2016
11.30

萩谷清江の心配

Category: 萩谷清江
末っ子までもが医業の道を継がず、残念に思い、嘆いていた、萩谷清江。

 幼少の頃から病弱であったために、家業の医師を継いでも、
 病気の際に急患の往診を断って死に到らしめることを懼れ、
 かといって、無理をしてその一人は助けても、自分の病気をこじらせて、
 より多くの患者に迷惑をかけるだろうことを憚って、
 浪速高校尋常科四年の時に、高等科理科乙類に進んで、
 大学の医学部を目指すことをあきらめた、
 ハムレットの心境といえば聞こえはいいが、要するに末っ子の甘ったれ、
 (萩谷朴『ボクの大東亜戦争』河出書房新社、1992年)

萩谷朴先生自身には、満州事変による状況の変化以外にも、
幼いころからの病弱、という理由があったようです。
末っ子である上に病弱であったこともあって、母は甘かったのかもしれない。
日本文学研究に進んだ後も、萩谷清江は末っ子を案じていました。

 又、背後にあつて私を支持してくれる妻子や同胞親族に就いては
 今更云うこともないが、懐いを個人の上に及ぼすならば、
 末子である私が家業を断念して文学の道に進むのを黙許してくれた亡き父、
 歌合巻発見の事が新聞紙上に喧伝された
 昭和十四年一月八日、憮然として私を見守り
 「出る杭は打たれるというよってな。」と将来を憂いた亡き母、
 或は歌合巻発見を喜んで「しつかりやれ」と激励された堀部正二氏や
 過褒の言葉を賜つた伊藤寿一氏のことなど、
 二十年の過去にまつわる思い出の種は尽きない。
 (萩谷朴『平安朝歌合大成 第一巻』1957年)

昭和14(1939)年1月8日、京都帝国大学図書館に寄託されていた、
近衛家の古文書の中から、「類聚歌合」を見つけたことが報じられました。
『大阪毎日新聞』には、「国文学の大収穫、
大阪の一学生と助教授の師弟愛 時価百万円平安朝歌合巻を掘り出す」。
この世紀の大発見は、物議を醸し、大きな報道となったため、
萩谷清江も、「出る杭は打たれるというよってな」と心配したのでしょう。
萩谷朴先生がこのように回想してくれて、心をもった面影として、
明治時代に女医になった女性をたどることができて、感動しているのです。
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