2017
08.03

女子を人として、婦人として、国民として教育する

Category: 広岡浅子
井上秀が、「大略の自伝」の中で、日本女子大学校の教育理念も詳述するのは、
日本女子大学校こそが彼女の人生であった、ということでしょうか。

 大学の教育方針は、成瀬先生が、
 明治二十三年十二月より同二十七年一月帰朝まで、
 アメリカで研究された新知識で草された
 「女子教育」という著者の綱領にもあるように
 先生は女子を「人として」「婦人として」「国民として」教育すべきであると、
 つよく主張しているのです。
 その頃の公私の高等女学校の教育方針は何といつても
 女子を機械視し若しくは芸人視し、随て目前実用の知識芸能を授けるに止まり、
 更に人たるの教育に及ばなかつたことを喝破され、
 従来のような良妻賢母の内容が「茶の湯」「生花」「裁縫」「料理」を
 昔のままに伝習する技芸教養のみに止まらない一般教養に重きをおき、
 しかも円満なる人格修養を中心とする教育のあり方を説かれて、
 どうしても徳育、智育、体育に重きを置き高遠な学術的修養がいる。
 殊に「国民として」の教育に至つては、国民の責任を解し、よく男性を理解し、
 その一半の努力を担うべきものであると力説されているのです。
 以上の三大理念にもとづいて、日本女子大学の教育方法は創始されました。
 その教育方法として先生の強調されたのは
 自学、自修、「自治」という事でありました。
 先生の訓言に「自ら為し自ら治める生活法は、
 自動的意志の社会生活上に於ける発表で、人生のあらゆる場合に必要である。
 日本の教育は余り教師によりかかり過ぎて居るから自力に延びない。
 殊に女性は独立の気象を失い、自らによる力もない。
 学事も生活も女子自己の意志判断力を基調として、自ら学び、自ら為し、
 自ら治める即ち自覚するということを強調された一面には
 必ず他人のある事を予想している。
 即ち自治の意は孤立でなく、共同生活の方法である」
 という文字があります。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

明治の世に、女子を「人として」「婦人として」「国民として」教育する方針は、
やはり画期的であったのでしょうし、教育方法としては、
「自学」「自修」「自治」を掲げ、その象徴が寄宿舎における共同生活でした。
井上秀は、その寄宿舎の寮監となり、成瀬仁蔵の教育を実践していくのでした。

余談
「ひよっこ」、愛子の助言でみね子が母の思いに寄り添うならば、
私は何か、川本世津子の側に共感してしまう……。
玄関で美代子を見た世津子が、ちょっと戸惑うような表情だったのは、
お芝居ではなく、本当の妻として、母として生きてきた美代子を見たからでは。
一方で、大したことない服のほころびを気にしてしまう美代子……。
美代子も恐かっただろうけれど、世津子も恐かったはず。
家族写真を直視できない、世津子。
「出ていってほしくなかったんです。
いけない、まちがっていると思いながら、
いつか、そうしなければならないと思いながら、そのままにしてしまいました」
「楽しかったです、一緒にいるのが。
確かに、この人は、谷田部実という人なのかもしれません。
でも、ここに来た日からは、名前のない人でした。
雨の日に出会ったので、雨男さんと呼んでいました。
はじめて、早く家に帰りたいと思った、生きてきてはじめて、そんな時間でした。
でも、やはり、許されることであるわけなどなく、
偶然みね子さんと知り合ったのも、そういうことだと思います」
美代子は、「谷田部実」という、ちゃんと名前のある人を探してくれと言ったけど、
世津子にとっては、実は、「名前のない人」だったんだ。
(幼いころも、世津子が家に帰りたいと思うような、そういう家庭はなかった。)
世津子は、「谷田部さん」の荷物をもうまとめていた。
そのボストンバッグを見つめる美代子も、世津子の覚悟を受け取っただろう。
美代子、みね子は、世津子にお礼も言えたけれど、実は言ってない。
世津子も、実に「(楽しい時間を)ありがとう」とは言っていない。
みね子が島谷さんに、「ありがとう」と言えずに別れたことと対なのかな。
愛子は、何も知らない世津子の孤独をなんとなく察したのではないか。
愛子も、世津子と同じ、女1人で生きてきたのだから、どこかで察したのでは。
だから、みね子に「お母さんだけを見ていなさい」と助言したと思う。
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