京都府立第一高女『創立六十周年記念誌』

拝師暢彦『京都府立第一高女と鴨沂高校』(京都新聞出版センター、2017年)は、
いわゆる「河原文書」について、解説された沿革史です。
「河原文書」は、明治5(1872)年に新英学校・女紅場が開校されて以降、
京都府立第一高等女学校4代校長、河原一郎が退職する、
大正6(1917)年までの事柄が、7項目にわたって書かれた記録のこと。
それはとても貴重な、校長引き継ぎ書なのですが、
入学者の出身地だとか、卒業生の進路だとかがわかるような、
女子教育の歴史としても、正式な沿革史が望まれるだろう、と思われます。
『鴨沂会雑誌』などが残っており、整理することは可能のはずです。
手許に、春錦會・鴨沂會『創立六十周年記念誌』(昭和7(1932)年)があります。
10月20日から6日間、創立60周年記念式など諸行事が盛大に行われ、
式典には、久邇宮多嘉王、同妃両殿下が来賓されたようです。
歴代校長として、河原一郎の写真も掲載されています。


日本女子大学校の井上秀が、「母校六十周年記念に際して」と題し、寄稿。
井上秀は、記念祝賀第2日目に講演を行いました。
本誌の「舊職員名簿」の中に、「山本やへ」が見えます。

 權舎長兼敎導試補  五、四、二五 八、一一、一七、 山本やへ

「山本やへ」は、「權舎長兼敎導試補」として、明治5(1872)年4月25日に奉職し、
明治8(1875)年11月17日まで在職した、という記録です。
ちなみに、同じく会津藩出身の蘆澤鳴尾は、明治8(1875)年2月7日から、
明治14(1881)年8月26日まで、「一等舎長」として職に就いていたことがわかり、
また、山本(新島)八重の姉、「窪田うら」は、「授業補」の立場で、
明治8(1875)年4月から同18(1885)年8月29日まで、勤めていたとされます。
八重と同僚であったかとも言われることのある、跡見玉枝は、「授業補」として、
明治11(1878)年10月8日から同19(1886)年9月30日まで、在職。
少なくとも、学校内で顔を合わせることはありませんでした。
さらに、純心女子学園を開校する江角ヤスは、大正15(1926)年3月31日から、
昭和4(1929)年4月27日まで、数学の「敎諭」でした。
江角ヤスは、その後、東京の雙葉高等女学校に移った後、
昭和10(1935)年に、純心女学院(長崎純心高等女学校)を創設します。
本誌の巻末は、『鴨沂會雑誌』第71号となっていますが、
2年生の土倉麻の「オリンピック出場記」が掲載されており、注目されます。
ロサンゼルス五輪に出場した、陸上選手の土倉麻は、
広岡浅子とともに日本女子大学校創設に尽力した、土倉庄三郎の孫なのです。

Tag:八重さん 

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