日本女子大学校の開校

井上秀にとって、明治34(1901)年4月20日は忘れられない記念日でしょう。
日本ではじめての女子のための大学校、日本女子大学校が開校した日です。

 明治三十四年四月、東京目白台(高田老松町)に、
 新建築の日本女子大学はいよいよ開校の運びとなりました。
 この地は東京の西北部にあつて、目白駅と、江戸川との中間にあたり、
 樹木多く、空気清爽で、都会特有の喧騒とは遠く、
 裏手には有名な雑司ケ谷の鬼子母神、
 少しくはなれて護国寺の一廊が鎮まつており、南の方は明治の元勲、
 山県公の宏大な邸宅とむかいあい、この一帯の高台の根を還流する
 浄水の流にはいくつもの橋が、かかつています。
 すでに明治二十年の中頃に創始された、大隈侯を校長とする早稲田大学は、
 橋のむこうの低地一帯にひろがつて活気を呈していました。
 日本女子大学も、早稲田大学も、交通は便利とはいえなかつた。
 しかし、学生たちは、健脚の持ち主です。
 或る者は自転車で攷々として通いました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

現在のイメージとはちがいますが、目白キャンパスのあたりは、
「都会の喧騒」からは遠く離れた、東京の中で静かな、緑多い土地でした。
当時、自転車で通学する女学生もいたよう。
竹久夢二の「女子大学」と題する絵でも、自転車が描かれています。
井上秀は、当初、英文科を志望していたとのことで、
だからこそ、入学をひかえてミス・カーの英語塾に入ったのでしょうが、
結果、入学したのは家政学部でした。
広岡亀子は、縁談がまとまったために入学しませんでした。

余談
「ひよっこ」、川本世津子は、「雨男さん」とどんな2年半を過ごしてきたのか。
標準語で、敬語で、みね子に経緯を語る実。
マンションのベンチに座っていた「雨男さん」、怪我だらけ、手には血。
そこに戻ってきた川本世津子、「昨日もそこに座ってましたよね」。
ああ、川本世津子が「雨男さん」にあげた傘を、「雨男さん」がみね子に。
そのときは、まだ奥茨城のなまりがあるような。
女優の自分のことを知らない「雨男さん」に、「なんか面白い」。
女優、ということを抜きに、接することができたのか。
(別人になれる女優、でも、その女優の彼女が素の自分でいられるのかな、
女優というレッテル抜きに、ひそかな安らぎがあったんじゃないか。)
みね子や周囲と話すときと、どこか口調のちがう川本世津子。
「子どものころ、学校行ってないから、勉強したりするの好きなんだよね」
戦争で? 貧しくて? 子役だったから?
川本世津子は病院と警察に行こうと行ったけれど、「雨男さん」は断った。
自分が何か人を傷つけたり、殺したりしたと思って、恐かったから。
家族のためのお金を守ろうと抵抗して、怪我をして、家族を忘れてしまった。
(川本世津子はきっと、「雨男さん」がいつか消えちゃいそうで恐かった。)
川本世津子は雨の日に実に出会い、雨の日にみね子に会わせたことに。
(降り出したのは、マンションに着いてからだけれど。)
「雨男さん」、「ただいま」と川本世津子の部屋に……。
『はいからさんが通る』では、吹雪の中でラリサは少尉を見つけて、
少尉にロシア語を教え、夫の身代わりにする。

Tag:広岡浅子 

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