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最愛の弟の死

井上秀は、最愛の弟の死を経験して、より勉強に励むようになりました。
弟、井上順太郎は、チフスにかかり、明治25(1892)年8月、15歳で死去します。
京都から帰省するのも、この弟に会いたいからでした。

 弟はもう帰つて来ない。
 両親の悲しみ、寂しさを見るにつけ、私は自分にいいました。
 これからもつともつと努力して弟の分も荷いましよう、と。
 当時私の生涯に大変化が起りました。
 従来私は思うままに学問の道に専念し、
 世のため人のため尽し得られる人になるため、
 東京に遊学しようと思うて居りましたところ、偶然弟が死亡した為に、
 私が田舎の祖先譲りの家の相続人となりました。
 適当の養子をえらんで家を立てるということとなりました。
 すると方々から人が来て、
 この家の息子さんはいい出来だからどうかと縁談を持込んでくるのでした。
 父も母も、開けた考えをもつていてくれまして、
 当人がまだその気になつていませんからと、
 いくつかの申込をことわつてくれる様子でした。
 どこまでも、当人の気持が第一、養子の場合とりわけそうだと、
 父が養子であつた経験からでもありましようか、大変慎重にしてくれました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

東京に行って学びたい、向学心の強い井上秀ならば、そう望むのは自然でしょう。
弟の死という不測の事態が起こらなければ、実現していたかもしれません。
明治女学校に進学したいと考え、当時の河原校長にまで相談して、
東京女子高等師範学校に入るための準備をしていた、そういう時期でした。
最愛の弟を失い、遊学の希望もかなわなくなり、結婚を強いられることになった、
その井上秀に、新たな希望の光をもたらしたのも、広岡浅子や亀子でした。

余談1
BSプレミアム「今夜はとことん! ピアノと日本人」、面白かったです。
シーボルトがはじめて日本に持ち込んだピアノが、萩にあるとは知らなかった。
明治時代、音楽取調掛の初代長官の井沢修二が取り上げられたものの、
あれ、日本初の女子留学生だった、瓜生(永井)繁子は紹介されなくて残念。
帰国した繁子は、音楽取調掛で、井沢修二のもとでピアノを教えた。
実技試験の記録、幸田延の名前が出ていましたが、彼女も繁子の教え子。
ピアノで身を立てた、繁子はその初期の女性なのに。

余談2
「ひよっこ」、みね子が島谷に「ありがとう」と言う機会が訪れるのか、どうか。
早苗が言うように、たかが恋の1つが終わったくらいで、人生に決着はつかない。
いつかハッピーエンドになれば、それでいいのだ(ドラマはまだ終わらないし)。
退職金は当然、嫁入り道具を鈴子が用意するのは、高子に身寄りがないから?
昭和42(1967)年4月、3月には島谷は大学を卒業したはずが描かれない。
このあまりにあっさりとした別れは、今後の再登場を予感させるものなのか。
あかね荘にお引越しの愛子さん、住人たちとも富さんとも親しく。
独身女性が1人で生きてきた愛子さん、対人スキルが高い。
川本世津子、食べるために働いてきた、女優さんでも、みね子や皆と同じ。
みね子の方言にやはり反応しているのは、実が関わる?