2017
09.01

井上秀、広岡家で成瀬仁蔵に出会う

Category: 広岡浅子
菅支那によれば、井上秀が成瀬仁蔵にはじめて会ったのは広岡邸であった。

 母が成瀬先生に出会ったのは、広岡家においてであったが、
 日本女子大学創設案が既に具体化され、入学者募集の時期でもあったので、
 浅子夫人の導きもあって、その第一回生として入学している。
 この女子大学創立に先だち、先生が最も苦心されたのは、
 女子大学の教育を推進する中心部ともいうべき、
 寮生活の指導に当たる寮監の選定であったという。
 東京女子高等師範学校出身の穂積銀子、
 横浜のフェリス女学院出の平野はま子、
 大阪梅花女学校の雛田千尋などの方々で、穂積夫人を除けば、
 何れも先生の敎育理想に白紙でついて行ける無名の新人であった。
 その中の一人に母も選ばれ、一方では、家政科の学生でありながら、
 他方では、寮監として先生の仕事を助けることになっていた。
 そして、卒業と同時に組織された、
 母校教育の社会的延長である桜楓会の幹事長、
 同会が社団法人に改組されてからは、理事長の役をつとめたわけである。
 その間、附属高女では家事と化学を教え、渡米して研究、
 帰朝後は大学部で家政学を担当する。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

菅支那は、日本女子大学校の附属女学校の出身ですが、
穂積銀子には家事を学び、平野浜子には英語と修身を学んだ、といいます。
ここには、開校当時の寮監として、雛田千尋の名前が見えます。
雛田千尋は、成瀬仁蔵が創設した新潟女学校に入ったものの中退し、
明治30(1898)年、東京女子師範学校を卒業、堂島女学校の教師となり、
その後、日本女子大学校の附属高等女学校の地理、歴史の教師になった。
しかし、『日本女子大学校四十年史』(日本女子大学校、1942年)には、
開校当時の寮監の中に、雛田千尋は書かれていません。
梅花女学校とも関わりがなく、これは玉木直子の誤りかもしれない。
ちなみに、雛田千尋は、井上秀が幹事長をつとめていた、
明治39(1906)年から明治40(1907)年の桜楓会の役員として、
大岡蔦枝や小橋三四子、平野浜子らとともに名を連ねてもいました。
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