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山川操のロシア留学

山川操は、その語学力によって、宮内省御用掛として出仕しました。
中村彰彦『山川家の兄弟 浩と健次郎』(学陽書房/人物文庫、2005年)には、
「年月日不明ながらロシアに留学し、フランス語を身につけた」、
「操は十七年二月以前に帰国し、二月十二日、宮内省御用掛に任用された」とある。
操は、戊辰戦争の後、旧会津藩士の小出光照と結婚しましたが、
明治7(1874)年、小出光照は、佐賀の乱に出征し、戦死してしまいました。
その後、山川家に復籍、ロシアに留学した、と考えられているのみだったのです。
しかし、操の留学の時期や経緯が明らかになりました。
今泉宜子『明治日本のナイチンゲールたち』(扶桑社、2014年)は、
宮内庁宮内公文書館に残る、『進退録 女官ノ部』の操子の履歴書を確認。
それによれば、操の留学は、公立柳北女学校や学習院で教えた後のことでした。

 山川操が海を渡った先はロシアだった。
 これは明治十三年五月、
 特命全権公使としてロシアへ赴任した柳原前光に同行し、
 初子夫人の世話役を命じられたことによる。
 ちなみに大正天皇の生母で
 「早蕨」の源氏名で呼ばれた女官・柳原愛子は前光の妹であり、
 年下の恋人との駆け落ち、いわゆる「白蓮事件」で世を騒がせた柳原白蓮は、
 前光の妾腹の娘にあたる。
 操と同じく柳原一行に加わった尾崎三良の自叙伝には、
 「明治十三年五月末頃、柳原全権公使と共に横浜より仏国汽船にて解纜。
 一行には柳原夫人、付添女小出、書記生二人、
 高田正久、曲木如長、予と共に都合六人なり」とあるが、
 この「付添女小出」が操のことだ。
 ほぼ二年間にわたるロシア滞在中、
 操は「佛人ロールネール女」に従ってフランス語を学んだ。
 特命全権公使夫人の付き添いとして渡欧するというケースは、
 鍋島栄子に随行した北島以登子と重なる。
 操に対して、以登子が拝命したような
 「伊国内廷諸礼式取調」に相当する申し付けがあったという記録はない。
 が、その期待を帯びてのロシア行きだったのではないかと推察される。
 というのも、そもそも柳原前光がロシアに赴いたのは、
 ヨーロッパ各国の王室制度の調査を下命されたからだ。
 背景には岩倉具視や伊藤博文の周旋があったという。
 (今泉宜子『明治日本のナイチンゲールたち』扶桑社、2014年)

すなわち、操のロシア留学は私的なものではなかったわけでしょう。
背景に操自身の向学心があったのでしょうが、なぜ白羽の矢が立ったのか、
柳原前光の妻、初子の付き添い役という、公的な役割を帯びていた。
帰国後の柳原初子は、鹿鳴館で活躍しました。
そして、操は、フランス語を「佛人ロールネール女」から教えられた。
操と同様に、明治17(1884)年に御用掛となり、権掌侍、
英語担当の通訳であった北島以登子は、イタリア特命全権公使の鍋島直大の妻、
英子に従ってローマに渡りましたが、そのとき、宮内省は以登子に対し、
「伊国内廷諸礼式取調」を申し付けていた、という記録が残っている。
操にも、同じような役割が期待されていたのかもしれない。
山川三千子が、通弁の権掌侍たちがカタログを見て皇后の洋服を考えた、
と証言していることも、北島以登子へのこの申し付けから納得される気がします。

操がロシアに渡った明治13(1880)年、捨松はまだ帰国していません。
捨松と津田梅子が帰国したのは、明治15(1882)年11月21日。
寺沢龍『明治の女子留学生』(平凡社新書、2009年)によれば、姉の二葉とともに、
ロシアから戻っていた操は、横浜港で捨松を迎えています。
なお、当時の操は、「フランス人の家に住みこみ通訳として活躍し」ていたのだと、
久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』(中公文庫、1993年)にあります。
捨松と大山巌の結婚は、明治16(1883)年11月8日。
翌年2月、操子を宮内省御用掛として推挙したのは大山巌でした。
小泉宜子氏の調査によって、操の履歴がようやくわかってきたのです。