2017
07.24

「私の家え泊りがけでまいりましょう」

Category: 広岡浅子
井上秀は、「大略の自伝」に、広岡浅子や亀子について詳しく書いています。
主席の座を守ろうと勉強に励んだ、井上英と同様、亀子も勉強好きだったよう。

 一生懸命に勉強したのは、私ばかりではありませんでした。
 私の親友、広岡カメ子さんも孜々と勉強いたしました。
 二人は親友でありました。
 心のやさしい広岡さんは、土曜になると私は次のように云つて誘いました。
 『井上さん、私の家え泊りがけでまいりましょう。』
 広岡さんは大阪のいとはんでした。
 旧幕時代の広岡といえば、諸大名に重宝がられた両替の老舗で、
 「加島屋」といい非常に商売繁昌であつたのですが、
 明治初年から十二三年頃にかけての世の中の大変動のため、
 昔通りにはゆかず、多くの老舗と同じ衰亡の運命にあがきました。
 そんなドサクサのうちに、老父母は死に、嫁の浅子さんは男まさりの女性であり、
 勉強して、智識もありましたから、立派な着眼点から、
 「加島屋」ののれんをもと通りにしようと、陣頭に立つて、奮闘されました。
 そして、私がカメ子さんについて、広岡家へ行つた頃には(明治三十年頃)
 御宅は土佐堀で銀行業を営み大分復興せられてをりました。

京都の女学校の寄宿舎で同室だったという、井上秀と広岡亀子は親友でした。
広岡亀子に誘われて、井上秀は、土曜日になると大阪の広岡家に行き、
広岡浅子には、娘同然にかわいがられていました。

 私ども二人の顔を見ると、アサ子さんは大歓迎して下さいました。
 親許を遠くはなれて来ている遊学の身の私には、
 激励の辞を惜しみませんでした。
 我娘同様に、もてなし、いつくしんで下さいました。
 二人は、きれいな部屋で、蒲団を並べて母上の左右で、やすみました。
 又食事も三人膳を並べてという実に温かい取扱を受けました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

井上秀、このような広岡家、浅子との交流がなければ、どうだったでしょう。
日本ではじめて女子の大学校ができる、と聞いたのも、浅子からだったのです。

余談
「ひよっこ」、みね子と島谷くんの恋愛模様は、思ったよりも早くに急展開。
それにしても、いろいろな出来事の目撃者となっている邦子。
家族と縁を切ろうと切り出した島谷くん、でも、そのときにこそ、時計が鳴る。
みね子がシンデレラでいられた時間は、恋の時間は、終わる。
「何も持ってない人になってしまうんだ、俺」
「お金なんてなくてもさ、自分らしく生きられれば」
……そんなことが言えるのは、今、お金を持っている人だけだ。
「まだ子どもなんですね、島谷さん。そんな簡単なことじゃないです。
貧しくてもかまわないなんて、そんな言葉、知らないから言えるんです。
貧しい、お金がないということが、どういうこどなのか、
わがんないから言えるんです。いいこどなんて、一つもありません。
悲しかったり、悔しかったり、寂しかったり、そんなこどばっかしです。
お金がない人で、貧しくてもかまわないなんて思ってる人は、いないと思います。
それでも、明るくしてんのは、そうやって生きていくしかないからです。
生きてぐのが、嫌んなってしまうからです。そうやって頑張ってるだけです。
私は、貧しくてもかまわないなんて思いません。
それなのに、島谷さんは、持ってるもの捨てるんですか?
みんなが欲しいと思ってるものを、自分で捨てるんですか?」
「私、親不孝な人はきらいです」
半分は本音、半分は怒らせようとしたのかな。
島谷くんみたいな人は、幸子と結婚した雄大のようになれない。
「ありがとう。すてきな人を好きになれてよかった」
あの指輪も、ビートルズのチケットと同じで、自分で稼いで勝ったわけでない。
「すてきな人を……」と言った島谷には、どこかでやはり迷いがあったのだろうか。
そして、また時報が鳴り、みね子は20歳になった。
父親の代わりに出稼ぎに来たみね子、父親の事業を助けるために戻る島谷。
(島谷とはこれで終わるのか、家を再建して迎えに来る王子さまか、まだ不明。)
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