2017
07.01

京都府立第一高女『創立六十周年記念誌』

Category: 八重さん
拝師暢彦『京都府立第一高女と鴨沂高校』(京都新聞出版センター、2017年)は、
いわゆる「河原文書」について、解説された沿革史です。
「河原文書」は、明治5(1872)年に新英学校・女紅場が開校されて以降、
京都府立第一高等女学校4代校長、河原一郎が退職する、
大正6(1917)年までの事柄が、7項目にわたって書かれた記録のこと。
それはとても貴重な、校長引き継ぎ書なのですが、
入学者の出身地だとか、卒業生の進路だとかがわかるような、
女子教育の歴史としても、正式な沿革史が望まれるだろう、と思われます。
『鴨沂会雑誌』などが残っており、整理することは可能のはずです。
手許に、春錦會・鴨沂會『創立六十周年記念誌』(昭和7(1932)年)があります。
10月20日から6日間、創立60周年記念式など諸行事が盛大に行われ、
式典には、久邇宮多嘉王、同妃両殿下が来賓されたようです。
歴代校長として、河原一郎の写真も掲載されています。


日本女子大学校の井上秀が、「母校六十周年記念に際して」と題し、寄稿。
井上秀は、記念祝賀第2日目に講演を行いました。
本誌の「舊職員名簿」の中に、「山本やへ」が見えます。

 權舎長兼敎導試補  五、四、二五 八、一一、一七、 山本やへ

「山本やへ」は、「權舎長兼敎導試補」として、明治5(1872)年4月25日に奉職し、
明治8(1875)年11月17日まで在職した、という記録です。
ちなみに、同じく会津藩出身の蘆澤鳴尾は、明治8(1875)年2月7日から、
明治14(1881)年8月26日まで、「一等舎長」として職に就いていたことがわかり、
また、山本(新島)八重の姉、「窪田うら」は、「授業補」の立場で、
明治8(1875)年4月から同18(1885)年8月29日まで、勤めていたとされます。
八重と同僚であったかとも言われることのある、跡見玉枝は、「授業補」として、
明治11(1878)年10月8日から同19(1886)年9月30日まで、在職。
少なくとも、学校内で顔を合わせることはありませんでした。
さらに、純心女子学園を開校する江角ヤスは、大正15(1926)年3月31日から、
昭和4(1929)年4月27日まで、数学の「敎諭」でした。
江角ヤスは、その後、東京の雙葉高等女学校に移った後、
昭和10(1935)年に、純心女学院(長崎純心高等女学校)を創設します。
本誌の巻末は、『鴨沂會雑誌』第71号となっていますが、
2年生の土倉麻の「オリンピック出場記」が掲載されており、注目されます。
ロサンゼルス五輪に出場した、陸上選手の土倉麻は、
広岡浅子とともに日本女子大学校創設に尽力した、土倉庄三郎の孫なのです。
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