2017
08.31

広岡浅子と成瀬仁蔵の出会い

Category: 広岡浅子
井上秀の娘の菅支那は、母の人生を記す中で、広岡浅子についても詳述。
広岡浅子は、梅花女学校の先生の紹介で成瀬仁蔵にはじめて会ったのだとか。
この文章が書かれた当時、広岡亀子は94、95歳でご存命、と注にあります。

 広岡夫人は政治経済はいうに及ばず、
 教育にも進んだ識見と理解のある方であった。
 そして、当時、政界で活躍しておられた伊藤博文侯をはじめ、西園寺侯、
 大隈伯、財界では渋沢子爵、大和の土倉庄三郎氏、
 夫人の弟三井三郎助氏、その他多くの知名の士に知己を持つ方であった。
 実は、土倉氏の三人の娘子たちが通っていられた
 梅花女学校の先生の紹介で、夫人は成瀬先生と会われたと聞いている。
 先生から送られた『女子教育』を九州の炭鉱に行かれる途中、
 繰り返し三回も通読し、この人は助けるに足る人物と考えられて、
 女子大学設立の発起人の一人となられたわけである。
 夫人の助け方も通り一辺のものでなく、それは熱烈な援助で、 
 月に何回も上京して、校門をくぐるという有様であったとか。
 浅子夫人は主として資金あつめに尽力され、
 その不思議な秘術を授けて、若い女性たちを導かれたという。
 そうした御縁で、母も何回か、母校や桜楓会の事ある毎に、
 成瀬先生の命のままに、募金に東奔西走している。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

梅花女学校は土佐堀にあり、広岡家から遠くはないはずで、
その梅花女学校の先生による紹介で、広岡浅子は成瀬仁蔵に出会い、
そして、その手になる『女子教育』を読むことになった。
広岡浅子自身、成瀬仁蔵に出会った経緯を次のように話していました。

 私が女子教育についていささか考えを持っていることを知って、
 いろいろな人が尋ねてきまして、何学校を設立するとか、
 何女子学校を計画したいとかおっしゃって、
 私の賛成と尽力を求めてきたことがずいぶんたびたびありました。
 しかし、これらの人々の教育主義を聞きますと、
 まったく私の主義と違っています。
 ですから、とても私の希望する婦人を養成することはできないと思い、
 いずれも断っておりました。
 そんな中、明治二十八年の頃でした。
 成瀬先生がある人の紹介で私の自宅においでになり、
 先生の著書『女子教育論』をくださって、
 この書の主意によって学校を設立したいから賛助してほしいと言われました。
 その当時、私はまだ、それを助ける気持ちはございませんでした。
 折から、私が計画した事業のために九州に下り、
 そこに滞在することになりましたが、そこでその『女子教育論』を繙き、
 はじめて先生の女子教育に対するご意見に接することとなりました。
 繰り返して読みましたことが三回、先
 生の主義についてご熱心であることは自然にその書の上に表れていて、
 私はこれを読んで感涙が止まらなかったくらいでした。
 そこで私は、この人こそ真に女子教育を託すべき人、
 また自分の希望する女子を養成することができる方だと信じました。
 それで微力ながらも、できる限りの尽力をすることを承諾しました。
 (『超訳 広岡浅子自伝』KADOKAWA、2015年)

広岡浅子と成瀬仁蔵の運命の出会いがあったのは、明治28(1895)年。
同じ年、井上秀は、親友の亀子を通じて、広岡浅子を知りました。
成瀬仁蔵は、明治26(1984)年から梅花女学校に復帰し、校長となったのです。
まだ出版される前の『女子教育』を手渡された、というわけでした。
この当時は、土倉庄三郎の娘たちはすでに梅花女学校には在籍せず、
同志社女学校に編入、卒業していたはずです。
ただし、菅支那は、土倉庄三郎の娘3人と書いていますが、4人の誤りか。
(富子、政子、双子の糸、小糸。)
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