2017
09.02

井上秀も亀子とともに泊園書院に?

Category: 広岡浅子
井上秀は、京都府立第一高等女学校で特に英語の勉強に励み、
東京に出て、明治女学校あたりに進学したい、と望んでいたのでしたが、
弟の病死によって、井上家の家督相続の問題がふりかかりました。
そして、卒業の翌年にあたる明治28(1895)年に安立雅二と結婚します。
ところが、予想に反して、井上秀は結婚によって自由を得ることになりました。
井上秀の娘、菅支那は次のように書いています。

 已むを得ず、これも勉学途上にある父と婚約したので、
 引き続き研究に打ち込んでもよい境遇となった。
 再び、浅子夫人の御好意で、亀子様の勉強相手をすることになり、
 漢文、殊に泊園書院の藤沢南岳師について、孟子を学んだ。
 そして、「何ヲカ浩然ノ気トイフ。至大至剛ニシテ、
 直ク養イテ害フコトナケレバ、即チ天地ノ間ニ塞ガル」
 という一節にぶつかってしまった。
 弟の急死という人生の一大事に出くわしたことなどにも刺激されて、
 所謂人生問題に悩んだのであろう。
 南岳先生の講釈はわかっても、その浩然の気の養い方がわからない。
 単なる学問をしても実際の役に立たぬのではと、なおも探求を続けて行った。
 そして、父の知人で水戸の志士だった、
 儒者にして禅学をやる鈴木無隠居士に紹介され、
 嵯峨天竜寺の峩山禅師に見(まみ)えることになった。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)
 
さて、ここに「泊園書院」とあることで思い出すのは、先の報道です。
広岡浅子の娘である亀子が、関西大学の源流である、
大阪の私塾「泊園書院」で明治期に学び、「登門録」に名が見える、と記事に。
この「登門録」に、井上秀は載っていないのかどうかはわかりません。
しかし、菅支那による筆致からは、泊園書院に所属していたように読めます。
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-4004.html

余談
仕事の転機とプライベートの転機は、否応なく重なってしまうのかもしれない。
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