憧れの京都府立第一高等女学校へ

京都府立第一高等女学校の創立60周年の記念講演会にて、井上秀は、
母校に対する感謝の言葉に始まり、明治の世にいち早く設立された、
京都府立第一高等女学校の意義を説き、女子教育普及に思いを馳せた上で、
聴衆が母校の後輩であるという、姉妹のような親しさであるからこそ、
自分のことを語り、母校への感謝の意を表したい、と述べます。

 これから私は自分の事を申させて戴きますが、
 若し聽衆が他人ならこんな事は申上げません。
 併し今日はこの學校の生徒並びに卒業生であるといふ事を
 校長先生より承り、從つてそれは親しい内輪であり
 親しい姉妹の間柄でありますから自分の事を申上げて、
 この學校に對する感謝の意を申す事もよいと考へました。

井上秀は、自分が京都の生まれでないにも関わらず、
なぜ京都の女学校で学ぶことになったのか、その経緯から語り起こします。

 皆様は御承知は御座いませんが、私が京都府下の人ではなくして
 この學校に入つた事は、不思議にお考へになりませうが、
 私の郷里は丹羽で兵庫縣に属します。
 東京人は丹羽と云へば大江山を思ひ起し、
 大江山には鬼が出ると云ひますが、私は篠山の近くでありますので
 篠山には熊が出るかと毎々尋ねられる程の片田舎の生れで、
 その山奥からこの學校を選んで入學したのであります。
 それによつても如何に此學校の名前は輝しいものであつたかゞ分りませう。
 私は郷里に於て高等小學校に在學中ーーその學校は郡に一つしかなく
 私の村よりは二里許り離れてゐて通へないので
 學校に寄宿して勉強してゐましたがーー
 その學校に於る私の最も尊敬した先生がこの母校の卒業生でありまして
 その方より裁縫、作法をお習ひしました。
 その方は寄宿舎の舎監で毎日京都の女學校のお話を伺ひ、
 どうかしてその學校に行きたいと子供心にも強く熱望して居りました。
 高等小學校を卒業すると、家に歸り、京都に出して呉れと兩親に頼みました。
 兩親は頑固な人でどうしても許しが出ず、
 爲に直ぐに京都に來られず、彼此する中一二ケ月も經過しました。
 私の學んだ小學校は男女の共學でありましたが多くは男性で
 僅に女子は三人でその一人は卒業後直ちに此學校に入學して居られました。
 私はどうしても堪らなくなりましたが父は女のする事をせよ。
 高等小學校で結構だといつて許されず
 毎日親の後へついて歩いて願ひましたので父は根負けして
 又親戚の人にも頼んで父を總攻撃しました。
 やつと許可を得て、第二學期から此處に來ました。
 其時は生徒の數も少かつたので中途よりの入學を許されました。
 それも今日より考へますと不思議なことです。
 私の郷里より京都迄は二十里餘もあつて其當時は汽車はなく、
 朝早く起きて車にのり一日借り切つて、
 途中一泊して又車に乗り續け翌日京都に着しました。
 斯様に道も不便な爲京都に入學を許さなかつた兩親の心持も
 今日になつてよく察せらるゝのであります。
 入學の際には本とか着物、蒲團を持つ供を一人連れて父に送られ、
 供は其荷物を棒につなぎ肩にかけて此を擔ぎながらついて來たものです。
 (春錦會・鴨沂會『創立六十周年記念誌(昭和7(1932)年)

京都から「二十里餘」も離れた、兵庫県丹羽の篠山出身という、井上秀。
10歳で氷上郡各町村組合立氷上高等小学校に入学し、寄宿舎に入ったとか。
そのときの舎監の先生が、奇しくも京都府立第一高等女学校出身で、
母校の話を聞いているうちに憧れを抱き、友人も入学しました。
ところが、井上秀の両親は反対をし、時間をかけて説得して、二学期から編入。
15歳の井上秀、入学後は勉強の遅れを取り戻すために苦労したようです。
寄宿舎では、広岡浅子の娘である亀子と同室になります。

Tag:女子教育 

四季の花時計
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
FC2カウンター
プロフィール

もも

Author:もも

カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
月別アーカイブ
最近のコメント
最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索