2017
07.27

広岡浅子について詳細に

Category: 広岡浅子
井上秀は、「大略の自伝」の中でも、広岡浅子を詳しく紹介しています。
最愛の弟を失った後も、井上秀は、大阪に出かけました。

 例の通り私は大阪土佐堀にある広岡家へまいります。
 浅子夫人は御自分の娘と私とを前に座らせて、
 いろいろいい事を話してくれました。
 私たち以外にもお知り合の家の令嬢も何人か出入して、
 まことにたのしい雰囲気が浅子夫人中心にかもし出されていたのです。

広岡浅子の周囲には、井上秀のほかにも、ご令嬢たちが集まっていた。
だからこそ、広岡亀子も、井上秀を自宅に誘ったのでしょうか。
「女傑」と言われても、怖れられるわけではなく、慕われていた浅子なのでした。

 広岡浅子夫人は日本の黎明期である明治初年から三十年にかけて、
 男勝りな賢婦人の一人として衆目を集めた方で、三井十家の中の一家で、
 東京安藤坂にある三井三郎氏の令姉に当る方であります。
 広岡家に嫁がれる前「家訓」により、料理、裁縫、手芸、音楽等
 女としての芸能一わたりのことは暗くなく、しかも天資明朗で、
 闊達な所謂やりてで、政治経済は勿論教育にも
 進んだ識見と理解を持つた方でありました。
 当時政治界で活躍して居られた伊藤博文侯、西園寺侯、大隈伯
 その他の名流の人々にも多くの知己を持たれた人でありました。
 広岡家は加島屋と申し、大阪では屈指の素封家で、
 維新前は諸大名に金を貸したり、
 両替をしたりする仕事をして居つた家でありましたが、
 維新の改革で、廃藩置県の変動に逢い、
 家産は全く蕩尽に帰した後を受けてその家運を盛り返すため、
 一方には銀行業を営み、他方には九州嘉穂郡の炭坑を所有し、
 その経営に自ら当つて居られるという、実に女丈夫の存在でありました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

ここまで詳細に「大略の自伝」に記すほど、井上秀にとって、
広岡浅子の存在は大きく、恩のある人であったということなのでしょう。
また、女子教育の歴史において、特筆すべき人と考えていたのではないか。

余談
「ひよっこ」、みね子がコマーシャル出演(生放送)。
台詞はお父さんへの呼びかけ、いつもモノローグはお父さん宛てだけど……。
そこに居合わせたのは川本世津子、みね子の運命をどう変えるのか。
ラブシーンを演じるときも、お金をもらって靴を買うことを考える。
(働く、ということに、華やかな女優もウエイトレスも根本的に変わらないのだ。)
それは何だか、島谷くんとの別れのときの、みね子の台詞を想起させる。
みね子の父が2年前に行方不明、と聞いた、川本世津子。
実の写真を見るときの川本世津子の表情から、もう予感と確信が視聴者の胸に。
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