2017
08.02

三輪田真佐子、中嶋歌子も教えた

Category: 広岡浅子
井上秀、日本女子大学校の開校当時の教職員についても記しています。
明治35(1902)年に三輪田女学校を開校する、三輪田真佐子の名前も見えます。
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-3743.html

 当時は学生で洋装のものは一人もなかつたのです。
 いづれも和服に紫の袴といういでたちでした。
 教師は校長、学監の外に当時の、学界で有名な人ばかりで
 東大より化学の長井長義博士、生理学では大沢謙二博士、
 衛生学には三宅秀博士等、漢文が市村瓚治郎先生、
 国文は小杉褞邨博士等何れも堂々たる先生が五十三名で
 漢文に三輪田真佐子先生、和歌は中嶋歌子先生、
 三宅竜子先生その他外国婦人等もありました。
 教授の招聘については入念の人選をされたとの事でした。
 中に女の先生では、前のべたように、
 とかく世間から奇異の眼で見られているので、
 いつでも私共の心の中にあつた事は、自分達の浅慮から世間の悪評を買い
 後進女性のさまたげとなつてはならぬと、いづれも慎み深く進退いたしました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

校長の成瀬仁蔵、学監の麻生正蔵のほか、一流の先生が集まりました。
日本ではじめて創設された、女子のための大学校ということで、
「世間から奇異の眼で見られている」と自覚していたのは、女性教員も女学生も。
それは、広岡浅子も、女学生たちに諭していたことでした。

 私が参りますたびに、あなた方が実力、
 品性ともに進歩しつつあることを見まして、実に喜ばしく存じます。
 まことに光陰は矢のごとく、成立後もはや三年の星霜を経まして、
 今一年で第一回卒業生の出るときが参ります。
 これらについて世の中の人はいかにりっぱな女子が出るかと
 大いなる望みを込めて待っております。
 ですから、皆様が卒業後、社会に出ていくにあたっては、
 大いなる忍耐と注意とをもって、この学校の目的を達しなければなりません。
 もしもあなた方が失敗をなさったならば、あなた方一人に止まらず、
 学校全体の失敗となり、学校全体の失敗は日本女子教育の失敗となり、
 日本女子教育の失敗は国家の進歩発展に大きく関係を及ぼします。
 言葉を代えて言えば、我が国が興るか否かは、
 あなた方の双肩にかかっているところの運命なのです。
 実にあなた方の責任は重大です。
 (広岡浅子『超訳 広岡浅子自伝』KADOKAWA、2015年)

これは、開校から3年後ですが、広岡浅子の女学生たちに向けたスピーチ。
成瀬仁蔵も意識していたと思いますが、日本女子大学校は実験でした。
510人の船出となった日本女子大学校は、緊張感と使命感に満ちていたのです。
彼女たちを育てようとする教職員は、まさに責任を感じていたはずです。

余談
「ひよっこ」、実が見つかったことを、誰か綿引さんにも知らせてあげたのかな。
洋服で、結婚指輪をつけていく、美代子の心細さと妻としてのプライド。
どちらの、美代子の気持ちはもちろん、川本世津子の思いもわかってしまう、
そういうみね子に、お母さんだけを見てなさい、と愛子のアドバイス。
それは、みね子だけではなくて、視聴者もどちらにも共感してしまってつらい。
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