井上秀の涙

井上秀は、日本女子大学校の第1回生として、母校にその人生を捧げました。
成瀬仁蔵のまさに「長女」として、井上秀は責任感と使命感を全うして、
16年もの長い期間を校長として学園を守り、戦争の時代もその任にあたった。
日本女子大学校校長、附属高等女学校校長、附属豊明小学校校長、
附属豊明幼稚園園長として、卒業生初の責任を担いました。
大学葬は、昭和38(1963)年9月21日、成瀬記念講堂において行われましたが、
そのときに、葬儀委員長・学長として、上代タノは次のように述べています。

 ここに先生のお働きの一々を述べることはできませんが、
 たとえば次の一事だけでも深い感銘として
 われわれの記憶に鮮やかなことであります。
 即ち先生は昭和十六年の日本女子大学創立四十周年を目標として
 女子綜合大学の実現を期し、その第一歩として
 理事故三井高修氏の熱心な協力を得て西生田に十数万坪の土地を求め、
 ここに校舎と寮舎の建設を始められました。
 戦争によて、この計画は中断しましたが、この綜合大学の建設こそは、
 成瀬先生の教育体系の基本をなすものでありました。
 井上先生の西生田開拓は、
 この創立者の悲願を実現しようとする努力のあらわれであります。
 この十六年間にわたる井上先生の校長としてのお働きによって、
 日本女子大学校は一大飛躍をとげ、
 本大学が今日の隆昌をもたらすための基盤をつくりあげられたのであります。

西生田キャンパスを「開拓」したのも、井上秀の功績の1つであり、
それは、成瀬仁蔵が理想として、「女子綜合大学」の建設を意味していました。
現在の日本女子大学の礎を築いたのは、井上秀だった。

 不幸戦後追放にあわれ、数年間公職を離れられましたが、
 先生はそれを得難い修養の機会として理想と読書とに活用し
 建学精神をいよいよ深く探求してその真意を体現されました。

学園とともに生きた井上秀にとって、戦後の公職追放はつらい時期でした。
娘の菅支那も、その時期を振り返っています。

 長い母の一生の間には、いろいろの事があったが、
 わけても大学本科の方針変更問題で学内に大動揺が起こり、
 私も心配の余り、目白の家で一夜をまんじりともせず、
 母と泣き明かしたことがあった。
 戦後は公職追放で、三年間、校門もくぐれなかった。
 そのため、何かと母校に重要相談があると、当時、
 母校正門前にあった私の家に泊った。
 母校の大切な会議も、そこが会場にされることもあった。
 そして、無意識裡に足が校門に向かうと、ふと、
 「ああ! こんなところに行っていた」
 と自分をたしなめるようにいうのを聞いて、
 母が無性に気の毒になり、思わず眼に涙したこともある。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)
 
夫の井上雅二が死去したときでさえ見たことがない、という井上秀の涙。
菅支那がそれを見たのは、公職追放の憂き目にあったときだった。
愛する学園に足を踏みいれられない、というのは、井上秀の最大の「不幸」。
しかし、その時期も、井上秀は学園に深く関わっていたようです。
当時、日本女子大学の正門前に菅支那の自宅があったらしい。
日本最初の女性哲学者となった菅支那の夫は、菅円吉(立教大学名誉教授)。

Tag:広岡浅子 

四季の花時計
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
FC2カウンター
プロフィール

もも

Author:もも

カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
月別アーカイブ
最近のコメント
最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索