2017
08.10

桜楓会の設立

Category: 広岡浅子
井上秀は、「大略の自伝」の中で、同窓会組織「桜楓会」の設立も記しています。

 私が第一回卒業生となつた前年、明治三十六年四月二十日、
 桜楓会は誕生しました。
 附属高女は、もう二回目の卒業生をおくり出すのでした。
 同窓会をつくろうということは、高女の第一回卒業生を、おくり出した直下から、
 よりより話し合いされていましたが卒業生の大凡が、大学に進みましたので、
 いづれ、そのうちにという事となつていたのですが、
 高女の第二回卒業生も出来て、地方へ帰るのも、ぽつぽつあり、
 今一年たてば大学生たる私達も社会へ、旅だつので、
 是非此際同窓会を組織したいが、世にありふれた同窓会でなく、
 もつと大きな目的をもつ、いはば、母校のために活動力を、
 もつものにしたいのだと、一人がいえば、又一人が応じ、
 ついに、全体の輿望となつたのです。
 大学生の在学生である私たちも、その準会員としてその会員になり、
 会員たる資格養成に努力することになりました。

普通の同窓会組織ではなく、「もつと大きな目的」をもち、
「母校のために活動力」をもった会にしたい、として設立された桜楓会。
その名称は、母校の徽章である花紅葉にちなみ、成瀬仁蔵が決めたとか。

 明治三十七年四月、大学の第一回卒業生、
 家、国、英、を併せて百二十名のうち、家政科の玉木直さん、
 宮崎千代さんと私の三人は母校に留まり教職につき又、
 国文科の八人、英文科の四人も同じくのこり、
 みんなで十五人が、桜楓会のいわはば(ママ)幹部でした。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

幹事長を仰せつかったのは、井上秀でした。
最初の卒業式を迎えた翌日、およそ1年余の準備期間を経て、
大隈重信、広岡浅子、教員たち、準会員の3年生も参列して、総会を開催。
会長は校長の成瀬仁蔵、副会長は学監の麻生正蔵。
広岡浅子の発議によって、創立委員夫人らによる、
経済的、精神的に桜楓会を援助する、桜楓会補助団も成立することになる。
ここには、広岡亀子や一柳(ヴォーリーズ)満喜子も名を連ねました。
三井寿天子の寄付で、校内に桜楓館が建てられます。

余談
「ひよっこ」、進の無邪気さによる救いとちよ子の成長が際立つ。
すっかり茨城弁になり、谷田部家の味を美味しいと頬張る実のいる食卓。
「実って、いい名前ですね。好きです」
やはり実が好きだ、もう一回好きになってくれっかな、と言った美代子と同様、
記憶を失ったことで、実は、農家の長男の生き方を選び直すのだ。
雨だったのは、ロケの日がたまたま悪天候だったのだろうけど、
雨男さんとして過ごした時間も抱え込んで戻っていく、そんなイメージもある。
みね子が実に再会したのも、雨の日だった。
「黒革の手帳」で、武井咲さんが再評価されていますが、個人的には、
「忠臣蔵の恋」のとき、もっと早くに成長が指摘されなかったのが不思議です。
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