「私の家え泊りがけでまいりましょう」

井上秀は、「大略の自伝」に、広岡浅子や亀子について詳しく書いています。
主席の座を守ろうと勉強に励んだ、井上英と同様、亀子も勉強好きだったよう。

 一生懸命に勉強したのは、私ばかりではありませんでした。
 私の親友、広岡カメ子さんも孜々と勉強いたしました。
 二人は親友でありました。
 心のやさしい広岡さんは、土曜になると私は次のように云つて誘いました。
 『井上さん、私の家え泊りがけでまいりましょう。』
 広岡さんは大阪のいとはんでした。
 旧幕時代の広岡といえば、諸大名に重宝がられた両替の老舗で、
 「加島屋」といい非常に商売繁昌であつたのですが、
 明治初年から十二三年頃にかけての世の中の大変動のため、
 昔通りにはゆかず、多くの老舗と同じ衰亡の運命にあがきました。
 そんなドサクサのうちに、老父母は死に、嫁の浅子さんは男まさりの女性であり、
 勉強して、智識もありましたから、立派な着眼点から、
 「加島屋」ののれんをもと通りにしようと、陣頭に立つて、奮闘されました。
 そして、私がカメ子さんについて、広岡家へ行つた頃には(明治三十年頃)
 御宅は土佐堀で銀行業を営み大分復興せられてをりました。

京都の女学校の寄宿舎で同室だったという、井上秀と広岡亀子は親友でした。
広岡亀子に誘われて、井上秀は、土曜日になると大阪の広岡家に行き、
広岡浅子には、娘同然にかわいがられていました。

 私ども二人の顔を見ると、アサ子さんは大歓迎して下さいました。
 親許を遠くはなれて来ている遊学の身の私には、
 激励の辞を惜しみませんでした。
 我娘同様に、もてなし、いつくしんで下さいました。
 二人は、きれいな部屋で、蒲団を並べて母上の左右で、やすみました。
 又食事も三人膳を並べてという実に温かい取扱を受けました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

井上秀、このような広岡家、浅子との交流がなければ、どうだったでしょう。
日本ではじめて女子の大学校ができる、と聞いたのも、浅子からだったのです。

余談
「ひよっこ」、みね子と島谷くんの恋愛模様は、思ったよりも早くに急展開。
それにしても、いろいろな出来事の目撃者となっている邦子。
家族と縁を切ろうと切り出した島谷くん、でも、そのときにこそ、時計が鳴る。
みね子がシンデレラでいられた時間は、恋の時間は、終わる。
「何も持ってない人になってしまうんだ、俺」
「お金なんてなくてもさ、自分らしく生きられれば」
……そんなことが言えるのは、今、お金を持っている人だけだ。
「まだ子どもなんですね、島谷さん。そんな簡単なことじゃないです。
貧しくてもかまわないなんて、そんな言葉、知らないから言えるんです。
貧しい、お金がないということが、どういうこどなのか、
わがんないから言えるんです。いいこどなんて、一つもありません。
悲しかったり、悔しかったり、寂しかったり、そんなこどばっかしです。
お金がない人で、貧しくてもかまわないなんて思ってる人は、いないと思います。
それでも、明るくしてんのは、そうやって生きていくしかないからです。
生きてぐのが、嫌んなってしまうからです。そうやって頑張ってるだけです。
私は、貧しくてもかまわないなんて思いません。
それなのに、島谷さんは、持ってるもの捨てるんですか?
みんなが欲しいと思ってるものを、自分で捨てるんですか?」
「私、親不孝な人はきらいです」
半分は本音、半分は怒らせようとしたのかな。
島谷くんみたいな人は、幸子と結婚した雄大のようになれない。
「ありがとう。すてきな人を好きになれてよかった」
あの指輪も、ビートルズのチケットと同じで、自分で稼いで勝ったわけでない。
「すてきな人を……」と言った島谷には、どこかでやはり迷いがあったのだろうか。
そして、また時報が鳴り、みね子は20歳になった。
父親の代わりに出稼ぎに来たみね子、父親の事業を助けるために戻る島谷。
(島谷とはこれで終わるのか、家を再建して迎えに来る王子さまか、まだ不明。)

Tag:広岡浅子 

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