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窪田伊佐は女紅場の授業補となり、看病婦学校で学ぶ

新島八重の姉である窪田うら(浦)の娘、八重の姪についても気になります。
八重の姉の一家がいつ上洛したのかも、よくわからない。
しかし、明治8(1875)年には、すでに京都で暮らしていたはずです。

 權舎長兼敎導試補
 明治5(1873)年4月25日~明治8(1875)年11月17日 山本やへ
 授業補 明治8(1875)年4月~明治18(1885)年8月29日 窪田うら
 一等舎長 明治8(1875)年2月7日~明治14(1881)年8月26日 蘆澤鳴尾

春錦會・鴨沂會『創立六十周年記念誌』(1932年)に、このように見えるからです。
明治4(1871)年に、八重が母の佐久、姪のみねとともに米沢から上洛し、
暮らしが安定したころに、呼び寄せたか、後を追ってきたか。
八重の退職のおよそ半年前に、姉の窪田うらが女紅場に奉職していました。
それから10年後、明治18(1885)年に退職したことがわかります。
この年、山本覚馬、時栄夫妻と娘の久栄が受洗し、
年末には、時栄の「不祥事」が発覚するという騒動がありました。
職を辞した窪田うらが、その一大事にあれこれと関与する時間もあったでしょう。
その夫と思われる、窪田仲八の斗南藩の記録が見出せます。
斗南藩の米田村、そこに「東京府寄留」として「窪田仲八」の名前があります。
(星亮一『会津藩 斗南へ―誇り高き魂の軌跡』三修社、2017年)
斗南藩の米田村に移り、さらに東京に、また京都に流転したことになります。
また、窪田うらの娘である、窪田イサ(以佐)は女紅場の女学生だった?

 八重が生徒指導に力を注いだであろうことを思わせる資料がある。
 アメリカ建国百周年を記念する万国博覧会
 (一八七六年五月十日~十一月十日、フィラデルフィアで開催)
 に女紅場からも出品、
 「明治九年 二月 米国博覧会出品製造人姓名記 土手町 女紅場」
 (京都府立総合資料館所蔵資料)が作成された。その中の
 「屏風類張入高福剪綵(せんさい) 三種」という作品の製造人筆頭に、
 「山本覚馬妹 山本八重 三十一年五ヶ月」という記載がある。
 以下、九名の女性との名前が続く。
 八重が自らも製作しながら、生徒たちを指導して作品を作らせたのであろう。
 女紅場で製作した作品を国内外の博覧会などに出品させるのも、
 いわば京都の勧業政策の一環であった。
 ところで、明治九年二月と言えば、すでに八重は新島襄と結婚している。
 また、前年の十一月には女紅場を解職になっているにも関わらず
 作品製造人の中に名前が残っている。
 他の作品製造人に「覚馬厄介 山本いさ 二十二年三ヶ月」がいる。
 この女性は誰なのだろう。
 山本家に直接の関係があるのか無いのか。
 この資料は、おや?と思わせる点があり、興味を引くものである。
 (日比惠子「八重と教育」
 同志社同窓会編『新島八重 ハンサムな女傑の生涯』淡交社、2012年)

剪綵(押絵)の製作は、八重が退職する以前に行われていたのでしょう。
作品は銅牌を受賞し、高い評価を受けたようです。
問題は、その作品製造人として、八重とともに載る「山本いさ」という名前。
(槇村正直の娘、槇村むめも載っているとか。)
この人物こそ、八重の姪であり、窪田うらの娘にあたります。

 伊佐は女紅場(京都府立の女学校)の学生でした。
 一八七六年二月の学校記録では、
 「覚馬厄介 山本いさ 二十二歳三か月」とありますから、
 山本家に同居しているか、経済的に「厄介」になっていたんでしょうね。
 年齢から逆算すると、生まれたのは一八五四年ころです
 (日比惠子「八重と教育」八三頁、同志社同窓会編
 『新島八重 ハンサムな女傑の生涯』、淡交社、二○一二年)。
 伊佐は、八重のおよそ九歳下です。
 伊佐の子、つまり浦の孫に安栄という娘がいて、
 同志社を出た鈴木彦馬と結婚します。
 鈴木は会津出身で、在学中から八重にとても可愛がられていました
 (『八重さん、お乗りになりますか』二二九~二三〇頁)。
 ついでに言えば、山本家の「親戚」にあたる窪田義衛という学生が、
 同家にたえず出入りしていたのを同志社初期の学生が目撃しています
 (本間重慶「創立当初の事情、問合わせ先其の他に就て」、
 『同志社校友同窓会報』一九二六年一一月一五日)。
 義衛は初期の同志社に学んだ学生で、窪田浦の縁者と考えられます
 (『八重さん、お乗りになりますか』二二三~二二五頁)。

この八重の姪は、職員名簿には見当たらず、女学生だったと判断?
上洛したばかりの窪田家は、山本覚馬の家に「厄介」になっていたのかも。
ところが、伊佐もまた、女紅場の「授業補」となっていたようです。
前掲の春錦會・鴨沂會『創立六十周年記念誌』(1932年)に、名前が見えます。

 授業補 明治11(1878)年6月6日~明治17(1884)年2月28日 山本いさ

卒業後、そのまま学校に残った、ということでしょうか。
母の窪田うらとともに、この母と娘も女子教育に携わっていたのです。
加えて、この山本伊佐は、看護婦の勉強もしていました。
新島襄が設立した、京都看病婦学校の卒業生名簿に載っています。

 第三回 明治23(1890)年6月 角田(窪田)イサ (福島)
 (『京都看病婦学校五十年史』1936年、 京都看病婦学校同窓会)

新島襄の死の直後、窪田が旧姓、結婚して角田姓に?
生活の自立を目指したのか、山本覚馬の看病に応用したかったのか。
窪田うらの孫である安栄は、同志社女学校に通っていたようです。
時栄、久栄と似たネーミングからして、山本家と密着していたと想像され、
『同志社女学校期報』の索引にも、「鈴木安枝」が見出されます。
新島八重は、留守居を任せるほど、会津出身の鈴木彦馬を信頼していました。
そうした人と新島八重の姪が結婚していた、ということになります。 

Tag:山本久栄 

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