2017
08.01

広岡亀子も入学予定だった

Category: 広岡浅子
井上秀は、「大略の自伝」で、日本女子大学校の開校当時を回想しています。
日本初の女子のための大学校は、学生数510人の船出でした。

 日本女子大学の最初の学生数は、家政学部八四人、国文学部九一人、
 英文科一○人、英文予科三七人、高等学校二八八人、計五一○人、あつて、
 その中の二人が広岡亀子さまと私であるべきでしたが、入学少しまえに、
 亀子さまには縁談がまとまつた関係で私一人入つたのでした。
 級友には、故丹下梅子さん、鹿児島出身(後には理学博士)、
 佐久千代子さん(東京家庭裁判所調停委員)、
 末次のぶ子さん(海軍大将夫人)などの方々がありました。
 何しろ、日本始まつての劃期的な女子大学であるから、
 世の視聴の集中点となつたことは事実で、些細なことまで、
 新聞の記事となり、世間から騒がれたものでした。
 東京の人々は通学しましたが、私たち地方から出ましたものは
 校内の桜の木立のここかしこに設けられた寄宿舎に入りました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

広岡亀子もやはり、入学の予定があったのは確かで、
一柳恵三と縁談が調ったために、結局は入学しなかったことがわかります。
手許の、玉岡かおる『負けんとき 上巻』(新潮文庫、2014年)によれば、
広岡家の慶事は明治35(1902)年、開校の翌年になります。
英文科を志望していた井上秀は、家政科に入りました。
英文科には僅か10人のみが入学ということで、難易度の高い学科だったよう。
同じ第1期生として、ここに名前の見える佐久千代子による追悼文が、
この『井上秀先生』)桜楓会出版・編集部、1973年)にも再録されています。
佐久千代子は、井上秀が寮監をつとめる第一寮に入りました。
大岡蔦枝も入学していますが、ここには名前がないのは少し不思議です。

余談
「ひよっこ」、一番大事なのは、実が生きていて、また会えるということ。
(由香の母や愛子の恋人には、もう会えない。)
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