2017
09.07

雛田千尋も寮監だった

Category: 広岡浅子
『女子高等教育における学寮 日本女子大学 学寮の100年』を入手。
新潟女学校時代の成瀬仁蔵の教え子であり、中退後、
東京女子高等師範学校を卒業し、大阪で教えていた雛田千尋も、
日本女子大学附属高等女学校で教えるようになったのと、おそらく同時に、
日本女子大学の寮監になっていたことが、わかりました。

 開寮初年度の三棟八寮の寮監は、
 一寮の寮監が寮生の井上秀(家政一回生)・丹下花(国文一回生)、
 二寮が井上の兼務、三寮が寮生の玉木直(家政一)と
 児島惟謙の紹介による穂積銀(女子高等師範学校)、
 四寮が巌本善治の紹介による平野浜(フェリス女学院)、五寮が石原咲、
 六寮が佐野篤、七寮が岩井信(英文一)、八寮が丹下ウメ(家政一)であった。
 一九〇二(明治三五)年に富士寮へ杉田すが(同志社女学校)、
 翌〇三年には責善寮へ雛田千尋(梅花女学校)らが招聘された。
 他の女学校出身者が、寮監を勤めたのは、
 各女学校の長所を採り入れ、理想の寮を作り上げるためである。
 また、その女学校からの入学者を確保するためであったとも考えられる。
 招聘された寮監のほとんどが本学の高等女学校の教員との兼務であり、
 後に大学の教員になった者もいる。
 (『日本女子大学叢書4 女子高等教育における学寮』ドメス出版、2007年)

雛田千尋は、明治36(1903)年になってから招聘された、というわけです。
日本女子大学の開校から2年後、ということになります。
梅花女学校から移動、となっていますが、その点はまだ不明です。
大阪高等女学校、堂島女学校の教員だった、とされます。
(梅花女学校の生徒は、無試験で日本女子大学校に入学できたとか。)
また、その前年から寮監となった杉田すがは、同志社女学校の舎監でした。
元良(杉田)勇二郎の母で、同志社女学校で舎監をしていたのは、
明治16(1883)年から明治18(1885)年で、すでに経験者であったわけです。

余談
「黒革の手帖」も残り1回、結婚と妊娠を発表しての放送でしたが、
武井咲さん、クランクアップと同時に、10月クールのドラマのポスター撮りも。
ローヒールだったから、すでに妊娠がわかってからの撮影かな?
でも、まだドラマの関係者にも打ち明ける前だったのか、
走ったり、非常階段を降りたり、階段から転げ落ちたりして驚きました。
どのような撮影をしたのかはわかりませんが、彼女の覚悟を感じました。
妊娠がなくても、転げ落ちるのはさすがにスタント?
コウノトリのご機嫌は、理屈だけではどうにもなりません。
2017
09.06

井上秀や大岡蔦枝、開校前に入寮

Category: 広岡浅子
井上秀や大岡蔦枝は、日本女子大学校の開校式よりも早くに寮に入り、
開寮のための準備に尽力して、いろいろと苦労をしたようです。
大岡蔦枝は、次のように書いています。

 女子大学は明治三十四年四月二十日が開校式でしたが、
 私は寮監の先生方と共に四月初めに女子大の寮舎に引移りました。
 それは、井上姉が第一寮に引移られたからであります。
 私も井上姉と共に寮舎に移りました。
 勿論、それ以前の三月頃に、
 成瀬先生が校内の校舎にお引越しになる時にお手伝に参り、
 引続いて麻生学監も校舎にお引移りになりましたが、
 そのお手伝も致しました。
 今思い出しても気恥ずかしいことは、
 校長宅の玄関へ帽子と外套掛けを十個並べて大工に打たせた事であります。
 後、井上姉に注意されて各室に二、三個づつ分けて、
 玄関へは三個だけ残した事であります。
 その後にも、校長宅へ伺う毎に思出しては、一人で苦笑して、
 私の二十歳頃は物を知らない田舎者であって、
 いかにも常識の欠けた自分であった事を思出しています。
 それでは今日はどうか、という事になりますが、今もやはり田舎者でございます。

成瀬仁蔵は、女学生たちの寮の近くに自宅を構えましたが、
その引っ越しも、麻生正蔵の引っ越しも、井上秀や大岡蔦枝が手伝った。
開寮準備が一段落して、勉強に集中できるまでは、大変だったよう。

