井上秀、広岡家の令嬢を預かる

京都府立第一高等女学校を卒業した後の井上秀は、何をしていたのか。
広岡亀子とともに泊園書院の藤沢南岳について、漢文を学び、
禅に励んだりしていただけではなく、仕立て物を請け負ったこともあったとか。
さらには、女学校の後輩の大岡蔦枝は、次のように書いています。

 井上先生は廿一才、京都市三本木町の柳原伯の別邸内の一棟洋館におられ、
 友人の土居原氏と共に禅の修業をされて居り、
 広岡家の令嬢二人を託されて居られた。
 私は十八才の九月から翌年の四五月頃迄そこへ
 お世話いただくことに成ったのである。
 (中略)
 井上先生は京都府立高女の卒業生ですが学校では秀才の方だと評判でした。
 広岡の令嬢も私も同じ高女で学ぶ時代でした。
 扨て其当時から先生は広岡家との関係もあり、
 又成瀬先生よりのご指導を受けて居られた様であります。
 その因縁で私も後に女子大学に入学する機会を得たことになります。
 この九月廿一日に母校校葬の由これは尤なことと思います。
 成瀬先生、麻生先生につぐ母校への貢献者は井上先生であります。
 井上先生は開校前五、六年間も成瀬先生、広岡浅子夫人に指導を受けられ、
 開校後に女子大にて働らき得べき必要なる教養を受け
 実施の修業を致された方であります。
 先生のご令弟の夭折に依り、ご両親のご希望にて婿君に雅二君を迎えられ、
 長女支那子様をあげられました。
 扨てその後は女子大開校の時に入学、活動のための準備に当られました。
 開校前一ケ年余り英国婦人宣教師の女子寄宿舎に先生は入られ、
 英語の勉強はもとより、洋風の礼儀作法等を学んで居られました。
 私も三ケ年間ばかり邸内別棟、日本食事の方でお世話になりました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

これは、『桜楓新報』第145号(昭和38(1963)年9月)掲載の追悼文です。
井上秀(と広岡亀子?)は、ミス・カーの英語塾に学びましたが、
「洋風の礼儀作法等」も身につけ、そこの寄宿舎に入っていた、とあります。
成瀬仁蔵としては、「洋風」の寄宿舎生活も経験させたかったのではないかしら。
また、大岡蔦枝も、その寄宿舎の別棟で暮らしたことがあったよう。
ここで注目すべきは、明治29(1896)年、井上秀が21歳のとき、
「三本木町の柳原伯の別邸内の一棟洋館」で、友人の土肥田京子とともに、
「広岡家の令嬢二人を託されて」おり、大岡蔦枝は、
そこにも「十八才の九月から翌年の四五月頃迄」いた、という点でしょう。
明治11(1878)年生まれの大岡蔦枝は、18歳で京都府立第一高等女学校を卒業。
卒業後は、同校の補修科で学んでいたそうですが、
そのあたりに、井上秀や土肥田京子とともにいた、ということでしょう。
「広岡家の令嬢二人」とは誰のことなのか、うち1人は亀子?
それとも、小藤が生んだ娘たちのことか。 
それにしても、それが柳原家の別邸であったというのも面白い。

余談1
ついに「ひよっこ」がクランクアップ、お疲れさまでした。
最後の場面は、みね子とヒデがすずふり亭から出かけていくところ。
劇的な何かが起こるというよりも、「ひよっこ」らしい日常で終わるのかな。

余談2
私は武井咲さんに期待していて、ここで結婚、産休というのは、
彼女の女優さんとしてのキャリアを考えれば、もったいないなとも思う。
でも、それはこちらの勝手な思い込みであり、彼女の幸せはわからない。
仕事の転機とプライベートの転機は、否応なく重なってしまうのかもしれない。
人生経験が糧になる女優の仕事、キャリアは続くはず。
早くも芸能生活10年以上、普通の23歳よりもずっと大人でしょう。
次々に仕事を入れるのは期待の表れだろうけれど、働き過ぎだった。
昨年7月から主演ドラマが続き、売れっ子とはいえ、尋常ではないスケジュール。
反発というよりは、そこからの逃避が恋愛だったんじゃない?
結婚、妊娠で批判されるのはお相手より武井さん側ばかりなのも、疑問。
たとえば、イオンのCMなんて、これを逆手にとって、
妊婦さんでも安心な商品紹介、出産準備もイオンで、とかどうかしら。
スーツの青山も、産休まで働く女性のためのゆったりスーツとか。
女性の人生に寄り添う企業って、素敵ではないか。

Tag:広岡浅子 

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