徳富一敬と横井小楠

徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」冒頭部分、原器になった蘆花=敬二は、
主の能勢又雄=横井時雄の留守中は特に、男手として頼られていたようです。
一方で、協志社=同志社に編入するための勉強に励みました。
13歳のときに入学し、2年して退学、また6年を経て再び入ろうとしているのです。
そして、蘆花は、聖書の和訳を試み、学費にしようとしていました。

 敬二は受驗勉強の外に、英文和譯をして居た。
 英文は協志社宣敎師の中で學者と名のあるラールニングさんの
 新約聖書路加傳註釋の原稿で、又雄さんがそれを基礎として取捨刪補を加へ、
 ラールニング能勢又雄共著として出すことになつて居た。
 敬二が伊豫でしたラールニングさんの『天主敎論』の翻譯と共に、
 此翻譯料を又雄さんは敬二の學資に宛てるつもりであつた。
 
「ラールニングさん」とは、同志社のラーネッドでしょう。
明治18(1885)年3月、岡山で『天主教論』が徳冨健次郎訳として出版されたとか。
蘆花の上洛は明治19(1836)年だから、その前年のことになる。
翻訳料を同志社に復学する学資金にしよう、という横井時雄の考えだった。

 敬二の家はもとさして富むと云ふ程では無かつたが、
 地方の郷紳として相應に地所なども持て居て、敬二の父は
 其恩師がまだ一寒儒の昔財政上にもをりをり報謝の機會を有つて居た。
 恩師の二姪が維新前米國に渡る際なぞは、
 敬二の父は喜んで祖先傳來の封銀に熨斗をつけた。
 天馬空を行く英靈活潑な師は馬鹿律儀でこせこせして居る其弟子を
 物の數とも思はなかつたであらう。
 弟子は其師の歿後四十幾年百歳近い老翁となるまで
 師の命日には遺墨の前に涙を垂れて居た。
 師が京都の寺町通りで刺客の刃に斃(たふ)れた其日、
 二百里を隔てた郷里で、敬二の父は師に群がる刺客を父自身
 ばつたばつたと片端から斬り倒す夢を見た。
 總じて己を後に、人の爲に、と云ふのが祖先傳來敬二が家の家風であつた。

徳富家の父、一敬にとって、横井小楠を師と仰いでいました。
坂本龍馬が横井小楠を訪ねたとき、徳富一敬も同席していたのだとか。
門下に入りつつ、また、スポンサーでもあったということか。
「恩師の二姪が維新前米國に渡る際」にも、相当な算段をしてまで援助をした。
その「二姪」というのは、横井小楠の甥にあたる横井佐平太と太平。
横井小楠の兄、時明の子で、アメリカではジョン・フェリス氏の世話になっている。
しかし、「財には疎」かった徳富一敬は、しだいに経済的に苦しくなった。

 敬二の父も母も財には淸く利に疎い人々であつたので、
 父が地方での顕官になつて門戸が廣くなると共に、
 出るものは入るものより多く、父が官を辭し敬二が人心つく頃は、
 父母の當惑顏を見ることが一再ならずあつた。
 敬二が父母の家を出て又雄さんの世話になる時、父は恒の心を失はぬ事、
 耶蘇敎に熱心のあまり他敎を誹議したりせぬ事と二ケ條の訓誡と共に、
 月々五十錢を呉るゝ事を宣言した。
 伊豫に來ると間もなく、
 英語の初歩を敎へて月々二三圓の収入が出來ることになつたので、
 敬二は例の無分別から直ぐ郷里に月々五十錢の送金を辭した。
 其後は一時自炊をして見たり、食道樂をはじめたり、經濟っが自然に亂れて、
 伊豫を去る時は信者仲間の菓子屋や書店に多少の借金が殘つて居た。
 京都に來ては、敬二は一文の錢もなかつた。
 (『徳冨蘆花集 第11巻』日本図書センター、1999年)

蘆花は、明治18(1835)年3月、熊本のメソジスト教会において受洗しました。
ちょうど熊本に来ていた横井時雄も、洗礼式に立ち会ったといいます。
伊豫=今治の横井時雄の世話になりながら、蘆花は「英語の初歩」を教えていた。
教会がつくったと思われる英学校にて、英語を有志に教えていたらしい。
実家も逼迫する中で、蘆花もまじめに働き、努力をしていたわけです。 

Tag:山本久栄 

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