 明治三十四年四月の始めに、寮監先生五、六人と一緒に
 私も寮舎生活を始めましたが、各寮の寮開きのお手伝を毎日致しました。
 校内の裏北側の街道に沿って和風寮七寮が建築されてありましたが、
 第一寮から第七寮迄の一と通りの掃除から、
 台所、洗面所等にそれぞれ必要な品々を整えることなどまで致しました。
 そして私は第五寮へ落着きました事であります。
 その当時、五寮へは入学と同時に
 二十四、五名の学生が入寮されたと記憶致しております。
 私は和歌山の生れで京都高女でありましたが、
 五寮には丁度関西の方が多く入寮されたので、好都合でした。
 明治三十四年開校の年の十二月頃、各寮に寮名をつけましたが、
 私共は成瀬先生の「成」と麻生先生(当時学監)の「生」をいただき、
 成生寮と寮名をつけ、その意味は、女子大に入学して精神的な霊が覚醒、
 即ち生れて、在学中に教養されて成長するとの内容を持たせて、
 大いに誇りと致した事であります。
 私等の寮にはなかなか女中が得られず、
 又寮監も第四寮の平野浜子先生が兼任をして、
 私等の寮である第五寮の面倒を見て下さっておりましたから、
 主婦役の私とクラスメートの野原けい子様とは、
 女中代りから時には寮監代理迄致さねばならなかった境遇でありました。
 開校当時の三、四ヵ月は夢中で暮しました。
 (大岡蔦枝『成瀬仁蔵先生』三月書房/古川志都子、1966年)

寮監となった井上秀や平野浜子らとともに、大岡蔦枝も開寮準備に尽力。
関西出身者が多かったという第五寮は、なかなか寮監が決まらず、とあります。
日本女子大学校編『日本女子大学校四十年史』(日本女子大学校、1942年)には、
開校当時の第五寮の寮監は、石原咲となっていますが、
当初は、第四寮と兼任で平野浜子がつとめていた、という事情らしい。
後には、平塚らいてうも、大岡蔦枝と同じ寮に入ることになります。
開寮準備で苦心したことは、井上秀も書いていました。

 私は先生のお敎に感じ入りまして、お示しの通りの家政科に入りましたが、
 こゝには實に私の不得手なもの、
 さうして他の何の學問よりも興味のないものが揃つてをりました。
 第一家政には根本にサイエンスの力が必要なのに、
 あゝいふ女學校を出た私にはそちらの方面の用意が乏しい。
 ほんとうをいへば私はもう人の妻であり母にもなつてゐたのですから、
 家政の方面では他の若い人々よりはいくらか分つてゐねばならない、
 こまかいことにも氣がつきさうなものなのですが、
 妻ではあつても夫は直きに海外に發つてしまつて、
 しみじみ家庭生活といふものを味はふ暇はなかつたのですし、
 子供はあつても國元で父母が育てゝゐてくれるのですし、
 相變らずの女書生、先生から寮監を命ぜられて、他の寮監の方々、
 先生ではフエリス女學校から見えた平野濱子さん、
 穂積陳重氏のお兄さん夫人の銀子さん、
 生徒から選ばれた方では丹下花子さん、
 また現在の神谷忠雄氏夫人などでしたが、
 集つて寮舎の道具を集める相談の際にも、
 穂積さんがお臺所の用品の方に龜の子笊までを落ちなく數へられる傍で、
 私はその龜の子笊が何なのか分らなかつたといふ始末。
 萬事この有様でどうも勝手が分らない。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

「あゝいふ女學校を出た」というのは、井上秀だけでなく、
大岡蔦枝も同じですが、勉強中心だったという意味でしょうか。
2017
09.05

大岡蔦枝、桜井女塾や女子英学塾で学ぶ

Category: 広岡浅子
以前にも当ブログで書いていますが、大岡昇平の叔母の大岡蔦枝は、
先輩の井上秀に導かれて、日本女子大学校に入学しました。
京都府立第一高等女学校を卒業後、補習科で学んでいた大岡蔦枝は、
日本女子大学校に入ることを前提に、井上秀に上京を勧められ、
明治33(1900)年8月31日、弟に伴われて、東京の成瀬仁蔵宅に向かいます。

