2017
08.09

卒業後も寮監を続ける

Category: 広岡浅子
井上秀は、卒業後も、寄宿舎の寮監を担い続けることになります。

 家政学部卒業の私は、成瀬先生の御考えで母校にとどまり教職につきました。
 従つて引きつづいて、敷島寮の寮監として
 又新入学生の指導者としてあけくれました。

日本女子大学では、昭和44(1969)年まで、寮監制度が続きました。
また、寮監を経験した中から、日本女子大学校の教員が育っています。
井上秀、大橋広、上代タノという、校長・学長もそうです。
敷島寮は和洋折衷の寮舎で、「二寮」として設立されました。
大岡蔦枝も、卒業後、寮監を歴任しています。
広岡浅子は、寮生に対する援助、指導も怠らなかったようです。

 本校の創立に力をつくして下された広岡夫人は、
 二ケ月め三ケ月めには大阪より上京されて、学生及び、寮生に、
 真にかゆいところへ手のとどくおはからい、又御談話をして下さいました。
 そして、明治三十七年四月第一回卒業生が、唱して、
 桜楓会設立という事となりました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

明治37(1904)年3月、29歳の井上秀は、第1回生として卒業します。
同時に、同窓会組織の桜楓会が発足し、井上秀は幹事長に選ばれました。

余談
「ひよっこ」、奥茨城の女子会は「母の会」だから、高子は参加しないのね。
川本世津子は、きれいだし、丁寧で品がよくて、悪口言えない。
スリッパにこだわる美代子、肌に触れたから実感するのかな。
毅然としていた川本世津子は嘘をついていない、と美代子。
実は嫌になって逃げだしたんじゃない、と実の眼を見て、鈴子が信じたように。
「もう一回、私のこど、好きんなってくれっかなあ」
(記憶を取り戻したから戻るよりも、覚えていなくても、
また妻をもう1度好きになって一緒に暮らす方が、尊いかもしれない。)
ひらがなの多い、川本世津子からの手紙。
「先生は、おそらく、どうしようもなくりふじんで、
おそろしく悲しいことが起きてしまったときに、それについて考えたくないという、
つよい気もちからきているのだろう、と言いました」
同じ回で、生真面目な文字のみね子、達筆な綿引さんの手紙が映り、
ひらがなの多い川本世津子の手紙から、彼女の過去が自然と浮かび上がる。
教育をあまり受けていない、だから、役のための勉強が好き。
寝ながら歌ってしまう愛子さん、寝ながら踊ってしまう管理人さん。
実も、田植えの時期に帰りたいと思ったのは、農家の血がそう思わせたのか。
バスの車掌の次郎さん、ワンマンカーになって車掌の仕事はなくなる。
奥茨城を出る人、帰ってくる人も、見守っていた次郎さん……。
(奥茨城では、おばさんとかおじさんでなく、みんなが名前で呼び合っている。
その名前を忘れてしまい、川本世津子は「名前のない人」を「雨男さん」と呼んだ。)
家族に深々とお辞儀をする実は、なんか戦争から帰った人みたいな。
いや、この日も(ロケの日がたまたまだろうけれど)雨の再出発。
記憶があるとかないとか関係なく、実に抱きつく進。
これは、戦争から戻って、人が変わってしまった宗男のエピソードと対なのかな。
宗男がビートルズの来日で、ある意味、戦争を終わらせたように、
お父ちゃんの戦争体験は語られていないけれど、これで谷田部家は戦後になる?
鈴子や省吾にとっては、由香が戻ることがそれかもしれない。
あの重箱はまだすずふり亭、いつか家族で訪れる場面があるのだろうと思う。
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