2017
09.06

井上秀や大岡蔦枝、開校前に入寮

Category: 広岡浅子
井上秀や大岡蔦枝は、日本女子大学校の開校式よりも早くに寮に入り、
開寮のための準備に尽力して、いろいろと苦労をしたようです。
大岡蔦枝は、次のように書いています。

 女子大学は明治三十四年四月二十日が開校式でしたが、
 私は寮監の先生方と共に四月初めに女子大の寮舎に引移りました。
 それは、井上姉が第一寮に引移られたからであります。
 私も井上姉と共に寮舎に移りました。
 勿論、それ以前の三月頃に、
 成瀬先生が校内の校舎にお引越しになる時にお手伝に参り、
 引続いて麻生学監も校舎にお引移りになりましたが、
 そのお手伝も致しました。
 今思い出しても気恥ずかしいことは、
 校長宅の玄関へ帽子と外套掛けを十個並べて大工に打たせた事であります。
 後、井上姉に注意されて各室に二、三個づつ分けて、
 玄関へは三個だけ残した事であります。
 その後にも、校長宅へ伺う毎に思出しては、一人で苦笑して、
 私の二十歳頃は物を知らない田舎者であって、
 いかにも常識の欠けた自分であった事を思出しています。
 それでは今日はどうか、という事になりますが、今もやはり田舎者でございます。

成瀬仁蔵は、女学生たちの寮の近くに自宅を構えましたが、
その引っ越しも、麻生正蔵の引っ越しも、井上秀や大岡蔦枝が手伝った。
開寮準備が一段落して、勉強に集中できるまでは、大変だったよう。

 明治三十四年四月の始めに、寮監先生五、六人と一緒に
 私も寮舎生活を始めましたが、各寮の寮開きのお手伝を毎日致しました。
 校内の裏北側の街道に沿って和風寮七寮が建築されてありましたが、
 第一寮から第七寮迄の一と通りの掃除から、
 台所、洗面所等にそれぞれ必要な品々を整えることなどまで致しました。
 そして私は第五寮へ落着きました事であります。
 その当時、五寮へは入学と同時に
 二十四、五名の学生が入寮されたと記憶致しております。
 私は和歌山の生れで京都高女でありましたが、
 五寮には丁度関西の方が多く入寮されたので、好都合でした。
 明治三十四年開校の年の十二月頃、各寮に寮名をつけましたが、
 私共は成瀬先生の「成」と麻生先生(当時学監)の「生」をいただき、
 成生寮と寮名をつけ、その意味は、女子大に入学して精神的な霊が覚醒、
 即ち生れて、在学中に教養されて成長するとの内容を持たせて、
 大いに誇りと致した事であります。
 私等の寮にはなかなか女中が得られず、
 又寮監も第四寮の平野浜子先生が兼任をして、
 私等の寮である第五寮の面倒を見て下さっておりましたから、
 主婦役の私とクラスメートの野原けい子様とは、
 女中代りから時には寮監代理迄致さねばならなかった境遇でありました。
 開校当時の三、四ヵ月は夢中で暮しました。
 (大岡蔦枝『成瀬仁蔵先生』三月書房/古川志都子、1966年)

寮監となった井上秀や平野浜子らとともに、大岡蔦枝も開寮準備に尽力。
関西出身者が多かったという第五寮は、なかなか寮監が決まらず、とあります。
日本女子大学校編『日本女子大学校四十年史』(日本女子大学校、1942年)には、
開校当時の第五寮の寮監は、石原咲となっていますが、
当初は、第四寮と兼任で平野浜子がつとめていた、という事情らしい。
後には、平塚らいてうも、大岡蔦枝と同じ寮に入ることになります。
開寮準備で苦心したことは、井上秀も書いていました。

 私は先生のお敎に感じ入りまして、お示しの通りの家政科に入りましたが、
 こゝには實に私の不得手なもの、
 さうして他の何の學問よりも興味のないものが揃つてをりました。
 第一家政には根本にサイエンスの力が必要なのに、
 あゝいふ女學校を出た私にはそちらの方面の用意が乏しい。
 ほんとうをいへば私はもう人の妻であり母にもなつてゐたのですから、
 家政の方面では他の若い人々よりはいくらか分つてゐねばならない、
 こまかいことにも氣がつきさうなものなのですが、
 妻ではあつても夫は直きに海外に發つてしまつて、
 しみじみ家庭生活といふものを味はふ暇はなかつたのですし、
 子供はあつても國元で父母が育てゝゐてくれるのですし、
 相變らずの女書生、先生から寮監を命ぜられて、他の寮監の方々、
 先生ではフエリス女學校から見えた平野濱子さん、
 穂積陳重氏のお兄さん夫人の銀子さん、
 生徒から選ばれた方では丹下花子さん、
 また現在の神谷忠雄氏夫人などでしたが、
 集つて寮舎の道具を集める相談の際にも、
 穂積さんがお臺所の用品の方に龜の子笊までを落ちなく數へられる傍で、
 私はその龜の子笊が何なのか分らなかつたといふ始末。
 萬事この有様でどうも勝手が分らない。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

「あゝいふ女學校を出た」というのは、井上秀だけでなく、
大岡蔦枝も同じですが、勉強中心だったという意味でしょうか。
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