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壽代=久栄の学力

徳冨蘆花「黒い眼と茶色の目」、敬二=徳冨蘆花と兄の関係性は一筋縄でない。
実際にも、小説の中でも、それは同じでした。

 慣例の期初の室換があつて、敬二は東部の新七寮二階東南隅の
 三人詰の朗かな好い室に移された。
 同室は邦語神學の人が一人、一年生が一人。
 敬二は室の東北隅にテーブルを据ゑた。
 テーブルには度々の催促で東京の兄から送つて來た
 飯島先生の序文がついた再版の『未來之日本』と
 『人民之友』の初號と二號がのつて居た。
 『未來之日本』はますます版を重ね、『人民之友』」も中々の好評で、
 號を逐(お)ふて人氣が加はると云ふ風評(うわさ)は、敬二の鼻を高くした。
 昔から兄をエラく思ふて居た敬二は、
 兄の成功を當然に思ふて少しも怪まなかつた。
 まだ自分の使命をはつきりし得ない二十歳の夢見がちな靑年は、
 『唯憾(うら)ム、阿兄ハ入ツテ東坡ノ大名ヲ擅(ほしいまゝ)ニシ玉ヘド、
 劣弟未ダ子由タル能ハザルヲ』など大きなことを書いた。
 此兄弟は昔から寄ると喧嘩し、離れてさへ居れば仲が好かつた。

敬二=徳冨蘆花の恋は、立派な兄に対する劣等感を背景にも描かれます。
「寄ると喧嘩し、離れてさへ居れば仲が好かつた」とは、まさにそう。
テーブルの上には、兄の成功の証である、『未來之日本』=『将来之日本』、
『人民之友』=『国民之友』とともに、「アツプルトンの第五讀本」も置かれている。

 敬二のテーブルには、其外にアツプルトンの第五讀本ものつて居た。
 此は壽代さんから借りたので、其 Blank page には、
 This look belonge to Hisayo Yamashita と手習をする様な字で書いてあつた。
 壽代さんは協志社女學校の四年生で、此本はもう濟ましたのだが、
 實際どれ程解せて居たかは無論疑問であつた。
 敬二はある時荒神口で「A department of fine arts」と云ふ
 簡単なフレーズを出して、壽代さんを試みた事があつた。
 department は知らず、fine arts は『キレイナ技術』と直譯した。
 彼女は四年生だが、とつて十七、副社長の女(むすめ)は、
 其私立女學校を進むに大した學力を要しなかつたのだる。
 但彼女は讀んだり書いたりが好きである事は、言葉の端にも知れた。
 敬二は壽代さんの手ずれた此栗色の背革
 オリーヴ色のクロースの表紙のついた本を大事にして、
 時々其頁を披(ひら)いて眼の痕手の痕を捜す様に翻へしたが、
 稀(たま)に鉛筆で譯語が書き入れてある外は、
 何も見出すことが出來なかつた。
 でも敬二はある擔保の如く此書を大切にして居た。
 (『徳冨蘆花集 第11巻』日本図書センター、1999年)

協志社=同志社の女学校では、壽代=久栄はプリンセスのような存在で、
「大した學力を要しなかつた」とは、そうにちがいありません。
それにしても、小説は、壽代=久栄の学力に対して辛辣すぎます。
漢字を知らないとか、英語がわからないとか。
これは、女学生に対する当時の世間の見方と重なるのかもしれない。
ただ、壽代=久栄には、文学的な関心はあったようで、
「讀んだり書いたりが好きである」ことが窺われる、というのです。
貸してもらった副読本は、敬二=徳冨蘆花にとっては「擔保」でした。