 実は、私は女子大へ入学するについては、
 井上秀子姉に京都府立高女時代からお世話になっていたのでありまして、
 その関係で成瀬先生にも私の高女時代にも
 二、三度お目にかかったこともあります。
 高女卒業後、同校の補修科で勉学を続けていましたところ、
 京都にいるよりも上京して、東京で女子大入学前から
 見聞を広くするようにとの井上姉のお勧めにより、
 明治三十三年八月三十一日、丁度女子大創立より八カ月前に弟と同道
 上京致し、新橋駅で井上姉に迎えられ、成瀬先生のお宅へ伺いました。
 成瀬先生は、小石川表町一〇八番地におすまいでしたが、
 先生のお宅で七、八日間お世話になり、その後井上姉のお世話で、
 クリスト教的な桜井ちか子先生の塾長であられた
 本郷弥生町三番地にあった桜井女塾で、
 五カ月余りクリスト教的空気の内で教養されました。
 そして、午前中は麹町にある女子英学塾に参り、英語を学んでおりました。
 これが私の初めてのクリスト教的教育を味わった経験でありました。
 (中略)
 桜井女塾を出てから、井上姉の学ばれておった宣教師(英国婦人)の主である
 寮で二、三カ月お世話になりなど致しておりました。
 これが始めて外国婦人に接した経験でありました。
 とにかく、上京後東京の女学生風俗も大分解り、
 又クリスト教の事も少しは教育された事は、
 京都にいるより確かに有効でありました。
 当時迄は、私は学校以外の所で教養されることは、
 余り有効であるよう感じていませんでしたが、この半年余りの間は、
 学校外でも教養されるものであることを知る機会となったことであります。
 (大岡蔦枝『成瀬仁蔵先生』三月書房/古川志都子、1966年)

上京後は、ミス・カーの英語塾で勉強する井上秀や広岡亀子とちがい、
大岡蔦枝は、井上秀の紹介で桜井女塾に入った、といいます。
桜井女塾は、女子学院の元校長の桜井ちかの塾。
午前中は、創立されたばかりの女子英学塾で英語を学んだとは、
津田梅子やアリス・ベーコンとも、面識があったかもしれないのかしら。
成瀬仁蔵としては、大岡蔦枝にもキリスト教的な雰囲気を体験させたかったのか。
桜井女塾を出てからは、井上秀のいるミス・カーの学校の寮に移ったとか。

余談
(おめでたい会見から想起されたのは、夏目漱石と平塚らいてう。)
2017
09.04

井上秀、広岡家の令嬢を預かる

Category: 広岡浅子
京都府立第一高等女学校を卒業した後の井上秀は、何をしていたのか。
広岡亀子とともに泊園書院の藤沢南岳について、漢文を学び、
禅に励んだりしていただけではなく、仕立て物を請け負ったこともあったとか。
さらには、女学校の後輩の大岡蔦枝は、次のように書いています。

 井上先生は廿一才、京都市三本木町の柳原伯の別邸内の一棟洋館におられ、
 友人の土居原氏と共に禅の修業をされて居り、
 広岡家の令嬢二人を託されて居られた。
 私は十八才の九月から翌年の四五月頃迄そこへ
 お世話いただくことに成ったのである。
 (中略)
 井上先生は京都府立高女の卒業生ですが学校では秀才の方だと評判でした。
 広岡の令嬢も私も同じ高女で学ぶ時代でした。
 扨て其当時から先生は広岡家との関係もあり、
 又成瀬先生よりのご指導を受けて居られた様であります。
 その因縁で私も後に女子大学に入学する機会を得たことになります。
 この九月廿一日に母校校葬の由これは尤なことと思います。
 成瀬先生、麻生先生につぐ母校への貢献者は井上先生であります。
 井上先生は開校前五、六年間も成瀬先生、広岡浅子夫人に指導を受けられ、
 開校後に女子大にて働らき得べき必要なる教養を受け
 実施の修業を致された方であります。
 先生のご令弟の夭折に依り、ご両親のご希望にて婿君に雅二君を迎えられ、
 長女支那子様をあげられました。
 扨てその後は女子大開校の時に入学、活動のための準備に当られました。
 開校前一ケ年余り英国婦人宣教師の女子寄宿舎に先生は入られ、
 英語の勉強はもとより、洋風の礼儀作法等を学んで居られました。
 私も三ケ年間ばかり邸内別棟、日本食事の方でお世話になりました。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)

