2017
09.03

井上秀、仕立て物を請け負う

Category: 広岡浅子
京都府立第一高等女学校を卒業した後の井上秀は、何をしていたのか。
広岡亀子とともに泊園書院の藤沢南岳について、漢文を学び、
禅に励んだりしていただけではなく、仕立て物を請け負ったこともあったとか。

 母は渡米を前に、二人の若い助手格の先生
 ーーそれが誰であったかは勿論知る由もないーーと帰省したことがある。
 洋装をするため、すでに不要になった
 衣類の整理をこの方々にして頂いていたのであろう。
 同窓の大岡蔦枝先生や岡野たか姉の話を総合すると、
 母は京都府立第一高女卒業後、
 生活のため衣類を仕立てる特技を生かしていたとのことである。
 従って、衣類に関しその扱い方、処置の方法など、
 母は相当の見識を持っていたものと考えられる。
 そしてその際、何着かの着古した袴を田舎の家において、
 渡米したものと思う。
 それらを小さく改造したものを、私は小学校二、三年頃よくはいた。
 既に着古されて、生地が弱くなっているので、
 通路狭く並べられた教室の机から、人知れず出ている釘でかぎざきをして、
 度々繕ってもらわねばならなかった。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)


(留学に際し広岡夫人から贈られた服を着用して/同書より)

明治41(1908)年5月から、井上秀は、米国留学を果たします。
その際、広岡浅子から贈られた洋装で記念写真を撮っていました。
留学に際しては、広岡浅子のバックアップがあったでしょう。
京都府立第一高等女学校を卒業してから、日本女子大学校に入るまで、
すなわち、明治27(1894)年3月から明治34(1901)年4月まで、
少なくとも、東京の英語塾に入る明治33(1900)年までの6年間は長い。
その間に結婚や出産もしていますが、その間の生活を成り立たせるために、
得意だったという裁縫の腕を生かし、働いたということのようです。
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