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村岡平吉(1)

花子が村岡儆三と結婚したのは、大正8(1919)年。
築地教会で久布白落実の夫、直勝牧師の司式により挙式し、精養軒で午餐。
それほど正式な結婚のプロセスだったのに、花子は、後々まで、
すでに70歳近かった、舅の村岡平吉と結婚した、と誤解されることがあった。
東洋英和女学校の先生にも、「なぜそんな年寄りと結婚したのだろう」と不思議がられ、
慌てて学校に駆けつけて説明したこともあった、と回想しています。
村岡平吉は、「バイブルの村岡さん」と呼ばれ、福音印刷の創業者。
日本のみならず、インドや中国、フィリピンの聖書も一手に担っていた会社で、
印刷史にその名を残す村岡平吉は、それだけ有名な人物だったのです。
関東大震災で会社が焼けたときには、村岡平吉は他界していた。
設立にも関わった横浜指路教会で盛大な葬儀が執り行われ、また、
「横浜貿易新報」は、「印刷界の先覚者、村岡平吉逝く」と伝えました。

 その舅は大正十一年五月に世を去った。
 会社創立二十五周年を祝って間もない頃であった。
 二十五年の事業が烏有に帰するのを見なかったことが
 彼の最大の幸福だと私は思っている。

花子と儆三は、負債を抱え、生活を再建するのに大変な苦労を強いられた。
結果、花子が家計を支えることになりました。
妻を早くに亡くし、息子たちを厳しく育てたという村岡平吉ですが、
信仰的なつながりも強かったせいか、花子のことをとても可愛がってくれた。
花子を「my dear」と呼び、「大事な嫁だ」と言って憚らなかったとか。

 結婚してすぐ横浜の久保山墓地の村岡家の墓地にまいったが、そのとき、
 「村岡ハナ子の墓」という墓碑が立っていたのでどんなに驚いたことか、
 いまだに忘れないそれは平吉の妻の碑であった。
 (村岡花子「バイブル」『腹心の友たちへ』河出書房新社、2014年)

村岡平吉の妻は、花子と同じ、「はな」という名前でしたから、
戸籍上は、儆三の母と妻はそろって「村岡はな」だったことになります。
村岡平吉、儆三と花子も、その久保山墓地に眠っています。
花子は、愛する夫が生まれ育った横浜という土地にも懐かしさを感じていました。
中華料理を食べに、みどりさん一家とともに中華街へも出かけた。
甲府で生まれましたが、住所は東京の大森、本籍地は横浜太田町でした。
「横浜歩道」(いずみ通信社)という小さな雑誌に、エッセイの連載もしています。

「花子とアン」の中の村岡平祐は、関東大震災後まで生き延び、
村岡印刷が倒産し、次男の郁弥が亡くなって、生きる希望を失いましたが、
花子や英治が頑張り、青凛社を立ち上げるのを見届けました。
歩の死によって落ち込む花子、英治をそっと支えたのも、村岡平祐です。
仕事と家庭を両立させる花子に疑問をもつなど、キャラクターの差異も見られました。
それでも、余震に怯える子どもたちが、花子の童話で慰められるのを見て、
史実の村岡平吉と同じように、最晩年には、花子の夢を理解していたはずです。