にて、白虎隊の話をしています。
彼らの幼い、「英魂」を弔うために、八重は尼になった、というのです。
これは、『少女美談』には書かれていないことです。
「心閑(しづ)かに戰死者の冥福を修す」とあるだけで、明らかではなかった。
池田芙蓉は、世に知られた白虎隊の悲劇を描き込んだのだと思います。
叔母が結い直してくれた「綠の黑髪」を切っての、決断。
八重は24歳であったはずですが、「二八の黑髪」とあるのは、
このとき、「二八」歳の若さであるにもかかわらず出家した、との意味でしょうか。
生き残ってしまった彼女が、その生き難さの中で選んだ、出家の道でした。

 會津城外の桃梨の花、それは幾度びか咲き幾度びか散つた
 逝くものは日々にうとしの例(たとへ)にもれず、
 うつろふものは心なき草木の上ばかりではなかつた。
 定めない人の世をはるかに見下しながら、
 彼女は何時(いつ)までも自らの信ずる所をかへようとはしなかつた。
 烈婦山本八重子、卿(おんみ)の名は、
 いく久しく日の本の乙女の心に深くきざまれることであらう。
 ああ嘈々(さうさう)としてかぎりき琵琶の●韻(ひびき)。
 旅人よ、も早(は)や深い眠りからさめるがいい。
 御身の美しい夢からさめて、あかつき白い飯盛山の霧を眺めるがいい。
 そこに御身は影なきの影をみとめ、聲なきの聲をきくであらう。
 ああ旅人よ、南國の若き旅人よ、
 やがて東には大きな朝日も生れるであらう。
 (『少女の友』第14巻第11号、大正10(1921)年11月、実業之日本社)

この末尾部分は、序文の詩のような筆致と呼応しています。
白虎隊が若い生命を散らした、「飯盛山」も見えます。
大正10(1921)年、鶴ヶ城開城からすでに50年以上が過ぎていますが、
「定めない人の世を見下しながら」、「自らの信ずる所をかへ」なかった、と。
それはまるで、「日の本の乙女」のお手本のような姿なのでしょう。
それゆえに、「烈婦山本八重子」とあるわけです。
この「烈婦」という言葉も、『少女美談』には見えません。
物悲しい琵琶の旋律の響く中、八重は今も、少年たちの菩提を弔っている。
琵琶の音は、平家語りか国を追われた王昭君のイメージなのか。


(挿絵には、自身の和歌を刻んだ白壁に手をつき、涙を拭う八重。)

簡略な内容の『少女美談』を参照したのだとしても、白虎隊のイメージを加え、
格調高い名文は、国文学者・池田亀鑑ならではの筆致と思われます。
ただ、池田亀鑑が史実の八重のその後を認識していたかはわかりません。
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