井上秀と広岡郁子

井上秀は、米国留学から戻ると、借家暮らしを始めたとか。
井上秀の娘、菅支那は、次のように回想しています。

 足かけ三年の留学を終えて、母は母校講堂の東側にあって、
 豊明村と呼ばれた一群の寮舎に隣した
 --今の附属中学体育館のあるあたりでもあろうかーー
 老松町の借家で、今までとは全く異なった生活を始めた。
 その隣には広岡郁子姉のお邸があった。
 明治四十四年頃のことである。

故郷の両親に預けていた長女の菅支那も、翌年には引き取られ、
成瀬仁蔵にも対面して、日本女子大学校附属高等女学校に入学しました。
井上秀が住んだ借家は、広岡郁子の邸の隣であった。
広岡郁子は、井上秀が敬愛する広岡浅子の姪であり、日本女子大学校に入る。
大阪の広岡家に滞在する井上秀に、幼い頃からかわいがられました。

 先生を思います時、先ず胸に浮ぶ第一の印象は私の幼なかりし頃、
 一口に申せば小学生時代です。
 先生はお国の丹波から京都府立第一高等女学校へ御入学、
 私のいとこ広岡亀子と同級生、
 其の上同じ寄宿舎生活をせられたので極めて親しい間柄でございました。
 学校がお休みになりますと先生は一度は御帰国になりますが
 又直ぐ広岡の宅に来られ、浅子伯母や亀子さん達と共に
 まるで家の者同様にして楽しく御過しになりました。
 伯母の家は広岡家の新宅として本家に隣接して
 大阪土佐堀一丁目に建てられ勿論裏の方からは同じ家の離れ同様
 毎日行ったり来たりの親しい両家でございました。
 私も其の頃はずい分先生と一緒によく遊び、又よく可愛がって頂いたものです。
 ほんとうに其の頃の事を考えますと、万感交々、
 今あの時代に又ちょっとたち帰ったような気が致します。
 そして伯母や私の両親がよく、
 お秀さんお秀さんと先生をおよびしておりましたあの声も
 何処からか聞えて来るようで御ざいます。
 それから数年後成瀬先生が伯母を訪ねてお越しになりました。
 勿論先生の長い夢であった女子大学創立に関する事でありました。
 成瀬先生は度々御来訪、又長く御泊りにもなって
 大阪の其頃の重要な人々とお話し合になり、
 愈々先生の夢は大阪の地で実現する運びになたのであります。
 しかし熟考の結果日本最高の学府としては
 やはり東京が適当という意見の一致を見、以来成瀬先生も伯母も
 殆ど東京に出て計画の実現に終始し三井家其他の甚大なる御協力もあって
 遂に現在の目白台に我国初の女子大学が創設されたので御座います。
 井上先生はお一人娘さんであるため、
 お家の方から反対も出ましたが押し切って御入学、素志を貫ぬき
 遂に立派な卒業生として成瀬先生の片腕ともなり、
 昭和六年から二十二年までは校長として目醒ましい御活躍、
 又私共の桜楓会大阪支部の最初からの育ての親ともいうべき
 御恩に預かったので御座います。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

広岡郁子にとって、井上秀は、小学生時代の遊び相手であり、
先輩であり、恩師である、忘れがたい人だったよう。
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Tag:広岡浅子 

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