これは、『桜楓新報』第145号(昭和38(1963)年9月)掲載の追悼文です。
井上秀(と広岡亀子?)は、ミス・カーの英語塾に学びましたが、
「洋風の礼儀作法等」も身につけ、そこの寄宿舎に入っていた、とあります。
成瀬仁蔵としては、「洋風」の寄宿舎生活も経験させたかったのではないかしら。
また、大岡蔦枝も、その寄宿舎の別棟で暮らしたことがあったよう。
ここで注目すべきは、明治29(1896)年、井上秀が21歳のとき、
「三本木町の柳原伯の別邸内の一棟洋館」で、友人の土肥田京子とともに、
「広岡家の令嬢二人を託されて」おり、大岡蔦枝は、
そこにも「十八才の九月から翌年の四五月頃迄」いた、という点でしょう。
明治11(1878)年生まれの大岡蔦枝は、18歳で京都府立第一高等女学校を卒業。
卒業後は、同校の補修科で学んでいたそうですが、
そのあたりに、井上秀や土肥田京子とともにいた、ということでしょう。
「広岡家の令嬢二人」とは誰のことなのか、うち1人は亀子?
それとも、小藤が生んだ娘たちのことか。 
それにしても、それが柳原家の別邸であったというのも面白い。

余談1
ついに「ひよっこ」がクランクアップ、お疲れさまでした。
最後の場面は、みね子とヒデがすずふり亭から出かけていくところ。
劇的な何かが起こるというよりも、「ひよっこ」らしい日常で終わるのかな。

余談2
私は武井咲さんに期待していて、ここで結婚、産休というのは、
彼女の女優さんとしてのキャリアを考えれば、もったいないなとも思う。
でも、それはこちらの勝手な思い込みであり、彼女の幸せはわからない。
仕事の転機とプライベートの転機は、否応なく重なってしまうのかもしれない。
人生経験が糧になる女優の仕事、キャリアは続くはず。
早くも芸能生活10年以上、普通の23歳よりもずっと大人でしょう。
次々に仕事を入れるのは期待の表れだろうけれど、働き過ぎだった。
昨年7月から主演ドラマが続き、売れっ子とはいえ、尋常ではないスケジュール。
反発というよりは、そこからの逃避が恋愛だったんじゃない?
結婚、妊娠で批判されるのはお相手より武井さん側ばかりなのも、疑問。
たとえば、イオンのCMなんて、これを逆手にとって、
妊婦さんでも安心な商品紹介、出産準備もイオンで、とかどうかしら。
スーツの青山も、産休まで働く女性のためのゆったりスーツとか。
女性の人生に寄り添う企業って、素敵ではないか。
2017
09.03

井上秀、仕立て物を請け負う

Category: 広岡浅子
京都府立第一高等女学校を卒業した後の井上秀は、何をしていたのか。
広岡亀子とともに泊園書院の藤沢南岳について、漢文を学び、
禅に励んだりしていただけではなく、仕立て物を請け負ったこともあったとか。

 母は渡米を前に、二人の若い助手格の先生
 ーーそれが誰であったかは勿論知る由もないーーと帰省したことがある。
 洋装をするため、すでに不要になった
 衣類の整理をこの方々にして頂いていたのであろう。
 同窓の大岡蔦枝先生や岡野たか姉の話を総合すると、
 母は京都府立第一高女卒業後、
 生活のため衣類を仕立てる特技を生かしていたとのことである。
 従って、衣類に関しその扱い方、処置の方法など、
 母は相当の見識を持っていたものと考えられる。
 そしてその際、何着かの着古した袴を田舎の家において、
 渡米したものと思う。
 それらを小さく改造したものを、私は小学校二、三年頃よくはいた。
 既に着古されて、生地が弱くなっているので、
 通路狭く並べられた教室の机から、人知れず出ている釘でかぎざきをして、
 度々繕ってもらわねばならなかった。
 (『井上秀先生』桜楓会出版・編集部、1973年)


(留学に際し広岡夫人から贈られた服を着用して/同書より)

明治41(1908)年5月から、井上秀は、米国留学を果たします。
その際、広岡浅子から贈られた洋装で記念写真を撮っていました。
留学に際しては、広岡浅子のバックアップがあったでしょう。
京都府立第一高等女学校を卒業してから、日本女子大学校に入るまで、
すなわち、明治27(1894)年3月から明治34(1901)年4月まで、
少なくとも、東京の英語塾に入る明治33(1900)年までの6年間は長い。
その間に結婚や出産もしていますが、その間の生活を成り立たせるために、
得意だったという裁縫の腕を生かし、働いたということのようです。
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