2017
07.23

井上秀、今井まき子先生に学ぶ

Category: 広岡浅子
井上秀が京都府立第一高等女学校を目指したのは、舎監の先生の影響でした。
『井上秀先生』(桜楓会出版・編集部、1973年)に、同窓会誌の掲載された、
井上秀の「大略の自伝」にも、そのことが回想されています。
(小林いと子「日本女子大学桜楓会の母ーー井上秀先生ーー」)

 かくして、だんだん、勉強しているうちに次第に向学心に燃え
 もつと高い教育をうけたいという心になるものであります。
 成松の佐野の十七歳になる富治というのが、
 東京の第一高等学校へ入学しているのです。
 その勉学の姿がうらやましく、ぜひ、
 私も遊学しようという憧憬をもつようになりました。
 私はこの親類の青年からも刺激されましたが、もつと深く、
 私の遊学を刺激したのは柏原高等小学校の、
 舎監で裁縫の先生の今井まき子先生でありました。
 この方から、『女に学問などいらないという事は古い考えである。
 これからは女子も大に勉強して国家につくす人とならなくてはいけない
 それには京都府立高女が尤もよい学校です』とはげまされたのです。

明治、大正時代の女学生にとって、舎監の先生の存在は大きい。
井上秀にしても、幼いながら寮生活を送る中で、今井まき子先生の影響で、
「女に学問などいらない」は古い考えである、と教えられて、
しかも、京都府立第一高等女学校に対する憧憬を抱く契機を与えられた。

 私は京都府立第一高等女学校へ入学しました。
 恩師、今井先生はここの出身なので、先生と同じ学校で学ぶということは、
 幼い私にとつて、実に心ゆく、たのしい事でありました。
 ところが、教室で数日経つてみると、大変な困難にぶつつかりました。
 どの学科でも新入学生にとつてはむづかしかつたのです。
 とにかく、京都府立第一高等女学校は、当時関西第一流の名高い学校で、
 すべてに亙つて、高度の教育が施されていました。
 校風も体潔学習も程度が高いところから、四国から、九州から、山陰から、
 この学校で学びたいと志願して入つている娘たちが多かつたので、
 自然、粒ぞろいでした。
 『みんな頭がいいな』と私はすつかり感心して了つたのです。
 そして、負けまいと私も勉強心をふるい起したのですが、
 私の実力はすべて低いというわけではありませんが、残念な事には特に、
 英語は事情上就学期より一月位おくれて入つた私なので、
 すでにナショナルリーダーの(三)を西洋人が教えて居る
 何もかも英語で話されるので、そのクラスで呆然としてしまいました。
 『何でもみんなに追つつきたい…』と切に思い入つた私は
 土手町にあつた学校の寄宿舎を英語学習のために出る決心をして、
 手紙で、今井先生に相談しました。
 親切な今井先生は京都へ出て来て下すつて、先生の知人の、
 もと宮中へお仕えしていたという老女の、
 丸太町の家へ下宿が出来るようにして下さいました。

今井まき子先生も、京都府立第一高等女学校の卒業生でした。
英語の勉強のために、寄宿舎から一時的に移った下宿も紹介してくれた。
『鴨沂會々員名簿』(『鴨沂會誌』第73号附録、昭和8(1933)年)には、
管見の限り、残念ながら「今井まき子」は見つかりません。
(井上秀の出身の兵庫県、明治19(1886)年卒業「(今井)酒井まさ」、
明治16(1983)年卒業で住所不明の「岡本まき」が見える。)

 学ぶ処は当時の英語塾で、教えてくれる先生は同志社の上級の生徒
 所謂先生一人に生徒一人という個人教授を受けました。
 私は毎夜々々、そこに通つて勉強しました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

宮中にお仕えしていたという、その老女の家は、旧新島邸と同じ丸太町。
そうではないあ、と思っていたように、英語塾は同志社に関わりがありそうで、
同志社の上級生に個人教授を受け、井上秀は首席を取ったのです。
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