2017
08.11

女学生の「功名心」

Category: 広岡浅子
井上秀は、当初は英文科を志望していたものの、家政科に入学しました。
それがまた、彼女の人生を大きく導く岐路となりました。
開校した当時は、家政科への志願者は少なかったようです。

 日本女子大学は明治三十四年四月二十日、創立の当初から、
 国文学部や英文学部と併んで、家政学部が置かれました。
 そして、日本女子大学に入学しようと志すものは、まず、
 英文学部であつたり国文学部であつたりで、
 家政学部へ、志願するものは少なかつたのです。
 私にしてもそうでした。
 何でも英文学部に入つて、英語が話せる様になり
 それから外国にも出掛けて研究もしたいと思つたものでした。
 当時、日本女子大学に集つた生徒の全部とはいわないまでも、
 多くのものが、功名心に燃え立つている人々でした。
 我れこその思い上つた有様で、いろんな方面からの人が集つたので、
 年齢からいつても、十代から三十代近くまで、
 境遇からいつても、娘あり、妻あり、離婚婦人あり、女先生だつた人あり、
 女事務員だつた人あり、中には商売繁盛をもくろんで
 (料理庖丁を売りひろめるため、等々)入りこんだものもあり、
 文字通り、てんやわんやの雑然さだつたのです。
 この玉石混交の学生たちを訓陶して桜楓会員共通の魂をどの生徒にも与え、
 皆を一団として、桜楓会精神を作り上る為には
 成瀬先生は非常な骨折であつたとおもいます。

そもそも、井上秀自身がすでに26歳、夫があり、娘(支那)を生んでいました。
境遇も、年齢も、バックボーンをさまざまにもった、女学生たちでした。
平塚らいてうが上級生に反感をもったのも、年齢差が理由でもあったはず。
「功名心」あればこそ、家政といった方面に進みたくはないのもわかる。

 功名心に燃えて入つて来た人々は、家政学部なんか目もくれなかつた。
 又、そうでない人々でも、『女子大学だからと云つて、
 大学という以上は、御料理をしたり、洗濯したり、
 女中のすることを学科に組み入れてあるのは、
 大学として価値を下げるものだ』として
 日本の所謂学者の間ですら該々たる反対の声もありました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

とはいえ、平塚らいてうは、家政科ならば、と親に入学を許されたといいます。
現在、「家政」という名のつく学科が減り、名称変更している事情も……。
しかし、成瀬仁蔵は、とりわけ家政科に期待を込めていたのです。

余談
「ひよっこ」、身体が覚えたことは、眠っていても、記憶を失っても、できる。
戦争から、東京から帰って、行き直すことを選んだ実と宗男。
土砂降りの中の田植え、「大丈夫け?」と口々に言いながら、答える人たち。
つらいことや悲しいことは、笑ってしまえばいい。
誰でも、忘れてしまいたいことはある。
(雨の日は川本世津子と出逢った日を思い出さないのかな、と思ったり。)
あの稲刈りのシーンの回想、何も変わっていない、覚えていなくても。
終戦記念日は来週、でも、今週は広島、長崎の原爆の日があった。
その週に、「ひよっこ」は、失ったものがあっても大丈夫、ということを描き、
(録画スペースをあけるために見直した)「花子とアン」では、同じ週、
関東大震災で大変なとき、そんなときこそ、物語の本を作るべき、と描いた。
こういうときこそ、花子の物語の本を待っている人がいるだろう、と伝助。
そして、蓮子は奇しくも、「帰る家があるって、うれしいことね」。
「最上のものは、過去にあるのではなく、未来にある」。
その台詞が、「ひよっこ」とも重なって、響きます。
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