2017
08.16

広岡浅子への感謝

Category: 広岡浅子
井上秀は、「大略の自伝」の後半部でも、再び広岡浅子に触れています。

 日本女子大学および桜楓会、そして私の深く、
 感謝している女の方は故広岡浅子刀自であります。
 この方については、これまでに何回か申して来ましたが、
 ここに特筆する訳は、故人への敬愛が、女子大学のつづく限り、
 桜楓会のある限り、又私なり、私の子孫が長く長くこの方に感謝し、
 御冥福を祈りたいからであります。
 幕末から明治維新初期にかけて、野村望東尼、太田垣蓮月、村岡の局、
 降つては税所敦子、下田歌子、樋口一葉、河原操、
 奥村五百子という方々が文化、文芸、
 教育其他の方面で活躍されておりますが、
 実業方面にはこれぞという方はありません。
 これというのも、その頃の日本が、政治経済の方向に、
 女の人の活動を許さなかつたことに大きい原因はあるのですが、
 その許されない社会状勢の中で、才能を発揮し、相当の実績をあげた婦
 人実業化の随一人に広岡浅子夫人を見出すのであります。
 江戸幕府の瓦解、つづいて廃藩置県と大きい変化が相次いで起り、
 上下、ただならぬ雲行の中で、打ちのめされたようになつたのは
 武士につながる仕事をしていた商売ですが、
 大阪の有名な両替星だつた加島屋とその一統、鴻ノ池とその一統、
 これが休業に近い有様となりました。
 加島屋と、鴻ノ池とは、大阪で諸大名相手の両替、
 御用商人として両大関の観を呈していた。
 何れまさり劣りのない老舗であり、素封家でありました。
 この相手方ともが、新時勢にまきこまれて、青息吐息という事になり
 使用人は分散するし、それまで気楽だつただけに、
 当主のしよげ方は大きいものでありました。
 加島屋ではこれから何をして店を繁栄させようかという事についての
 一族の相談会も度々開かれました。
 当主は若く、所謂、ボンボンでしたから、意気消沈、ただ嘆息をつくばかり、
 広岡久右衛門という方が「御本家」でこちらは「新家」と申されていました。
 本家も新家もおうように育つて来ている人たちなので、
 機に応じて身を処する方法が分らなかつたのも無理はありません。

歴史的な位置づけから、広岡浅子の女傑ぶりを説明しています。
文化、文学や教育の面で活躍した女性はあっても、女実業家はいない。
明治維新の当時の混乱については、広岡浅子や亀子から聞いていたのか。
若い当主の「ボンボン」というのが、広岡信五郎でしょう。

 この加島屋の新家の若夫人が浅子さんでありました。
 当時三十四五歳、一人娘さんの母でありましたが、
 父親似と申していいのでしよう。
 (父、三井一家の一人)
 実業に興味をもちなかなか着眼点がよい人でありました。
 生年月日の正確なことは分りませんが、多分嘉永年間の御出生と思います。
 幼少よりお附きの人々から和漢の書を教えられ、
 当時の女性としては十二分にもつた教養が、
 その男まさりの性格を益々立派にしていました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

亀子という「一人娘」をもちつつ、父の三井高益譲りの資質を備えていた。
それというのも、広岡浅子は、ただのお転婆ではなくて、
「和漢の書」による「十二分にもつた教養」があってこそ、名をなした。
この筆致は、いかにも井上秀らしいといった感じです。
わからないとしていますが、広岡浅子は、嘉永2(1849)年の生まれ。
ちなみに、奥村五百子(や新島八重)は、弘化2(1845)年、
下田歌子は安政元(1854)年、樋口一葉は明治5(1872)年に生まれました。
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